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貞操の危機

 馬車を乗っ取った男は暫く走らせると、人通りのない場所でスカーレットを降ろした。そこには自分達で用意したのか、質素な辻馬車と仲間らしき男が1人待っていた。


 このまま走っていては目立つから、此処で馬車を乗り換えるつもりらしい。


 「おっと、逃げようなんて思うなよ?俺にはこれがあるんでね」


 男の仲間が銃をちらつかせてスカーレットを脅す。そもそも銃が無かったとしても、ヒールで男達を振り切るのは無謀だ。ここは大人しく従うしかなかった。


 だが得意気に見せびらかしているお陰で、撃鉄を起こしていないのは確認できた。少なくとも今すぐ自分に死なれるのは困るらしい。


 此処までで道しるべ代わりに帽子と傘は落として来た。手元にあるもので落とせるのはイヤリングと、ハンカチ、それと以前エリックからプレゼントされた扇子だった。

 どれも小さくて道標とするには心許ないが、手がかりが全くないよりかはマシだ。


 辻馬車に銃を持つ男と共に乗せられる。銃口は相変わらずスカーレットに向けられたままだが、幸い身体を縛られてはいなかった。

 俯きながら隣に座る男が自分から注意をそらした瞬間を窺う。馬を操っている仲間との会話や、窓の外に気を取られている最中など、隙を見つけては素早く持ち物を落としていった。


 最初はイヤリング、次にハンカチ、最後に扇子を。誰かに持って行かれずにあの場に残っていれば良いが。


 辻馬車は暫く走ると、ある建物の前で停車する。


「ほら降りろ。雇い主様がお待ちだぜ!」


 降ろされたスカーレットは、建物を見上げて冷や汗を流す。やけに派手な外装、どこか漂う淫靡な空気、露出の高い服を着て誰かを待っている女性達、極めつけはコソコソと人目を避けるように中に入る男女の2人組。


 一目で普通のホテルとは違う雰囲気。そこはフリーの娼婦や、不倫関係にある者達が性行為目的に使ういかがわしいホテルであった。


(人質どころか貞操の危機じゃないの……!)


 これは早く見つけてもらわなければ危ない。何か自分が此処にいると分かるものを残せないか逡巡し、周囲の目がある事を逆に利用した。

 貞操の危機の前に恥じらっている場合ではない。スカーレットはスッと大きく息を吸った。

 

「まあ!何なの!?このみすぼらしい建物は!?」


 彼女はわざとらしく声を上げて、周囲の注目を集める。今まで大人しかった彼女が急に大声を上げた事で、男たちはビクリと肩を振るわせた。


「私はキーン家の人間よ!それなのにこんなホテルを手配するなんて!私を馬鹿にでもしているの!?」


 わざと家名を声高に叫び、この場にいる人間の記憶に残す。

 

「しかも何なの此処!?いつものロイヤル・パールホテルは!?嫌よこんな陰気臭い所!」


 更に王室御用達の高級ホテルの名を挙げ、此処がどういう場所なのか知らない、世間知らずな女を演じる。後でなるべく傷にならないよう、自分の意思で来たのではないと周囲に印象付けた。


「お前!いい加減にしろ!」


 銃を突きつけられ、さすがに溜まり込む。フンと鼻を鳴らしたが抵抗せずに中へと入った。


「いらっしゃい。首を長くして待ってたわ」


 スカーレットを出迎えたのは、普段から彼女を敵視しているトリュー夫人だった。


「……貴女の差し金って事ね。トリュー夫人」

「さぁ?何の事かしら?」


 トリュー夫人は白々しい台詞を吐くと、部屋に案内すると言ってホテルの中を移動する。スカーレットも男に促されて彼女の後を追った。


 各部屋の壁は薄いようで、あちこちからあられもない声が聞こえて来る。まだ初夜を迎えていない彼女には中々刺激が強かった。


「この部屋よ。少し時間があるからお話ししましょうか?」


 彼女と2人きりになればまだチャンスはありそうだったが、生憎とそうはさせてはくれないらしい。2人の男のうち、銃を持った男も部屋に入ってきてドア付近に陣取ったからだ。


 通された部屋は一見普通に見えるが、奥の天蓋付きベッドが強烈な存在感を放っていた。窓は嵌め殺しになっているし、中の人間を逃がさない構造になっていた。


「とても情熱的なお誘いだけど、私って同性をそういう目で見れないの。申し訳ないけど貴女の想いには応えられないわ」


 皮肉を込めてあえて恥じらうと、トリュー夫人の顔が一瞬で紅潮した。

 

「お黙り!アバズレのくせに!」


 阿婆擦れとは酷い言い草だが、相手は苛烈な性格だ。これ以上刺激するのは止めておいた。

 挑発に乗ったのを恥じたのか、彼女は怒鳴った拍子に乱れた息を整えると、澄まし顔を作る。


「……フン、お前のくだらない話に付き合っている暇はないのよ」


 トリュー夫人は扇子で自分の手の平を打ちながら、声高に話し始める。


「お前、生意気なのよ。あの方に不釣り合いなくせに、いつまでも隣に居座っていて」


 使い古された嫌味。トリュー夫人の語彙の貧しさは相変わらずだった。

 以前の自分なら彼女と同じ事を思っていたが、今では的外れな言葉を聞いても何も響かない。


「私を排除したからといって彼が貴女を選ぶ保証はないわよ?」

「減らず口を!フローラさんとの邪魔をしたところで、お前が当て馬なのに変わりはないのよ!」


 スカーレットはその言葉にピンときた。トリュー夫人はエリックが好きだったと以前に聞いていた。彼の相手がフローラであれば大人しく身を引くが、彼が選んだのが自分だから気に入らないのだ。

 やっと彼女が自分を敵視していた理由が分かった。要は独りよがりの私怨である。

 

「まぁ良いわ。お前の本性が暴かれれば、彼も目を覚ますに違いないわ」


 トリュー夫人の唇が醜悪に歪む。その時部屋の外からノックが聞こえた。


「例の旦那が来やしたぜぇ」

「分かったわ。後はごゆっくり……」


 廊下で待機していたらしい男がドアを開け、トリュー夫人がいやらしい笑みを残して部屋を出て行った。

 入れ替わりに旦那と呼ばれた男が入って来ると、スカーレットは思いっきり眉を顰めて見せた。

 

「ダトレム伯爵……」


 名を呼ばれた男は目を弧にして、粘りつくような視線を向けた。


「おお、本当に貴女が私の為にこのような場所に来るなんて……」


 あの反吐が出るほど気持ち悪い男が、下卑た顔を隠そうともせず立っていた。

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