第四節 スタート台の景色
12月中旬。ついに、市民水泳大会の当日がやってきた。
さちはいつもより少し早く目を覚ました。
外はまだ暗く、窓の外にはうっすらと霜が降りている。
「……よし」
胸の前でそっと深呼吸をし、準備を始めた。
スイムバッグの中には、水着、スイムキャップ、タオル、ゴーグル、そして――あのペンダント。
(これは、ロッカーに入れておこう)
ポケットに入れたペンダントを握りしめ、静かに確かめた。
(大丈夫。みんながいる)
朝食を終え、母・真由美の運転で会場へ向かう。
助手席のさちは、無言で流れる景色を見つめていたが、信号待ちのとき、真由美が優しく声をかけた。
「緊張してる?」
「……うん。でも、ちょっと楽しみでもあるの」
真由美は笑って頷いた。
「その気持ちがあれば大丈夫。思いきり泳いできなさい」
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会場に到着し、控室でユキとハルと合流した。
リンは今日は観客席から応援に来てくれていた。入り口で大きく手を振っている。
「来た来た! さち、調子どう?」
「……うん、悪くない。というか、みんながいるから、落ち着いてるかも」
3人は軽く体を動かしながら、ウォーミングアップのプールへ向かう。
大会会場は、市の総合体育館に併設された温水プール。
普段のスイミングスクールよりも広く、天井も高くて、なんだか空気も違って見えた。
「いよいよだね」
「今日の主役は、さちだよ」
スタートリストに、さちの名前が載っていた。
エントリー種目は、“初心者チャレンジ50m自由形”。
(チャレンジ枠でも、こんなに出場者がいるんだ……)
レースが次々と進んでいく。水を切る音、アナウンス、拍手。
その中で、さちはスタート台の近くに立ち、徐々に集中を高めていった。
「次のレース、第23組――」
アナウンスで自分の名前が呼ばれる。
(いよいよ、わたしの番だ)
プールサイドに上がり、スタート台に立つ。足元が少し震えている。
でも――ポケットの中で握ったペンダントの感触を思い出す。
(大丈夫。私はひとりじゃない)
「位置について――」
構える。呼吸を整える。
「よーい……」
――ピッ!
スタートの合図とともに、水の中へと飛び込む。
水が、静かに全身を包み込む。
腕を伸ばし、力強くキックを打つ。リンに教わった肩の動き、ユキのアドバイスによる呼吸、ハルと何度も繰り返したフォーム。
すべてが今、この一瞬に集まっている。
(もっと前へ。もっと――)
水を押し、蹴り、呼吸を合わせる。
ゴールが、手の届く距離に迫る。
――タッチ!
水面に顔を出すと、観客席から大きな拍手が聞こえた。
プールサイドにはコーチがいて、ストップウォッチを確認してから親指を立てた。
「さち! タイム、前より3秒縮まったよ!」
「ほんと……!?」
ゴーグルを外した瞬間、目の端に涙がにじんだ。
「やった……!」
駆け寄ってきたハルとユキが、笑顔でさちを抱きしめる。
「最高だったよ、さち!」
「めっちゃかっこよかった!」
観客席からは、リンが身を乗り出して手を振っていた。
「You did it!! さち、amazing!!」
この日、チームトレノの絆が、またひとつ深まった。
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市民大会から数日後。12月の冷たい風が校庭を吹き抜け、葉を散らしていく。
昼休み、4人は体育館の裏のベンチに並んで腰掛けていた。
空気は冷たいが、陽ざしが少しだけ春のようなぬくもりを持っていた。
「……あれから、もう三日も経ったんだね」
さちがぽつりとつぶやく。
「でも、あの日の泳ぎ、ほんとにすごかったよ」
ハルが微笑む。
「フォームも、姿勢も、今まででいちばんきれいだった」
ユキも頷く。
「努力って、嘘つかないんだよね」
リンのその言葉に、さちは小さく笑った。
「うん。スタート台に立ったとき、みんなの顔が浮かんだ。だから、怖くなかった」
「それって、“チームトレノ”の力じゃん!」
ハルが拳を突き上げる。
「そうだね。私たち、ひとりじゃないから」
4人は顔を見合わせて、ふっと笑い合った。
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その夜。
さちは“絆のトレーニングノート”を開いた。
手元には、大会のパンフレットと記録票。そして、自分で描いたスタート台のスケッチ。
『市大会50m自由形:記録 ○○秒(前回比-3秒)』
『体の使い方、呼吸のタイミング、どれも成長を実感できた。』
最後に、こう記した。
『次は、表彰台を目指したい。目標は、逃げる理由じゃなく、進むための地図。』
ページを閉じたとき、部屋の外から母の声が届いた。
「さち、あったかいスープできたわよ~」
「……うん、今行く!」
さちは軽やかに立ち上がった。
その背中は、小学生とは思えないほどまっすぐで、凛としていた。




