覚悟
ドンドンとドアを叩く音に、エリックは読んでいた本から顔を上げた。やけに乱暴なノックだと思ったが、そのときは特に気にも留めなかった。
「どうやら彼女が帰って来る前に間に合ったみたいだな。応対してくれ」
エリックの声に心得た執事が玄関へと足を向ける。今日は、彼女の誕生日の為に作らせておいた品物が届けられる日だ。予定の時間を少し過ぎていたが、彼女に見つからずに済んだので良しとしよう。
誕生日の準備において1番気不味いのは、渡す本人にプレゼントを準備している場面を見られた時だ。
(よし、これであとは誕生日を待つだけだ)
当日は終日オフでいられるよう仕事を調整したし、料理人も腕を振るうと言ってくれている。もし自分と過ごすのが嫌な場合に備えて観劇のチケットの用意も万全だ。
こうしていても離婚は免れないかもしれないが、自分がやりたくてやっているだけである。離婚するその日まで彼女を傷付けるような事はしないと決めたのだから。
しかし屋敷に来たのは店員ではなかった。
「どうしたんですか!?ジュリアさん!?怪我をしているじゃありませんか!?」
「私は大丈夫!それよりも旦那様に伝えなければならない事があるんです!」
ドアを叩いたのはスカーレットの供をしていた筈のジュリアだった。リビングまで聞こえる両者のただならぬ声に、エリックは本を置いて椅子から腰を浮かせる。
メイド達の叫び声も響き、不穏な空気が増していく。それに釣られて心臓が縮むような感覚を覚えた。
「このような恰好で申し訳ございません!緊急事態でございます!」
入って来たジュリアは何と身体のあちこちに擦り傷を作り、髪も服も乱れた酷い状態だった。彼女の姿を見ただけで、何かが起きたのは明らかだった。
「一体どうしたんだ!?スカーレットは一緒じゃないのか!?」
彼女は無事なのか、そう問おうとしたが最悪の報告が齎された。
「奥様の馬車が……!何者かに乗っ取られました!」
あってはならない事態にエリックは息を呑んだ。
話は乗っ取られた馬車から脱出した直後まで遡る。
決死の脱出に何とか成功したジュリアは、打撲で痛む身体に鞭打ち、現在地を把握しようと辺りを見渡した。
近くにセドリック通りと書かれている標識があり、馬車がアンバー通りへと曲がって行ったのは確認している。その先は貴族や一般人が普段は近寄らない治安が悪い場所だ。
馬車が屋敷とは反対方向へ走っていた為、自分の足では辿り着くまでに時間がかかってしまう。
(どうしよう、走ってたら全然間に合わない……。何か早く伝える方法は……)
「お、おい。お嬢さん大丈夫かい?怪我は平気か?」
一刻も早く事態を伝える手段について考えあぐねていると、ジュリアが馬車から飛び降りたところを見たのか、平民らしき男が心配そうに具合を尋ねてきた。
その時男が連れている馬が彼女の目に入った。
「お願い!馬を貸して!急ぎなの!」
「お!おい!」
これだと思ったジュリアは強引に男の手から手綱を奪い取り、馬に跨る。
馬に取りつけられているのは女性用の横乗りタイプの鞍ではなく、男性用の跨るタイプの鞍だ。乗れば自然と脚が露わになる。
でも今はそんな事は言ってられなかった。奥様が無事でいられるかどうかは自分の行動が左右する。ここで恥じらっていれば奥様も御者の彼も助けられない。
訳が分からぬまま狼狽える男に、スカーレットから下賜されたレースのハンカチを身分証代わりに握らせた。
「後で必ず馬は返すから!ロイマー伯爵邸に来たらこのハンカチを見せて!」
それだけ伝えると馬の横腹を蹴り、走らせる。
ジュリアは男爵の娘だ。乗馬好きな夫婦の間に産まれた彼女は幼い頃から馬と接してきた。まさか、こんな形で役に立つとは思いもしなかった。もし、馬の乗り方を知らなかったら自分の足で向かうか、憲兵を探すかしか手段はなかっただろう。
(絶対奥様を助けなくちゃ!)
痛みを耐えながら全速力で馬を走らせていると、人だかりが出来ている場所があった。ちょうど馬車を乗っ取られた辺りだ。
「お願いします!どうか奥様とミス・エンブリーを助けてください!」
御者は無事だったようだ。駆け付けた憲兵に被害を訴えていて、これなら憲兵への対応は彼に任せても大丈夫そうだ。彼の傍で一旦馬を止めると、蹄の音に気付いた御者が振り返りジュリアの姿を認める。
「おお!ミス・エンブリー!ご無事でしたか!」
「私は旦那様にこの事を報告してくるわ!貴方はこのまま憲兵さんに説明お願い!憲兵さん!馬車はセドリック通りからアンバー通りへ曲がって行ったわ!」
簡潔に指示と説明をすると再び馬を走らせる。道行く人がギョッとした顔をしたが、噂になろうと構わない。もし嗤われたら堂々と奥様を助ける為に最善を尽くしたんだと胸を張ってやる。
早く着けと焦れながら馬を駆り、やっとの思いでロイマー伯爵邸に辿り着いたジュリアはがむしゃらにドアを叩いた。
「奥様はこの事を知らせる為に、私を逃がして……」
そこまで伝えたジュリアだが、堪え切れずにとうとう涙腺が決壊してしまう。エリックは忠義を尽くしてくれた彼女の肩に手を置いた。
「よくやった、あとは任せてくれ。ジェフ!憲兵に馬車の特徴と家門を伝えろ!ウェイン家にも連絡だ!それと馬の用意を!」
エリックは執事や使用人達に指示を飛ばすと、準備をさせた愛馬に跨り街を駆け抜ける。一刻も早く彼女を助け出す為には1人でも多くの協力者が必要だった。
「ポリッチ侯爵!私です!ロイマーです!」
どうか屋敷にいてくれと祈りながらエリックは必死に彼の屋敷のドアを叩く。
誘拐犯はあくまで実行役で、恐らく後ろで糸を引いている人物がいる。その者が自分に対する人質としてスカーレットを誘拐したのであれば、確実に味方になってくれる人物が必要である。
エリックにとってそんな人物は1人しか思い浮かばなかった。
侯爵は中にいたようで、出て来た彼は尋常でない雰囲気のエリックに目を白黒させていた。
「妻のスカーレットが、何者かに馬車ごと攫われました!お願いです!一緒に探して下さい!」
侯爵は非常に驚いた様子で何が起きたのか尋ねる。エリックはジュリアから聞いた話を説明し、必死に頭を下げた。
「情けない男だと嗤っても構いません!どうか力を貸してください!」
「貴方は……」
何事か喋ろうとした侯爵だが、言葉は途中で遮られる。話を聞いていたらしいウィリアムが、いつの間にか2人に近づいて来ていて、父親の袖を引っ張ったからだ。
「父上、ロイマー夫人を助けてあげて……」
2人に懇願された侯爵の頭に「拒否」の文字は無かった。




