エピローグ
初夏の爽やかな風が吹き抜ける競馬場にスカーレットの姿はあった。隣には夫のエリックがぴったりと寄り添っている。
彼は妻と一緒にいられるのが嬉しくて仕方がない様子で、彼女も満更ではない顔をしている。
誰が見ても仲睦まじい夫婦だが、実は2人は婚姻関係こそ続けてはいるものの、今は別居中なのだ。
何故こうなっているのかを説明すると、誘拐事件が落ち着いて少し経った頃に、なんとスカーレットの両親がこれ以上大事な娘を任せていられないと、彼女を実家に連れ帰ってしまったのである。
エリックの恐れていた離婚があわや現実になりかけたが、幸いにも彼女の取りなしで首の皮は繋がった。
その代わりに彼女の両親が『一緒に暮らしても良い』と認めるまで、時折デートを重ねる“婚約者期間”のような日々を続けている。
勿論スカーレットから見ても、緊張感も気不味い雰囲気もないデートらしいデートだ。その証拠に以前と違って今の彼女は、夫が隣にいてもとてもリラックスしていた。
今回のデートに競馬場を選んだのも、趣味がバレたのもあるが今の彼なら話しても良いと思ったからだ。
ポリッチ侯爵との関係はどうなったのかと言うと、今でも事業を始めとした仕事上の付き合いはあるが、結婚話は彼が身を引く形で完全に白紙となった。
その時の侯爵の言葉は、今もスカーレットの記憶に残っている。
自分が誘拐されたと知った時、エリックは真っ先に侯爵へと協力を仰いだ。妻を1分でも1秒でも早く助ける為に、恋敵にも躊躇せず頭を下げたのだと。
『彼は自分のプライドよりも、貴女の身の安全を取ったんですよ』
その言葉を聞いた時、鼻がツンとする感覚を覚えた。
侯爵はこのような事は伝えなくとも良かった筈なのだ。むしろ再婚を望むのであれば、わざわざ伝えるメリットなど全くない。
そうしなかったという事は2人に対する気遣いであり、彼女の背中を押してもいるのだ。
エリックへの情があるのなら、自分の為に怒り、自分の為に頭を下げた彼に恐れず向き合えと。
侯爵は素晴らしい人だ。自分とは縁がなかったが、いつか良い人に巡り会える事を願ってやまない。ウィリアムの母親になれなかったのは少し残念だが。
スカーレットは侯爵の助言を胸に、エリックに向けていた壁を取り払ってイチから関係を築いていった。
お互いに何を考え、何を心配していて何を期待しているのか。言葉を尽くして話し合い、少しずつ信頼を深めていったのである。
実家の両親はまだ一緒に暮らすのは早いと許してはいないが、離婚しろとは言わなくなったので、悪くはないと静観してくれているのだろう。
義両親も何かと気にかけてくれていて、本当に周りの人に恵まれていると、日々幸せを噛み締めている。
「ほら、エリック見て!あれがアレクサンダーよ!」
今では、すっかり慣れた呼び方をしながらエリックの袖をクイクイと引っ張る。怪我の功名と言うべきか、あの事件が起きてから彼女のエリックへの接し方に、程良く遠慮が無くなっていた。
エリックはスカーレットの仕草を可愛いと内心で悶えながら、彼女が指差す方向の馬を見遣る。パドックを落ち着いた様子で歩いている、黒味がかった毛色の馬は、なるほど王者に相応しい堂々たる佇まいだった。
競馬はあまり知らなくとも、貴族の嗜みとして馬を見慣れているエリックから見ても良い馬だと分かる。スカーレットが魅了されるのも頷けた。
「彼は古馬になったこれからが本格化なの!きっと去年よりも脚のキレは冴え渡っている筈よ!」
今からレースが楽しみだとキャアキャアはしゃぐスカーレットはとても可愛い。可愛いが、全く馬に嫉妬しないと言えば嘘になる。
だが彼女が自分の隣ではしゃいでいること自体が劇的な変化だ。それを考えると今は随分と前進している。
なに、格好良いとキャアキャア言ってもらえるよう、自分が努力すれば良いだけの話だ。何の問題もない。エリックは新たな決意を胸に刻んだ。
馬券の購入の仕方や、レースでの馬の走りを教示してもらえばあっという間に出走の時間となる。
彼女は好きな馬を探しても良いと助言をくれたが、エリックは結局アレクサンダーに賭ける事にした。スカーレットと一緒に応援したかったから。
馬達が開かれる瞬間を待っていたゲートが解放され、各馬が一斉に走り出す。周囲の声に負けないように、スカーレットもエリックも同じ馬に声援を送る。
その姿は自然体で緊張も気取ってもおらず、2人は今のこのひとときを心から楽しんでいた。
展開が進むにつれて声援に熱が入る。ライバル達との互角の戦いを一瞬たりとも見逃さないよう、目を皿にする。2人で手に汗を握って彼の勝利を願う。
そこには、かつて“当て馬”と呼ばれた夫人の面影は、もう何処にもなかった。




