第5話 せめて一太刀
金弥と万喜の目に映る思いを、八重は汲み取った。彼女が小さく頷くと、やはりごく小さな頷きが返る。意次が何を言おうと、三人の答えは決まっていた。
「嫌で、ございます!」
「八重殿。だが──」
義理とはいえ父に対してあるまじき口答えである。怒るよりも当惑が先に立っているらしい意次が窘める言葉を探し当てる前に、八重は語気を強めて並べ立てた。
「万喜様のご心痛には比べるべくもございませんが、金弥様も私もこの一年というもの耐えて参りました。父も致し方ないと、そればかりで……! 私どもについては、確かに致し方ないのだと得心もしております。ですがせめてひとつくらいは、我を通させていただきとうございます」
訳も分からず、理不尽ばかりが続く中で、八重たちはようやく夫婦として心を通わせることができたのだ。すぐに失われることが分かっている絆だからこそ、最後に共に何かを為したかった。龍助を田沼家に残すことができれば、せめて良かった、と思えるだろうか。少なくとも、諦めてしまうのは絶対に嫌だった。
「私は今日の日を戦いと思って臨んでおります。主殿頭様のご意向は重々承りましたが、それでも大人しく首を差し出すつもりにはなれませぬ。せめて一太刀、越中守様にお返ししたく存じます」
「一太刀……そのように言われてもな……」
八重の訴えは、しょせん子供の駄々に過ぎないのか、大仰な言葉は滑稽に響いてしまったのか。意次はやはり怒ることなく、ただ困ったように眉を寄せるだけだ。父や金弥でも無理だったのに、八重の言葉が意次を動かせるかも、などと。思い上がりに過ぎなかったのか、と眼前が暗くなる思いがしたのだが──
「八重様の仰ること、私にも腑に落ちましたわ、義父上様」
「万喜殿まで」
常のように穏やかに、けれど常になくはっきりと、万喜が口を挟んだ。いつも控えめな方なのに、舅を驚くほど真っ直ぐに見つめて意見を述べる。
「どうして殿が亡くなられたのか、ずっと考えておりました。誰が刀を振るったかということではなくて、どうしてあのように悪しざまに言われなければならなかったのか。悲しくて憤ろしくて──けれど、誰を責めれば良いのかも分かりませんでした。世間、とか申すものはあまりにも大きくてぼんやりしていて、掴みどころがなくて。包み込まれて圧し潰されそうな心地でございました。いえ、実際、圧し潰されたのでしょう。近ごろは情けなくも金弥様や八重様にお縋りするばかりでございました」
恐らくはこの一年ほどの間に、万喜の中で渦巻いて凝り固まったことなのだろう。決して声を荒げる訳でもないのに、聞き入らずにはいられない切々とした響きがあった。眉を寄せたままの意次にも止めることをさせず──万喜はでも、と言って微笑んだ。
「父や越中守様でしたらだいぶ分かりやすうございますものね。姿の見えない世の民の声などとは違って。敵と思って良い──戦っても良いのだと、八重様に教えていただいた思いです。八重様の一太刀に、私も加勢しとうございます」
万喜が不敵な表情を浮かべるのを、八重は初めて目の当たりにした。意次や金弥にしても同じなのだろう、親子して目を瞠る表情が似ているのが少しおかしい。
「敵、など──周防守殿は貴女の父君ではないか」
「田沼様に嫁いだ以上は、関係ございませんわ」
堂々と言い放った万喜に意次は一瞬絶句し、そしてさすがに語気を強めた。
「ならばなぜ家長に従わぬ?」
「先ほどまでならば、私が殿と別れ難いため、龍助のためと申しておりましたでしょう。けれど、今ならば違います」
万喜はちらりと八重を見てから、悪戯っぽく微笑んだ。実家の遣いを追い返した時のような、少女めいた朗らかな表情だ。八重が口走った一太刀、という喩えがやけに気に入ったらしい。顔を顰めた舅に視線を戻した時も、万喜は実に浮き立った様子をしていた。
「戦ならば、敵に背を向けてはならぬものでございましょう。兵は逸っておりますのに、大将が弱気で何となさいますか」
「そもそもが負ける戦なのだ。その喩えで言うならば、そなたたちを死地に送れぬ」
どうして分かってくれぬのか、と。その場の誰もが思っているのだろう。互いを思い遣っていながら、そのために選ぼうとしている手段がどうしようもなく食い違っている。意次はひとりで首を差し出すつもりだと言ったも同然で、八重たちの誰も、そのようなことは望まないのに。
万喜に加勢して、金弥と八重もここぞとばかりに声を上げた。
「ならば、戦ってから負けてもよろしいでしょう。そのほうが、まだ気は済みます」
「それに、まだ勝機はあるかもしれませぬ。父や金弥様からもお聞き及びかと存じますが──」
「聞いている」
多勢に無勢を悟ったのか、意次は珍しくはっきりと顔を顰めて八重を遮った。
「大納言様へのお執り成しを願うなど……! せっかくの水野家の人脈なのだ。もっと使いようがあるだろうに」
それでも怒る理由が水野家のためなのだから、この方の優しさは疑いようもない。家斉公の寵愛を得た吉太郎に縋ろうとするのではなく、あくまでも自家のために使えと憤るとは。思いが伝わらぬ焦りと、案じられていると感じられた喜びを同時に感じながら、八重は懸命に言葉を探した。彼女自身の思いだけでは足りぬなら、ほかの者の考えも伝えよう。例えば吉太郎は、何と言っていたか──
「ですが、西の丸に仕える者たちが、主殿頭様のご政道を面白そう、と申しておりました! 世の噂など気にするなと、……それに──幼い御方に無理が通るのを見せる訳にはいかぬ、とも!」
吉太郎や豊太郎と会って、八重の心は晴れたのだ。世にいるのは敵ばかりではないのだと思えたからだ。例の気にするな、という言葉は、今の意次にこそ必要ではないのだろうか。
「それは──」
「主殿頭様の、上様へのご忠誠は伺いました。けれど、大納言様にも同じく忠誠を捧げる者がおりまする。主君に道理を見せんとする思いを、汲んではくださいませぬか……!?」
意次が言い淀んだ隙に、八重はさらに将軍家への忠誠にも付け込んだ。家斉公を案じていた吉太郎のためにも、諦めていただく訳にはいかないのだ。
八重だけでなく、万喜も金弥も息を詰めて意次の返事を待つ──が、次に響いたのは、部屋の外からの声だった。
「お話し中申し訳ございませぬ。あの……周防守様と越中守様がお出ででございますが」
議論が白熱していることは外からも窺えたのだろう、来客を報せた者の声はおずおずとした控えめなものだった。だが、それでも張り詰めていた空気は緩んでしまった。八重たちにとっては悪い報せでもある。意次の心を変えることができぬうちに、刻限が来てしまったのだから。
意次が襖の外に応えるまでに、幾らかの間が空いた。
「ああ……お約束していたからな。お通しせよ」
「義父上様……」
沈黙の中で何を考えたのか。客と会って何を話すつもりなのか。八重たちの思いを代表するかのように、不安げに呟いた万喜にちらりと目を向けて、意次は小さく息を吐いた。
「負ける戦には変わりがない。……が、負けるにも形を整えても良いのかもしれぬ」
負けの形、とはいったいどういう意味なのか、これもまた問う暇は与えられなかった。ただ、下がるように命じられることもなかった。それは希望と捉えて良いのか──分からないまま、八重たちは新たな客人を迎えることになった。




