第1話 日本橋にて
一昨年以来の冷害により、諸国は飢饉に苦しみ、土地を捨てて逃散する農民も後を絶たないのだという。そうして流民となった者たちの幾らかは確実に江戸の街にも流れ込んだのだろうが、八重が見たところ、日本橋の華やかな喧騒には影響がないようだった。
度重なる倹約令をすり抜けて、道行く娘たちが装うのは染めで京などの景勝を描いた名所模様が目立つ。清水の舞台に、天橋立に松島に──生涯江戸から出られぬ八重からすれば、自身が纏う摺箔鮮やかな小袖やそれを透かす絽の羽織よりもよほど、庶民の暮らしぶりは伸びやかで贅沢なものに見える。
今日は、水野家御用達の菓子屋に、新しい品を賞味しに出向くのだ。埃避けの揚げ帽子に、裾を上げるため扱き帯──外出のための装いをして、屋敷の門を出てもなお、侍女は心配顔だった。
「ご新造様が徒歩で行かれずともよろしかったかと存じますが……」
「目と鼻の先ではないか。これくらいで駕籠を使うまでもない」
くどくどしい苦言を、八重は短く退ける。無論、屋敷に店の者を呼び出せば済む話ではあるが、内に篭ってばかりでは息が詰まるというものだった。身分に相応しからぬ振る舞いなのは百も承知、今の彼女は周囲を困らせてやりたい気分だった。
「最新の吉原細見、江戸土産にどうだい?」
「米の値が下がらなくてねえ。困ったもんだ」
「これをくださいな」
「高い金を払ったのに音沙汰がねえんだ」
「新鮮な浅蜊、深川の浅蜊だよ」
たまに不穏な呟きは聞こえるものの、活気に溢れる日本橋の空気に触れるのは良い刺激だった。一方で、気晴らしさえも考えられないであろう方のことに思い至ってすぐに胸が重く沈むのだが。
(万喜様はまだ出歩くようなお気持ちではないであろう。慰めになるようなものがあると良いが)
夫はまた実家を訪ね始めているが、八重自身は万喜と会えない日々が続いている。意次や万喜に気を遣わせてはならないと思うと、見舞いの伺いを立てるのも憚られるからだ。
気晴らしと言っても遊びの席に誘う訳にはまだ行くまい。ならば菓子を贈るくらいは良いだろうか。夏も近づくころだし、涼しげな錦玉羹でも作らせようか──思案しながら歩いていた八重の耳に、鋭く高い叫びが刺さった。
「掏摸だ!」
同時に、八重の眼前の人波が乱れる。行き交う人々を押し退け、罵声を無視して突き飛ばし、男がひとり、八重に向かって猛然と駆けてくる。手に巾着を握りしめていることからしてその男が掏摸なのは明らか、近ごろの武家は厄介を避けて慌てて道を譲るとでも思ったのかもしれないが──
(侮られたもの……!)
八重は気弱な小娘ではないし、武道も嗜んでいる。無法を働く者は見過ごせぬし、何より、ここのところ鬱憤を溜めていた。だから──傲然と立つ彼女を前に足を緩めることもできずに突っ込んで来る掏摸を、半身で躱し、腕を捉え、足を払う。
「わ──?」
すると、間抜けな声と共にその男はしたたかに地面に顔をぶつけた。その背に、すかさず後を追ってきた者が圧し掛かる。
「捕えたぞ! 誰か、番屋に突き出すのだ!」
誇らしげに周囲に呼びかけたのは、龍助と同じ年格好の少年だった。前髪を上げたばかりと見える額は瑞々しく、疾走によって紅潮した頬はまだ柔らかい。少年の呼び掛けに応えて、手近の店の大人たちもやっと動き出し、掏摸の男は引き立てられていった。
「あ、あの……誠にありがとうございました。でも、あの……お召し物が……っ」
「ああ、大事ないから構わぬ。気を付けて行くが良い」
次いで八重の前に現れたのは、振袖姿の町人の娘だった。巾着の持ち主なのだろう。蒼白な顔で震えているのは、武家との悶着を恐れているからか。安心させてやろうと、八重は笑みを纏う。猫の華がいると、衣装の多少のほつれや引き攣れには寛容になれるものだ。
