第1話 東海道品川宿
梅雨の明けた六月──江戸と京を結ぶ東海道、その第一の宿場町である品川宿は、日本橋もかくやの人込みでごった返していた。物見遊山の旅人に、商人。そして、参勤交代で国元へと帰る大名行列の長蛇の列が、街道を塞ぐ。水野家もまた、所領の沼津へ向かう行列を仕立てて江戸を発つところだった。
駕籠の戸が開くと、夏の眩い日差しが八重の目を射り、潮の香りが鼻に届いた。逆光で暗く染まった視界の中、戸を開けた者が微笑む気配と共に手を差し伸べる。
「八重殿、足元にお気をつけて」
「ありがとうございまする。──が、人前でかように軽々しい真似はいかがなものでございましょう……?」
「行きずりの者にどう思われたところで構いませぬよ。それよりも御身が大切です」
妻の苦言を聞き流して笑うのは、彼女の「今の」夫の吉太郎だ。身分に相応しからぬ気軽過ぎる振る舞いで八重の手を取り、行列の中ほどの、ひと際豪奢な駕籠へと導いていく。彼女たちが歩む左右では、休息していた足軽や人足が次々に平伏して人の波を起こす。水野家の姫とその婿の姿を、家中の者は承知している。
父の駕籠の前に用意された床几に夫と並んで掛けて、八重は頭を下げた。
「父上、お見送りができるのはここまででございます。ご無事のお国入りを、心より祈っておりまする」
意次の失脚からおよそ半年の後、父はこの三月に老中職を免じられた。それは即ち、在職中は免除されていた参勤交代の役を、還暦目前にして初めて課せられるということでもある。老齢の父には過酷な道のりにならぬかと、娘としては心を痛めずにはいられない。
「そなたがしおらしい顔をするなど珍しい。さほどの長旅ではあるまいに」
「それは、そうですが」
日の本の三百余州を見渡せば、沼津は江戸から近いほうではある。とはいえ峠も河の難所もあるのだろうに──扇で汗を冷やしながら、父はこともなげに笑った。
「城を建てておきながら我が目で見たことがないのもおかしなことであったのだ。良い機会をいただいたと思うべきであろうな」
「……はい。仰る通りと存じます」
父が意次のことを念頭に置いているのに気付いて、八重は小さく頷いた。
昨年老中に就任した定信公は、田沼家に対して苛烈な処断をくだしていた。意次の所領を召し上げ、蟄居を命じ、孫の意明──龍助を陸奥下村藩に転封し、辛うじて一万石を与える、という。田沼家が所領を奪われたことで、意次が築いた相良城は、城主を迎えたこともなく破却された。田沼家の人々の無念を思えば、自ら所領を統治する機会を得られた父は、確かに恵まれてはいるのだろうが。
「家中はもちろん、田沼様のこともくれぐれも頼んだぞ。さぞ心細くしておられるだろう」
「はい。人伝てではございますが、何かとご様子を窺えるようにしております。上様にも、気に懸けていただけるように折に触れてお耳には入れているのですが」
声を潜めた父の視線を受けて、吉太郎は小さく、けれどはっきりと頷いた。水野家は、表向きは田沼家とは義絶したことになっている。だが、その気になれば方法は幾らでもあるのだ。まして、新旧の婿が密かに、けれど頻繁に酒を酌み交わす仲となれば。確執があって当然のふたりが、実は気脈を通じているなどと、想像できる者はそうはいまい。ふたりして何を語っているのか──八重も、多くを教えてもらっていない。どうやら彼女には言えないことらしいのだが。
(もったいぶらずに、言伝てなり手紙なりと寄こしてくだされば良いのに……)
あの夜別れて以来会っていない前の夫の姿を、八重は心の中だけで責める。ほかの男の妻になった身で、薄情だ、などとは決して言えないのだが。それは、吉太郎への裏切りにもなることだから。別れた妻への未練など、万が一あったとしても表に出せるものではないのだろうし。決して会おうとしないのは、金弥の意地なのだとは承知している。
八重が黙する間に、父と夫はやり取りをひと区切り終えていた。やや強引な気配はあるが、明るい声で父は総括する。
「まあ、一橋様と越中守殿がいつまでも同じほうを向くはずもなし。上様もお目付け役をうるさく思うようになられるであろう。しばしの辛抱と、心得よ」
「父上が仰ると重みがございますな」
何しろ、零落した家を大名に返り咲かせて老中にまで上り詰めたのだから。その方にしてみれば、今の状況は逆境としては優しいほうなのかもしれない。
「──だからそなたもくれぐれも穏やかに過ごすのだぞ。大事な身体なのだから」
「……はい。心得ております」
父の眼差しを受けて、八重は膨らんだ腹に手を置いた。腹帯を巻いたのがつい先日のこと。最初は今ひとつ実感がなかったものの、腹の中で手足を動かす小さな存在を感じれば、もはや疑いようもない。彼女は、この冬にも母になるのだという。
「くれぐれも、だぞ。そなたは何かと無謀だからな……」
「大事な跡継ぎかもしれぬのですから、もう無理も無茶もいたしません」
しつこく念を押す父の不安には重々心当たりがあったので、八重は大人しく頷いた。
懐妊が分かった時は、父母以上に吉太郎が意外なほどに喜んでいた。もしも男の子なら、雪乃の心が多少なりとも安らぐからか、ともちらりと考えたけれど、どうやらそれだけではないようだった。吉太郎は、八重との子の誕生を心から祝っているのだ。腹に抱えた赤子は父の血も引いているという意味でも、今の彼女はひとりだけの身体ではない。
(子ができれば、今少し夫婦として馴染むのだろうか……?)
正式に夫婦となって一年あまり、八重たちは決して不仲ではないが、だからといって仲睦まじいとも言い難い。
吉太郎は、妻を呼ぶときにいまだに様、とつけることがある。八重も邸内のあちこちに金弥との記憶を見出してしまうし、前の伴侶の名を口にしてしまった機会は、互いに数えきれないほど。猫の華は、頑として吉太郎の膝では寝ない。そんな有り様なのに、子を授かることがあるとはまったく不思議なものだ。
ただ──何もかもが変わるのだろう。そしてそれは、悪いほうにばかりではない。
「そなたもよく見張っているのだぞ。言って聞く娘ではないだろうが」
「はい。心得ておりまする」
不安と疑念を隠さぬ父に、吉太郎は笑って頷いた。
「次のご参府までには赤子の首も座っておりましょう。孫を抱くのを楽しみに、壮健でいらっしゃってくださいますように」
「うむ。何よりの励みだのう」
既に子を持ったことがあるからか、吉太郎の発言は如才なく、かつ具体的だった。父の愁眉を瞬く間に解くことができるほどに。あるいは、孫というものは想像するだけでも心和ませる力があるのか。だらしなく相好を崩した父の表情は、八重も初めて見るもので──知らず、彼女の口元もほころんでいた。




