交渉決裂
本当に自分はそんな事を言ったのか。ただこちらの問題を背負い込もうとしなくて良いと、言いたかっただけなのに。
エリックと古株の使用人達の間に葬式のような空気が流れるが、スカーレットは元気がないなと首を傾げるのみだった。まさか本当に盛大なすれ違いが発生していたと気付くのは彼女にも無理である。
「このまま白い結婚による離婚が成立すれば、私はまた独り身に戻ってしまいますし。メイドも侍女もみんな私を心配してくれていたんですよ。侯爵への返事は保留にしてありますが、良い話を頂いたものです」
スカーレットはフフッと頬を染める。とても愛らしくてキュンとするが、他の男の事でそんな顔をしてほしくなかった。
侍女もメイド達も肯定の表情をしている。つまり侯爵との話が持ち上がった時に、主人たる自分に報告しなかったのは「するまでもない」と判断されていたからだった。
全ての事柄はエリック達にとっては寝耳に水でも、スカーレット達にとっては唐突でもなんでもなかったのだ。
このままではポリッチ侯爵に取られてしまう。とにかく否定しないと。エリックはカラカラになった喉を振り絞る。
「違う。君と結婚したのは、君を愛しているからなんだ」
決して白い結婚目的なんかじゃなかった。どうにか信じてほしくて一心に彼女を見詰める。そういえばこんなに目を合わせたのはこれが初めてだった。
しかし精一杯の勇気も残念ながら本人には全く届かず、見つめ返す目には不信がありありと込められていた。
「私達が平民であるなら信じられる言葉だったでしょう。ですが私達は貴族です。愛のない結婚もままある身分です」
「3年経っても絶対離婚はしない。念書や契約書を書いても良い。それで信じてもらえるか?」
3年過ぎても夫婦を続けていれば、噂も彼女からの不信も解消されると思っていた。
だがスカーレットからすれば、長年の所業は根深いところまで来ている。その程度で納得するなら期待など捨てていなかった。
「フローラさんを愛人にして、私はお飾りの妻として仕事をする。今度はそういう算段なんですか?」
予想外の展開にエリックが再びピシリと固まった。
彼女の中で「エリックの本命=フローラ」の図式は揺るがない。そこが前提なので今更念書や契約書を持ち出されても、より悪い方向に推測を発展させる他ないのだ。
「生憎と既に実家とも相談しておりますので……。両親は白い結婚が成立次第、離婚させるつもり満々ですし、そういう方法は難しいかと」
加えて自分のこれまでのポカが、向こうの両親にも伝わっていたとは。もう彼等の前で地面に頭を擦りつけるしかない。
妻の実家を訪問した際に向こうの家族が妙に他人行儀というか、態度が少し冷ややかだと感じていたが、そういう理由だったのだ。
これはもう向こうの家族には自分は完全に悪魔扱いされているに違いない。3年経過したら直ぐに離婚や継続に関わらず嬉々として連れ帰りそうだ。
「でも円満離婚にはしますし。エリック様の経歴に傷は付きませんよ」
彼女はさも安心だと付け加えるが、彼にとってそんな配慮はいらなかった。
どう足掻いても離婚のルートしか見えず、失意のどん底に陥る。自分がほしいのは綺麗な経歴ではないというのに。
(いや、むしろ彼女の幸せの為なら自分なんていない方が良いのでは……)
自己嫌悪に陥るあまり、とうとう自分の存在を消した場合の彼女がいかに幸せか想定し始める始末だ。
何も言わなくなったエリックに彼女は首を傾げつつ、もう話が終わりならと退出の許可を取る。
「すまない。時間を取らせた……」
エリックの精神はもう満身創痍だ。これ以上何かあれば卒倒してもおかしくない。だがそんな事は露も知らない彼女は、退出しようとして「あ、そうそう」と振り向きざまに追撃をした。
「これは貴方のお母様から直接伺ったのですけど、貴方のご両親はフローラさんとの再婚を望んでいるようですよ?」
一瞬意味が理解出来なかった。そんな馬鹿な。あり得ない。
母はスカーレットを気に入っていた筈だ。いや、もしくは自分が知らなかっただけで、事実は違うのかもしれない。
「それは、いつだ?」
「エリック様がスタンレイ家とロズウェル家の行き来を始めて、少し経った頃でしょうか?」
割と最近じゃないか。何を言ったのか母を徹底的に問い詰めなければ。本当にフローラの言った通り、手伝いにかまけている場合じゃなかった。
「愛人にするよりも再婚された方が親孝行になるんじゃないかしら?」
スカーレットはこの台詞を置き土産に、メイド達を引き連れて今度こそ退出した。
(件のメイド達は厳重注意のみに留めるしかないな……)
元はと言えば全ての元凶は自分だ。もう今となっては何を信じれば良いのか分からない。
こんな自分が彼女を妻にする事そのものがおこがましかったんだろうか。いっそ侯爵の元に嫁いだ方が彼女は幸せなのかもしれない。
心が折れかけ鬱々としていると、何故か部屋に残っていた侍女のジュリアが「旦那様」と声をかけた。
「私からも1つよろしいでしょうか?」
「……何だ?」
今度は彼女からも恨み言を言われるんだろうかと身構える。だが続く台詞は意外なものだった。
「本当に奥様の事を愛していらっしゃるなら、なぜ何もなさらなかったんですか?」
それは一見すると手厳しい台詞である。しかしエリックが妻を愛しているのだと、信じている前提でなければ出てこない台詞だった。
長年自分の所業に苦しんできたスカーレットを1番傍で見ていたにも関わらずだ。
「お前は私の言葉を信じるのか……?」
主人の声にジュリアは頷く。雇い主のエリックの為というより、敬愛するスカーレットの為に、彼女は1歩引いた視線で周りを観察していた。
ジュリアから見ても主人の言動は最悪に尽きる。普通に考えれば彼の言い訳にもならない言い訳など、聞くに値しないものだ。
だがあの時のエリックのショックは本当のように見えていた。だから手助けする。それだけの事だ。
ジュリアの行動理念はスカーレットの幸せと願いを叶える事で成り立っている。
スカーレットが彼への情を捨て切れない限り、ジュリアは2人の関係を修復する方向で動く。
もしも彼女が本当にエリックに無関心になれば、それまでだった。




