幻想は壊された
「私も驚いたよ。貴女の好きなアレクサンダーは、競馬界を熱狂の渦に巻き込むスターホースだというのにね」
エリックの頭の中で俳優の顔が馬の頭にすり替わる。それはトリュー夫人も同じようで、あれだけ躍起になっていたのが嘘のようにポカンと呆けていた。
「競、馬……?馬……なのか……?」
トリュー夫人と同じように、てっきり俳優のアレクサンダーに夢中になっているものだと思っていたエリックは、噂の男のまさかの正体に一瞬怒りも忘れる。
「ええ。まだ話せていなかったけど、友人に連れられてから競馬がすっかり趣味になっちゃって。私の部屋に馬の絵が飾られているでしょう?彼が私の好きなアレクサンダーよ」
スカーレットはイタズラっぽく微笑む。彼女の部屋には、ある時期から精悍な馬の絵が飾られていた。確かに彼女の言う通り、凛々しく気品に満ち溢れている顔立ちだ。
社交でもらった絵を飾っているだけだと思っていたが、まさか彼があのアレクサンダーだったなんて。
心のしこりが予想外な展開で解消され、ドッと力が抜ける。この数ヶ月、馬相手に嫉妬して張り合っていたなんて、とんだ早とちりだ。
「馬……。馬ですって……?なら何であの劇を見に……」
「あれは好きな脚本家が手がけていたからよ。それに私、役者はヒロイン役の女優の方が好きよ」
呆気に取られていたトリュー夫人だが、狙い通りにならなかったのを理解すると、次第にワナワナと震え出す。
「ふざけないで!!」
間近で怒鳴り声を浴びた憲兵達が、嫌そうに顔を顰めた。
「何が馬よ!紛らわしい!色目使って媚売った上にギャンブル狂いとは!いよいよ救えないわね!」
今度はそういう方向に狙いをつけたらしい。確かに競馬はギャンブルの側面もあるけれど、スカーレットは馬達が織りなすドラマを見届けているのだ。使うお金も常識的な範囲内で収めている。
それに彼女の発言は競馬好きを敵に回すものだ。現にたった今、1人の愛好家を確実に怒らせてしまった。
「やっぱりお前にロイマー伯爵もポリッチ侯爵も相応しくないわ!ポリッチ侯爵!これがこの女の本性です!悪い事は言いませんわ!早く手を切って……」
「いやぁ、ギャンブル狂いとは耳が痛いなぁ!私も根っからの競馬好きなもので!」
トリュー夫人が言い切る前に、侯爵が大袈裟な身振りを交えて彼女の言葉を遮る。
スカーレットだけを罵ったつもりの彼女は慌てて首を振る。
「違うんです!まさか侯爵様がギャンブル狂いなんて!貴方様と違ってこの女は媚を売る事しか能の無い人間ですから、直ぐに依存して家の金を食い潰すに決まってます!ロイマー伯も今すぐ離縁した方が身の為だと、お2人の為に申し上げて……」
「黙って聞いていれば、貴女は何様だ?」
エリックの抑揚のない声が、やけに全員の耳に響いた。その言いようのない気迫に、夫人は反射的に口を閉じる。
「妻は……スカーレットは、努力の人だ。愚かだった頃の私が間違った対応をしていても挫けず腐らず。領地や交渉、社交について勉強し続け私を支えてきた。私はそんな妻に何度も助けられてきた」
彼は1歩1歩、夫人へと近寄る。淡々とした態度がかえって恐怖を呼び起こすのか、彼女は目を逸らす事も出来ずに委縮していた。
夫人の目の前まで来たエリックは、小柄な彼女をジッと見下ろす。
「彼女は今や、公私ともにかけがえのないパートナーだ。それを無能だと?彼女への侮辱は、例え神が許そうと私が許さない」
無表情で凄まれたトリュー夫人は、彼に見詰められている喜びよりも恐怖の方が勝るようでガタガタと震える。それに侯爵が追い打ちをかけた。
「それに、先程から貴女はロイマー伯爵を、妻選びに当て馬を選択するような非道な人間だと言い、この私を色目ごときで靡くような人間だと言っているも同然ですが、その自覚はおありかな?」
やっと自分の失言に気付いたようで目を見開くが、もう後の祭りだ。
「い、いえ、そんなつもりは……」
「ではどういうつもりで?」
黙り込むトリュー夫人だが、反省どころかスカーレットを睨みつける始末だった。まるでお前の所為だとでも言うかのように。
どうあってもスカーレットに責任転嫁する姿勢の夫人に、侯爵は冷ややかに口を開く。
「実は以前から、貴女が他の方とは違う目で私を見ていたのには気付いていた」
「え……?」
なんと、彼女は侯爵の事も好きだったようだ。彼女の頬が期待でほのかに色づく。だが侯爵の目は未だに冷めたままだった。
「貴女は独善的で視野も狭い。あたかも私達の為に彼女を排除しようとしたと言いたげだが、本音は『嫉妬』でしょう?」
「いえ、そんな……」
図星なのか額に汗を浮かべている。エリックも侯爵も、全て横取りされたような気がして、我慢ならなかったのだろうとスカーレットは推察した。
2人とも恐らくトリュー夫人の事は眼中になかっただろうに。
視線を彷徨わせる夫人だが、侯爵は言い訳の隙を与えなかった。
「それに私は、勝手に誰かを相応しいとか、相応しくないとか、主張する人間とは相容れなくてね。ましてやこんな事を企てた人間を後妻に迎えれば、私も息子も不幸になるだけだ」
「あ……」
もしかしたら彼に感謝される心積もりがあったのかもしれない。自分の行いが拒絶する要素しかないと断じられた夫人が愕然となる。
「私からも言わせてもらおう。見当違いをされたままでは心外だからな」
夫人の百面相を観察していたエリックが追撃する。
「私はフローラを幼馴染以上に見た事など1度もない。私が一目で恋に落ちて愛しているのはスカーレットだ。フローラも別れたソルロ伯を愛している。勝手に私達の気持ちを決めつけるな。迷惑でしかない」
「は……?」
単なる誤認だとハッキリ言い切られたトリュー夫人が、理解出来ない顔を晒す。
「それに今頃、フローラとソルロ伯の再婚が発表されているだろう。漸く障害の元を排除出来たようだからな」
「フローラさんとソルロ伯が……再婚ですって……?そんな馬鹿な……、きっと何かの……」
思考が追いついた夫人が信じられないといった表情で歪に口を歪ませる。悪い冗談ならよしてくれと言いたげだった言葉をエリックが遮った。
「間違いじゃない。あの2人が再び共にあれるように私が動いていたからな」
「発表……」
スカーレットがポツリと彼の言葉を繰り返す。エリックが直ぐにバレる嘘をつくとも思えない。
「じゃあ、スタンレイ家とロズウェル家を行き来していたのは……」
「ああ。早くあの2人が再婚出来るようにと……。誤解させてしまってすまない……」
彼は本当に2人の為に動いていたのだ。噂と違って。
妄執を砕かれたトリュー夫人は呆然と力尽きたように膝を突く。一方で意図せずこれまでの不安が綺麗さっぱり消えたスカーレットは、心の中で「なんだ」と呟いた。
(私達って遠回りしてたんだな……)
今となっては、あんなに本当の事を知るのが怖いと避けていたのが馬鹿らしい。
彼は変なところで抜けていて、自分は肝心なところで臆病で。もしかしたら案外似た者夫婦なのかもしれなかった。