しきりに恐縮して頭を下げる娘を見送ってから、八重は改めて周囲を見渡した。あの少年がまだ近くにいるなら、褒めてやらなければならないと思ったのだが──
「なぜ御自ら飛び出したのですか? あれほど勝手はならぬと申し上げておりましたたのに。たかが掏摸ていど、人に任せておけばよろしいのです」
「だって、見つけてしまったのだもの。困っている者を助けぬで、何が侍じゃ?」
「ですが──」
兄か、連れか、はたまた良家の子弟の目付け役なのか。件の少年は、道の端で若い侍に叱られていた。傍らでは、挟み箱を担いだ中間が所在なげに佇んで、行き交う町人に邪魔そうにされている。
侍女が早く行こうと目で訴えるのは感じつつ、でも、八重は少年の弁護のため声を掛けることにした。
「失礼するが、その子のお陰で掏摸が捕まえられた。怪我人も出なかったことだし、そう叱らないでやって欲しいのだが」
見知らぬ者の差し出口だ。振り返った男が眉を寄せるのは予想の内──だが、その若侍は八重をしばし見つめると、雲間から覗いた太陽のように晴れやかに笑んだ。
「これは──八重様ではございませぬか。気付きませんで、失礼をいたしました」
「ああ……吉太郎、殿?」
男の顔と名前を一致させるのに、八重も数秒を要してしまった。だが、気付いてしまえばごく近しい親族だった。
男の名は水野吉太郎忠成。父の妹が嫁いだ旗本家に迎えられた婿養子──つまり、八重から見れば従妹の夫ということになる。同じ水野姓を名乗ることから分かる通り、いわば分家の跡取りだ。むろん、相手の家族や役職についてもよく知っている。
「今日は非番でいらっしゃったのですか。そちらは、ご子息ではないようですが……?」
「はい。午之助はまだ六つでございますね」
幼い息子の姿を思い浮かべたのか、あるいは八重が息子のことを覚えていたのが嬉しいのか。吉太郎はにこにこと笑う。確かまだ二十二、三の若さだからか家格の低さゆえか、八重の身近にはとんと見ない気さくさだった。
「こちらは豊太郎と言いまして、西の丸にお仕えする小姓、いわば某の後輩ということになりますな」
ともあれ、自らの役職をさりげなく開陳して八重の記憶を裏付けてくれるあたり、吉太郎は気も利くのだろう。そう、この男は将軍世子が住まう江戸城西の丸で小姓を拝命していたはず。今の西の丸の主は元服して間もない幼君だから、同じ年頃の豊太郎は遊び相手として選ばれたというところだろうか。
「この者も養子の口でして、江戸には来たばかりなのです。親元から離れた心細い身の上でもありますので、案内役を買って出てやったと、そういうことでございました」
説明を聞けば、物怖じせずに八重を見上げる豊太郎は、年の割に大柄だし品も良い。掏摸を取り押さえた判断の早さといい、幼いながらに見どころがあるようだ。
「勝手掛老中格、水野出羽守様のご息女の八重様でいらっしゃる。ご挨拶を申し上げよ」
「はい。豊太郎と申しまする」
吉太郎に促されてぺこりと頭を下げる仕草も、卒がない。しかも、豊太郎は顔を上げた瞬間に、八重を真っ直ぐに見て微笑んだのだ。
「出羽守様にかように美しい姫君がいらっしゃるとは存じませんでした。お会いできて大変光栄に存じまする」
「ほほ、こんな年増を捕まえて、よくも舌が滑らかに動くもの……」
幼い顔に似合わぬ巧みな──ともすれば小生意気な世辞に、吉太郎と水野家の侍女や中間は揃って顔を引き攣らせている。だが、子供の背伸びと思うと八重にはむしろ可愛らしく見えた。龍助と同じ年頃、しかも親元を離れていると聞かされて、甘やかしたくなっているのかもしれない。何しろ、彼女自身の子であってもおかしくない年の少年なのだ。
「これから菓子屋の鶴田屋に行くところだったのだ。先ほどの褒美に連れて行って差し上げようか。大店に上がるのも江戸見物になろう?」
「はい! 喜んで!」
だから、戯れに思いついた申し出に豊太郎が食いついた時の笑顔は、八重をたいそう満足させた。