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八重姫様御大変  作者: 悠井すみれ
六章 天明五年 初春 八重姫様御決戦
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第9話 最後まで

 そそくさと退出した周防守すおうのかみの足音が完全に消えると、吉太郎きちたろうは畳に手をつき、意次おきつぐに向けて深々と平伏した。


「それでは、それがしも失礼いたしまする。上様も大納言だいなごん様も、首尾を気に懸けておいででしょう。お身内の席に、お邪魔いたしました」

「今日のこの時に、周防守殿と越中守えっちゅうのかみ殿がここにおられるのは、承知されていたのだろう。出羽守でわのかみ殿のご配慮であったか?」


 身内が集まっていると、分かった上で踏み込んだのだろう、と。冗談めかした意次の問いに、吉太郎も顔を上げて悪戯っぽく微笑んだ。


「はい。それに、そもそもは金弥きんや殿と八重やえ様の。──あるいは越中守様ご自身が、とも申せましょうが」


 定信公が金弥を訪れたことで、八重たちはあの御方の企みをある程度知ることができた。それを意次に報告したことで、今日の席が設けられた。だから定信公も策に溺れたのだと表現することはできるだろうが──


「だが、上様のお耳にまでも届いたのはお主いなければなかったことだ。──心より、御礼を申し上げる」

「私も……! 上様への奏上など、私では思いついておりませんでしたのに」


 金弥と八重が頭を下げると、一呼吸の後に万喜まきも倣った。吉太郎とは初対面だろうが、窮地に現れた救いの手だということは分かったのだろう。水野みずのという姓からして、八重の──というか父の縁者だと察したのかもしれない。


「いえ、本当に大納言様のお考えなのです。御幼少のご当人のお言葉よりも、上様にお伝えしたほうが、その、早いだろう、と……」


 頭の低さを競うかのように、吉太郎は慌てた様子でまた畳に手をついた。思えば、雪乃ゆきのの一件以来、顔を合わせるのは初めてだった。八重が頭を下げてはかえって恐縮させてしまうだろうか。だが、謝意を表さずにいることなどできそうになかった。


「主君がそのように思い至ってくださったこと、某としても大変嬉しく思っております。ですから、そのようにしていただくことは、何も……!」


 双方ともに頭を上げることができぬまま、吉太郎は畳の目に向けて言い募り、八重たちは畳を見つめたままそれを聞く。少しおかしく、居心地の悪い沈黙が数秒続いた後──吉太郎は、再び乞うように呟いた。


「某は、この場では余所者でございますから。……早々に、失礼させていただきたく」

「私からも頭を下げたいところだが、困らせてしまうのであろうな」

「は──それは、もう」


 穏やかな言葉で吉太郎に引き攣った声を上げさせてから、それでも意次はその場の者たちに顔を上げるように促した。全員の顔をゆっくりと見渡して、そして吉太郎に声をかける。


「大事な御遣いであったのだ。確かに、早くご報告なさるのが良いだろう。御身のことは、出羽守殿にもお伝えしておこう」

「はっ、まことにありがたいお心遣いでございます」


(そうだ……主殿頭とのものかみ様からの御言葉なら父上も、きっと……)


 雪乃の件での父の怒りまでは意次も知らないだろうし、吉太郎も執り成しなど期待していないだろうが。意次から感謝を伝えられれば、父の心も少しは和らぐのではないだろうか。緊張が緩んだためか、痛み始めた傷を密かに抑えて、八重は吉太郎を見送った。




 今度こそ身内だけの座に戻ると、意次は姿勢を崩して脇息に凭れた。


「なるほど、戦ってみるものなのだな……」

「はい。あの……お見事なお振舞でございました」


 客に対してはやはり気を張り詰めさせていたのか、意次の顔にも声にもさすがに疲れが滲んでいる。義父を気遣って傍に寄ろうとした八重を制して、けれど意次は楽しげに笑みを浮かべた。


「万喜殿も、かように勇ましいとは知らなんだ」

「まあ、義父ちち上様はお戯れを……」


 水を向けられた万喜は、恥ずかしそうに頬を抑えた。確かに、日ごろ控えめなこの方が父君だけでなく定信公にまで物申す姿は意外で──そして同時に、痛快でもあった。


「父が相手でしたから。……それに、龍助りゅうすけのためですもの」

「その龍助も呼んで来なさい。無事に終わったということと、叔父上と叔母上に御礼申し上げるように、と」

「はい、義父上」


 万喜の軽やかな足音が遠ざかると、意次は八重と金弥に目を向けた。


「先ほどの御仁が、八重殿の……?」

「は……はい。父は、そのように……」


 吉太郎が八重の次の婿なのか、とわずかに声を潜めての問いかけに、八重は言葉少なに頷いた。万喜に席を外させたのは、これを確かめるためだったのか、と気付きながら。


(吉太郎が余所者と仰ったのもそういうこと、だったのだな……)


 水野姓と西の丸小姓の肩書を聞けば、思えば自明なことだっただろうか。だが、今の夫の隣にいる時に、舅に見事に言い当てられては身の置きどころがない。何をどのように答えるべきか──八重が首を竦める間に、金弥が意外なほどに明るい声を発した。


「あの通り、大納言様のご信任も篤いとか。水野家は人材が豊富で羨ましいことでございますな」

「その相手に頭を下げて礼を述べることができる、お前も大したものに育ってくれたと思うがな」


 金弥の評も意次の答えも意外で、八重は目を見開いた。いまだ言葉を見つけられない彼女に、意次が向ける眼差しは、あくまでも優しい。


「お気になさる必要はないぞ、八重殿。息子や孫だけでない、お父上も貴女もこの年寄のために心を砕いてくださった。上様まで。だからもう軽々に投げ出したりはしない。最後まで──できるかぎりのことを、しよう」

「はい……はい、義父上」


 最後まで、とは、彼女と金弥にも向けられた言葉だと理解して、八重は深く、しっかりと頷いた。最後の最後まで、限られた時間を悔いることのないように、と──そう言われたと思ったのだ。


「おじい様、叔父上……叔母上! 何があったか、教えてくださいませ!」


 八重と金弥が視線を交わらせて頷き合ったその時に、龍助の弾む声が、近づいてきていた。

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