先はまだ長く
「周りも周りよ。我関せずじゃなくて、少しでもロイマー伯爵をスカーレットから離してあげようとは思わないのかしら?」
「そのようなお気遣いは無用ですよ。私が妻の傍を離れたくないだけなので」
「ちょっと誰よ、いきな……えっ?」
会話に横槍を入れられた2人が、野暮な人間を叱責しようとして振り返り、固まる。そこには悪女によって自由を奪われている筈のエリックが、威圧感のある笑みを浮かべて立っていたのだら。
「ご覧の通り、妻は人を惹きつける容姿をしていますからね。離れた所から妻の人気者ぶりを眺めているのが好きだったのですが、それだと万が一不埒な輩がいた際に彼女を守れないと遅まきながら気付きましてね。どうせなら夫の特権を存分に駆使して、彼女の隣で自慢しようと趣向を変えたのですよ」
先程のような緊張のあまり早口になっていた彼は全くいなかった。怒りがかえって頭を冷静にさせてくれているのか、淀みなくスラスラと彼女を讃える言葉が紡がれる。
その様子に夫人達は気圧されたのか、青い顔で黙り込む。
「いやはや、惚れた弱みとでも言いましょうか?妻を前にするとどうにも舞い上がってしまって。いやお恥ずかしい」
「は、はあ……」
此処でエリックは更に「自分はスカーレットに恋情を抱いている」と強調させる。もう二度と「当て馬夫人」などと呼ばせないように。
「それでつかぬ事をお聞きしますが、妻が何処にいるか知っていますか?」
「あ、あそこに……」
トリュー夫人の扇子を持つ手が震えるが、そんなのはどうでも良かった。正体はもう分かっているし、これでもまだ彼女を侮辱するつもりなら正式な抗議も辞さなかった。
「どうも」
釘も刺したし、彼女の居場所も聞いた。あとの2人にこれ以上の用は無かった。笑みを決して淡々と立ち去ると、トリュー夫人が指した方向を手掛かりに再び彼女を探す。
彼女はバルコニーで夜風に当たっていた。昼間の太陽の光の下にいる彼女も妖精のようだが、月の光に照らされる彼女も女神のように美しい。
「此処にいたのか。探したぞ」
「え?なんで?」
声をかけると、振り返った彼女は酷く驚いたような顔をしていた。意図せず漏れた声に、恐らくもう帰っては来ないと思っていたのだろう。
寂しかったが、全て自分が撒いた種だ。エリックは持っていたカクテルを彼女にそっと手渡した。
あのパーティから数日後。エリックは領地の視察の為に屋敷を離れていた。スカーレットにとっては貴重な羽根を伸ばせる日だ。
以前はパーティ中でも隣にいない彼に寂しさを募らせていたが、今では慣れない状況が続いていた所為か、精神的疲労がとんでもなかった。これなら前と同じように1人でいた方が気楽である。
今日だって一緒に視察に行こうと誘うエリックを「疲れが溜まっているから」と、強引に単独で送り出させたのだ。
エリックがトチ狂ってきてから分かったが、自分は夫とはある程度離れていた方がストレスなく暮らせるタイプなのかもしれない。
「さてと、休んでないで支度しなくっちゃ!」
ソファに座って一息ついていたスカーレットは気合を入れて立ち上がる。彼を無理矢理1人で送り出した訳はもう1つある。これから開催される4大レースにアレクサンダーが出場するのだ。
久しぶりに目にする彼の雄姿を見届けなければならないと、これ幸いに夫のいない隙にレース場に駆けつける魂胆であった。
久しぶりのレース場の雰囲気は爽快だった。清々しい青空の下、屋台では愛想の良い声が飛び交い、良い香りにつられた客が腹ごしらえに料理を注文している。今日は周囲のレストランやカフェも、席は観戦者でいっぱいだろう。
テーブル席では小さな子ども達が、一丁前にどの馬が勝つのか真剣な顔で議論していて、それがなんとも微笑ましい。
これまでに蓄積されていた精神的疲労が浄化されていくような気がする。
レース場特有の空気を味わっていると、唐突に男性の声がした。
「もしやロイマー夫人ですか?エリックの奥方の」
「え?」
名称を呼ばれ、スカーレットは驚いて声がした方へ顔を向ける。そこにはエリックが心を許している友人のうちの1人が、目を丸くして此方を見ていた。
「本当にロイマー夫人だ。まさか競馬がお好きだとは思わず……。エリックは何処に?」
「彼は領地の視察で……。すみません、私が来ている事は内緒に。何故だか恥ずかしいので……」
エリック本人と鉢合わせしなくて助かった。でももし彼を経由して夫の耳にでも入ったら、面倒な事になるかもしれない。
回避すべく体の良い方便を述べると、彼は心得たように頷いた。
「これは失礼を。勿論話しませんよ。女性は秘密を抱える事でより魅力が増すというものですから」
普通なら歯の浮くような台詞だが、彼が言うと妙に様になっている。エリックとは反する性格だが、性格が違うからこそウマが合うのかもしれない。
なんにせよ秘密にしておいてくれて良かったとスカーレットは胸を撫で下ろした。
「家族といらしたんですか?」
少し離れた場所を見遣ると、複数の様々な年齢層の人達が2人の様子を窺っていた。若い女性は恐らく妻だろう。
「はい。毎年この時期は両親や祖父母とも一緒に此処に来てましてね。賑やかなものですよ」
「仲がよろしいんですね」
今日のレースは国内の4大レースの中の1つだ。有名大会に相応しく、見渡せば親戚中で集まっている集団もそこかしこで見かける。スカーレットのように1人で来ている方が少数派だ。
彼はエリックの友人であるが、スカーレットはあまり話した事がない。
その為挨拶を交わした後は直ぐに立ち去るのかと思っていたが、なぜか彼はその場に留まり続けていた。
「あの……?」
「申し訳ない」
まだ何かあるのかと声をかけると、いきなり頭を下げられた。申し訳ないと言われても、こちらには全く身に覚えがない。
慌てて頭を上げるように言うと姿勢を正してくれたが、それでも済まなそうな表情は変わらなかった。
「何かあったんですか?私は特に謝罪を受けるような事をされた覚えはないのですが……」
「いや、申し訳ない。説明をすっかり後回しにしてしまいました」
流石に彼も今のは性急過ぎたと感じたのか、自分を落ち着かせるように後頭部に手の平を添えた。
「実は自分……。もう1人の友人もですが、エリックに関する事で夫人に謝罪したかったんです」




