第6話 乞食芝居
田沼意知の遺体は、逆さ屏風の奥に寝かされていた。顔には白い布がかけられ、身体は清められて白い手に数珠と守り刀を握らされて。だから痛ましい傷は傍目には見えず、線香の香りは死臭を覆い隠してくれる。それでも、田沼家の人々の窶れ切った表情が、若く優れた人の死の衝撃と、今際の苦しみを物語っていた。
「骨に達する傷もありましたの。なんて、ひどい……」
「万喜様……」
通夜のために神田橋の田沼邸に参じた八重は、涙に暮れる兄嫁を慰める言葉を見つけられなかった。ほんのしばらく会わない間に万喜の肩はすっかり痩せて、手を置くことさえ躊躇われる姿になってしまっていた。
「私、あの日は芝居に行ったりして……殿が一大事の時に、何も知らずに浮かれていたなんて……!」
「どうかご自身をお責めになりますな。万喜様に分かるはずもなかったのですもの」
「でも! あのせいで世間に知られてしまいました。何も知らぬ者たちに、面白おかしく語られてしまって……」
辛うじて絞り出した陳腐な気休めは、案の定、万喜の心を和らげることはできなかった。あの日の森田座の客たちの歓声は、万喜の胸にも刺さっているのだ。意知の妻の立場であればなおのこと、人の死を嘲り喜ぶような声は心を蝕むことだろう。
意知の死が公表されると、下手人の佐野善左衛門は即日切腹を命じられた。江戸城内での刃傷沙汰を前にして、ろくに動かなかった者たちも、次々に罰が与えられている。だが、それを持ち出したところで万喜の心が晴れることはないだろう。それで意知が蘇るはずもないのだから。
「──叔母上」
と、万喜が啜り泣くのを遮るように、高く澄んだ声が八重に呼びかけた。
「父のためにおいでいただき、誠にありがたく存じまする」
「ああ、龍助殿」
声の主は、前髪も初々しい少年だった。意知と万喜が儲けた田沼家の嫡子、龍助だ。まだ十二歳の細い身体に喪服の白装束は似つかわしくなく、祖父や父譲りの端正な顔が強張っているのが痛々しい。八重の顔を見つけて寄ってきてくれたのは、叔父の妻に懐いてくれているのなら嬉しいけれど──
(父上は、どの面下げてこの方々に離縁などと告げるおつもりなのだ……!?)
父の裏切りを思うと、悲しみや痛ましさだけでなく、煮えくり返るような怒りが八重の腹の底を焼いた。金弥との離縁によって田沼家を斬り捨てるというならば、父は万喜や龍助をも見捨てるつもりなのだ。
「このような時でもしっかりと挨拶をなされて──なんとご立派な。主殿頭様も万喜様も、心強くお思いでしょう。どうか、これからも叔父上や私を頼ってくださいますように」
「はい。ありがとうございまする」
龍助はほんのわずか、頬を緩めて八重に深々と頭を下げた。利発な少年のいじらしい礼儀正しさを前にしても、彼女の方では形ばかりでも微笑むことができなかったけれど。龍助が不憫なのはもちろんのこと、自身の言葉の白々しさを八重はよく知ってしまっている。離縁した後でも田沼家の人々に親身に──などと、父が許すはずはないのだから。
「夜は長うございます。そうお気を張られずに、食事も召し上がりなさいませ」
「はい、叔母上」
離縁の話はまだ内密に、と言われているから、万喜に打ち明けることはできない。今の憔悴ぶりを見ればなおのこと。同じ田沼邸内で、意次の元にいるはずの父や夫も同様だ。神妙な顔でお悔やみを述べているであろう父が、内心では何を思っているのか──娘としては、おぞましいから考えたくもなかった。
通夜が明けた翌朝、葬儀の列が田沼家の菩提寺である駒込の勝林寺へ発った。半刻ほどの道のりだから、女子供には駕籠も用意されている。だが、市中から郊外に出たところで万喜は徒歩で行くと言い張った。
「人目はないのだから良いでしょう。もう、最後なのですから、できる限りお傍に……」
夫を亡くしたばかりの方の涙ながらの訴えに、誰も否やが言えるはずもなく、けれど万喜は一歩を歩み出すごとに涙を零すような有り様だったから、支えとして八重と龍助も駕籠を降りた。季節は四月に入ったばかり、初夏の日差しに新緑が麗しいはずだった。けれど悲しみが目を塞いでしまったように、八重の目には何もかもが色あせて見える。きっと、万喜たちも同じだろう。
