認識の擦り合わせ
スカーレットは侍女を伴ってやってきた。メイドから簡単な話を聞いただろうに、いつも通りにしている。
一方エリックは、彼女が執務室にやって来るほんの数分間でも手汗が止まらなかった。途中まで作成していた書類を濡らす訳にはいかず、仕方なく腕を使って脇に寄せていた。
特に変わった様子がない彼女に、もしや離婚や侯爵との事は誤解なのかもしれないという希望が湧いてくる。
「それで、お話とは何ですか?」
聞きたいけど、聞きたくない。そんな相反した気持ちが、口の中を乾かせる。エリックはゴクリと唾を飲み込み、意を決した。
「本当に私と離婚するのか?」
エリックはまず、彼女に離婚の意思があるのかどうかの確認から始めた。
だが、このような聞き方をされた場合。スカーレットは彼の言葉の真意をどう受け取るだろうか。
答えは「夫側から離婚を命じられた際に、速やかに応じるか否か」である。
「ええ、しますよ?」
いつでも離婚出来るよう準備を進めてきた彼女は、彼の問には当然素直に頷く。
何を今更とも一瞬考えたが、土壇場で拒否されるのが面倒なので、今のうちに言質をとるつもりだろうと思い直した。
スカーレットの中では、彼にはフローラというれっきとした恋人がおり、彼女との再婚の為に自分との離婚を望んでいる。
これが大前提で、まさか彼が離婚危機で怯えているなど毛ほども思っていない。すれ違いとは恐ろしいものである。
「な……っ、何故だ?」
まさか、あっさりと肯定されたエリックは叫びそうになるのを寸前で耐えた。怒鳴りつけるのは良くない。彼女を怖がらせてしまう。
だが明日の天気の話題でもしているかのような雰囲気で、返答をされたのは大変ショックだった。
これがまだ思い詰めた様子であったなら、もっと冷静でいられただろう。そんなに自分と夫婦でいるのが嫌なのか。嫌な部分があれば直すからと、どうにか繋ぎ止めようと理由を聞いてみたのだが。
「何故って……。そう決まっているのでしょう?」
「誰が決めたんだ!」
とうとう平常心を保てず椅子から勢いよく立ち上がる。一体誰が決めたんだ!まさか彼女の父親か!?いやもしかしたら母親かもしれない。
エリックの脳内で、自分と彼女を引き裂こうとする犯人の推測が目まぐるしく繰り広げられる。
荒れるエリックだが、彼の耳に「貴方が決めたんでしょう?」と至極冷静なスカーレットの声が入り込む。
「は?」
「え?」
唐突に犯人は自分だと指摘されて呆けるエリックと、思っていた反応と違うと困惑するスカーレット。
2人の話はいよいよ平行線にもつれ込もうとした、その時。
「申し訳ございません。発言をお許し頂きたいのですが?」
手を上げたのは老執事の甥で、2週間前に雇われたばかりの執事見習いの少年。アンドリューだった。
「聞いていると、旦那様と奥様のお話は噛み合っていないような印象を受けました」
事実、今の状況について正しく理解していたのは、彼1人だけであった。
彼はまだこの家で働き出してから日が浅く、だからこそキーン家を取り巻いている固定観念に縛られていなかった。
もしこの場に彼がいなければ、お互い話が噛み合っていない事にすら気付けなかっただろう。
「まず奥様は、何故旦那様との離婚が決まっているものなのだとお思いなのでしょうか?」
彼のその問いは、正しくこの夫婦のすれ違いの本質に切り込むものであった。
一方で問われたスカーレットは、自分の言葉で相手が混乱すると知らずに当たり前に答える。
「だって私との結婚は白い結婚なのでしょう?」
スカーレットはキョトンと首を傾げる。彼女付きのメイドや侍女も同様だった。彼女達にとって、これが白い結婚なのは疑いようもない事実だからである。
対するエリックは、愛してやまない彼女との結婚が、よりによって「白い結婚」扱いされていたと知って、気が遠くなりそうだった。
彼の頭に、ここ最近の彼女の様子が走馬灯のように流れ出す。確か彼女はある時期から急に侯爵と親しくなっていた。
(まさか……。私とは白い結婚で、後に侯爵と……)
「つまり君は……、最初から侯爵と……。そういう事なのか……?」
両足を踏ん張り、か細い声でそれだけ絞り出す。そう言われれば、あと数ヵ月も経てば白い結婚が成立する。
彼女は最初からポリッチ侯爵が好きで、しかし家の意向で自分と結婚せざるを得なくて、白い結婚が成立次第晴れて離婚を。エリックの中でそんな図式が着々と組み立てられようとしていた。
「は?何故そうなるのですか?」
侯爵との話を再び持ち出されたスカーレットは、またその話かとイラッとする。
確かに今現在は侯爵からアプローチされているが、あの時は誓って本当に何も無かったのだ。
以前あれだけ説明したのに、またこの期に及んで浮気扱いするのかと眉を顰める。彼女にとっての理不尽に、心の沸騰がフツフツと煮えたぎってくる。
大体事前に詫びもなく人を白い結婚に巻き込んだのは向こうじゃないか。それを棚に上げて自分が?最初から?侯爵と?浮気?冗談じゃない。
こっちは離婚まで穏便に済ませるつもりだったが、もう止めた。ズカズカと暗黙の領域に踏み込んで来たのはエリックの方だ。遠慮はいらない。
この際だから今まで抱えていた不満を全部ぶち撒ける事にした。
「先程の私の言葉を忘れたのですか……?そもそも!フローラさんと再婚する為に!白い結婚の相手として私に縁談を申し込んだのは!エリック様!貴方ですよね!?」
多少息が上がったが、呆気に取られているエリックの顔に、漸く言ってやったと噛み締める。
鬱憤が溜まっていたのもあって怒鳴ってしまったが、妙にスッキリしている。やはり人間、我慢は良くない。
とうとう奥様が言った!と内心で盛り上がるメイド達とは別に、古株の使用人達はここで彼女が何やら大きな誤解をしている事にやっと気付いた。
だが、肝心の誤解の原因がさっぱり分からない。混乱している主人に代わって事態を収拾させようにも、一緒にオロオロするしかない。
エリックは愛妻家だ。出先やスカーレットの前ではだらしない自分を見せないようにしているが、古株の使用人の前ではしまりのない顔で妻へのノロケをずっと話しているのだ。
スカーレットが今日も美しくて可愛くて素敵だの。あの交渉を成立させるとは流石スカーレットだの。
主人が結婚してからというものの、毎日砂糖を吐く程のノロケに彼等は2年半以上も付き合ってきた。
だから古株の中で例の噂を気にしている人間は誰もいない。しかし、スカーレット達との間で妙な温度差があるような気がする。
自分達はもっと根本的なところで間違っているような、古株達は脳内のどこか冷静な部分で、そんな予感を導き出していた。




