第2話 気にしない
沼津様御用達の看板を掲げた鶴田屋では、店主以下、番頭らが揃って八重を待っていた。
「ご新造様にわざわざお越しいただけるとは──」
「畏まらずとも、大げさにせずとも良い。それよりも、供の者にも菓子を出しておくれ」
気楽な縞の羽織の吉太郎と、見るからに幼い豊太郎と。大名家の中間にしては少々怪しいが、身元は確かだから良いだろう。
大名家に出入りする大店ともなると、町人とはいえ広い敷地に庭を整えさせている。江戸城西の丸御殿を知る豊太郎には小ぢんまりしていると見えるかもしれないが、町人の豊かさを見るのは初めてなのだろうか、しきりに辺りを見渡す仕草が微笑ましい。
青や紫に染めた寒天を賽の目に切って、丸めた餡にまぶす──茶請けに出された紫陽花を模した菓子も、豊太郎は喜んで平らげた。
「西の丸に上がってから、生菓子はあまり食していなかったのです。多分何かと手間が掛かるのでしょうが。色味も食感も良くて、大変美味です」
「それは良かった。天草は沼津の特産だから、扱いに長けた店を出入りさせることにしている」
八重の言及に、下座に控えた鶴田屋は恭しく頭を下げた。豊太郎のために何種類かの菓子が出されたのを確かめてから、八重は本来の用件に入る。
「神田橋様へのご進物を頼みたい。このような時だから、味はもちろん、目も楽しんでいただけるようにしたいのだが」
「はい、この度はまことに痛ましいことでございました」
水野家に出入りしている商人は、近しい姻族である田沼家を見舞った奇禍のことを当然承知している。世間では面白おかしく噂されているのだろうが、少なくとも鶴田屋の真摯さは八重の心を多少なりとも慰めた。
極上の小豆を使った羊羹を何種類か、抹茶や白餡で見た目と味に違いをつける。それに、道中で八重が考えていた錦玉羹を、近づく夏に合わせて金魚や朝顔をかたどったものが良いだろうということになった。
「さて、退屈させてしまったかもしれぬ。休憩が済んだら、物見遊山に戻られるか……?」
八重と鶴田屋が話す間に、豊太郎は菓子を平らげていたらしい。子供には楽しい場面ではなかっただろう、早々に市中の賑わいに返してやるべきかと思って尋ねると、豊太郎は黒文字を皿に置いて神妙な顔で姿勢を正している。
「……お身内にご不幸があったのですか?」
「先の、山城守様のことだ。八重様のご夫君は、主殿頭様のご次男でいらっしゃる」
「あ」
躊躇いがちに尋ねた豊太郎は、明らかに他人の不幸を話題にするのに慣れていないようだった。兄のような振る舞いの吉太郎に囁かれて、小さく跳ねてから畳に手をついた。
「ええと……主殿頭様には、大納言様もひと方ならぬ御恩がございます。あの、ご愁傷様でございました……」
豊太郎が大納言様、と称したのは彼らの主君である将軍世子、家斉公のことだ。将来武家の棟梁に就くべき尊い御身だけに、御三家の当主にも並ぶ高い官職に叙されているのだ。
家斉公のその栄誉は、確かに意次あってこそのものだった。当代の将軍家治公の嫡子、家基公は、若くして世を去っている。家斉公は、御三卿の一角、一橋家から迎えられた養子なのだ。家治公の信頼篤い重臣だけに、将軍世子の選定には意次の意向も大いに影響を及ぼしたのだと八重も聞き及んでいる。
豊太郎の隣で、吉太郎も深々と頭を下げる。
「まことに惜しい御方を亡くしたと存じます。若輩ながら、優れたご見識の方と見上げる思いでおりましたのに」
「何と嬉しいお言葉か──主殿頭様にお伝えしたいくらいでございます。悔しいことに、違うように考える者も、世間には多いと……この間に、思い知らされました」
「ああ、多少は存じております。何しろ目覚ましいご栄達でしたし、頭の固い方々には武家が商家の真似ごとをしている、などと不満に思う向きもいるようで」
吉太郎は八重に大きく頷き、一方で豊太郎に対しては小さく目配せした。年若い後輩に、世間の情勢を講義してやろうとでも言うかのように。その講義に付き合ってやろうという老婆心が半分、少しでも同情を示してくれた者と踏み込んで話したいのが半分。ふたつの思いの間で、八重は苦く微笑んだ。
「我が殿は、拙速に過ぎたのだ、とも仰っておりました。私などは、身内だからか父や主殿頭様のなさることは正しいと思ってしまうのですが」
意次たちの政策の目的は、詰まるところ幕府の財政を救うことだと八重は理解していた。
倹約令や、年貢の率を引き上げるだけではいずれ限界が来る。各地の金山銀山も、いずれは枯渇する。だから新たな農地の干拓を進めなければならないし、商人や町人から様々な形で金子を集める算段も必要だ。殖産も試みなければならないし、そのためには出自を問わず意見や計画を募らなければならない。──いずれも、理に適ったことと思うのだが。
だが、下々はそうは思っていない。森田座や、意知の葬儀の列で聞こえた嘲笑や歓声が、嫌というほど八重に突き付けた。
(誰も彼も好き勝手に……!)
意次の異例の栄達は、人柄と能力と幕府への忠誠あってこそ。称賛こそされ、どうして蔑まれ妬まれなければならぬのか。田沼家の蔵が賂で潰れんばかり、などという風聞も馬鹿げている。老中家の社交には相応の付け届けや進物がつきものだ。田沼家の権勢が輝かしいからこそやり取りが目立つのだろうが、概ね返礼で右から左に消えていく。父が幕閣に名を連ねる水野家だとて、その内情はごく倹しいのだ。
「人によってお考えは様々でしょうが、某は正しいと、存じますよ」
「まあ、本当に?」
何度でも込み上げる憤りを噛み殺そうとして、八重の声は歯軋りせんばかりだっただろう。だが、彼女の怒りを意に介さぬかのように、吉太郎はにこにこと微笑んでいる。
「『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る』……などと、いつまでも通じるはずはございません。金勘定も政には必要なこと、決して卑しいことではございませんでしょう」
恐れ多くも吉宗公の御代、享保の改革の時の言葉を引いて、吉太郎はあっさりと言い切った。あまりにあっさりとしているから、八重の腹の底からむくむくと反発が湧いてくる。目の前の若者は、下々の露骨な嘲笑を、直に聞いた訳ではあるまいに。
「ですが……誰もが吉太郎殿のように考えてくれる訳ではございません。何も知らぬ者に限って都合の良いように──」
「何も知らぬ者の流言に耳を傾ける必要がありますか? 過ちであることを、八重様もよくご存じのはずなのに?」
「は?」
食い下がったつもりが、不思議そうに首を傾げられて。八重だけでなく豊太郎もぽかんと目と口を開けた。その表情がおかしかったから、という訳でもないのだろうが──吉太郎の笑顔は、日本橋の路上で見た時のと同じく、一片の曇りもない晴れやかなものだった。
「何が正しいかは、いずれ明らかになるものです。まあ……難しいこととは存じますが。気にしないのが最善、かと存じます」