田畑を左右に眺めるのどかな道を行くことしばし、葬列の先頭のほうで人が騒ぐ声がするのが、八重の気を惹いた。意知の棺に手を添えた万喜にも聞こえてしまったのだろう、元より顰められていた眉がいっそう寄っている。
「何でしょうか、いったい……」
「さあ……葬儀の列とは明らかでしょうに、何と不心得な」
万喜に寄り添いながら、八重の胸に嫌な予感が黒い雲のように広がっていた。前方から聞こえる囃し立てるような声の調子には、聞き覚えがある。凶行のあった日、森田座で聞いたのと同じ類の、人の不幸を面白がる浮かれた声だ。
「駕籠を、こちらへ──」
何か、万喜には見せてはならないものが起きている。嫌な予感を覚えて、八重は咄嗟に兄嫁を駕籠に隠そうとした。だが、遅かった。
人が笑う声と怒鳴る声が、風の速さで八重たちのいるところに迫ってきたのだ。
「田沼様のご家中に、一芝居ご覧に入れまする!」
「ご覧に入れまする!」
高らかに謳って駆け抜けるのは、農民にしてもみすぼらしく汚れた身なりの者たちだった。伸び放題の蓬髪に、焼けて埃に塗れた黒い顔、垢じみて擦り切れた着物──物乞いの類だろうと見える。五、六人が、あるいは手を叩き、あるいは木や竹の棒を打ち鳴らすのは幇間を模しているのだろう。彼らに取り囲まれた者ふたりは、いわば花形の役者か芸者か。
「天誅じゃ! 成敗してくれる!」
「ひええ、お助けえ」
ひとりが木刀を振り回し、もうひとりを追いかける。いかにも滑稽な仕草で転がりまわって木刀を避ける方は、七曜の紋を貼りつけた菰を被っている。中心の円を六つの円が囲む七曜紋は、田沼家の家紋。物乞いどもは、意知が佐野某に斬られた場面を、面白おかしく演じているのだ。その意知の葬儀の日に、妻や子のいる前で!
気付いた瞬間に、八重の腕に万喜が倒れ込んできた。慌てて母を支える龍助の顔もひどく強張って、激しい怒りと悲しみが渦巻いているのが見て取れる。物乞いどもから母子を庇おうと、列の外側に進み出た八重の肩に頭に、硬く小さいものがぶつかった。
(石まで……!?)
武家の、それも老中家の一行。その上、若くして殺された人の葬儀の列だ。そこに石を投げつけるほどに、田沼家は軽んじられ侮られ──嫌われているのか。愕然としながら、それでも無礼者どもを睨みつけようと、八重はきっ、と顔を上げた。だが、彼女の目に映ったのは、物乞いだけではなかった。騒ぎを聞きつけてか、あるいは葬列の見物のためにか、近隣の農家から人が現れ始めていたのだ。
「はは、田沼様の前で良い度胸じゃないか」
「ほら、駄賃をやろう」
朗らかな笑い声と共に、また小さく鋭い音が降ってくる。そのいくらかは、八重にも当たる。白い喪服に当たって跳ねては地に落ちるのは、銭だった。田沼家への無礼を百も承知で、農民たちはむしろそれを称賛して見物代を払うというのだ。
「おお、ありがとうございまする」
「田沼様は吝嗇でございましてなあ」
「賂で蔵が潰れんばかりと聞いておりますになあ!」
物乞いの列は、八重たちから離れて農民の前で再び同じ寸劇を演じた。どっと弾けた笑い声を聞いて、やっと、激しい怒りが八重の舌を動かした。震える万喜の身体を抱き締めるように支えながら、叫ぶ。
「──何をしておる! 斬り捨てぬか! あの者どもすべて……!」
「できるはずがなかろう。落ち着け」
腕の中から不意に重さが消えた。何者かが万喜を庇って駕籠へと導こうとしている。八重に低く鋭く囁いた声から、それが誰かは明らかだった。
「殿……!」
「そなたも駕籠へ。耐えるのだ」
「……はい」
葬儀の日に農民を追い回して斬るなどと、田沼家にとっては恥になる。だから金弥の言はまったく正しい。それでも、頭ごなしに叱りつけられたと感じたら、八重は反駁してしまっていたかもしれない。素直に頷くことができたのは、万喜や、母と同じく白い顔になってしまった龍助を案じたから。夫が歯を噛み締めているのが、強張った顎の線から見て取れたから。常ならぬ険しい顔と表情も、金弥が彼女と同じ憤懣を堪えているのだと教えてくれた。それに──
(父上は、ここまで見えていて……?)
列が乱れたことで、離れた場所にいた父忠友と、意次が八重の視界に入った。神妙な顔で、父が何を語りかけているのかは分からないが──葬儀の列さえ笑いものにするほどの、田沼家の嫌われようを、父も気付いていたのかもしれない。だからこそ、早々に離縁などと考え付いた、のだろうか。