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八重姫様御大変  作者: 悠井すみれ
六章 天明五年 初春 八重姫様御決戦
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第1話 「見舞い」

 豊太郎とよたろうを見送った後、八重やえはまた布団に戻された。将軍世子への直接の請願が叶うかもしれないという高揚、それに、客人への応接と、傷を庇いつつ筆を執った疲れが重なって、熱が上がったのを侍女たちが案じのだ。大げさな、と思いながら形ばかり目を閉じたはずが、いつしか眠りに就いていたらしい。額にひんやりとしたものが触れるのを感じて、八重は目を覚ました。


 辺りはすでに夜の闇が忍び寄っている。寝惚けた頭を覚醒させるために、瞬きを数度。足元の重さと温もりは布団に乗ったはな。そして、絞った手拭で八重の額を拭ってくれたのは──夫の、金弥きんやだった。


「……覗き見など趣味が悪うございますよ」

「隠れたりなどしていないのだから、覗き見には当たらないだろう」


 寝顔を見られていた気恥ずかしさに抗議すると、夫は悪びれずに笑う。周防守すおうのかみの遣いを退けた件について、意次おきつぐに説明するために神田橋かんだばし田沼たぬま邸に出向いていたはずだ。


「神田橋様のほうでは……ご首尾はいかがでしたでしょうか」

「勝手な真似を、と眉を顰めておいでだった。……出羽守でわのかみ様のご懸念通り、龍助りゅうすけを厄介から遠ざけたいと考えておられるのだろうな」


 寝ている場合ではないと八重が身体を起こすと、夫が白湯の椀を渡してくれる。病気という訳でもないのに大層に甘やかされているのが、大げさだと思う反面、嬉しくもある。


 喉を潤して人心地つくと、八重は豊太郎の訪問と用件について手短に伝えた。


「──そういうことですので、大納言だいなごん様のお耳に入るのも間もなくかと……そのようにお伝えすれば、主殿頭とのものかみ様のお心も変わるでしょうか」

「そうだな。だが、明日にも、という訳にはいかぬ」


 敵がいつまで手をこまねいていてくれるかも分からぬのに、悠長なことである。眉を顰めて夫の真意をただそうとした八重を、けれど金弥は悪戯っぽい笑みで宥めた。


「本当は教えたくはないのだが、後で知ったらお前は怒るだろうからな」

「……何のことでしょうか」


 判じ物めいた言い方に、八重の眉間の皺は深くなるばかり。彼女の機嫌が傾いたのを察したのだろう、金弥は妻の疑問を手で制し、すぐに答えを与えてくれる。


「明日、越中守えっちゅうのかみ様がこちらにお出でになる。恐れ多くも見舞ってくださるとのことだ」

「見舞い……?」


 越中守──白河藩主松平定信。意次を追い詰めようとしている、まさに大敵たる相手の名を聞いて八重の頬は強張った。誰の、あるいは何に対する見舞いなのかも不可解だ。彼女はこうして傷を負って寝込んでいる身ではあるが、かの御方が八重のことなど知る由もないし、気に懸けていただく謂れもないのだが──


「忘れたか。俺は他所から離縁を知らされて傷心中なのだ。それを慰めてくださるらしいぞ」


 金弥の説明を聞いて、八重は息を吐いた。当然のことながら、次の手を考えていたのはこちらだけではなかったのだ。見舞い、などとは建前に過ぎないだろう。彼女の夫は、定信さだのぶ公の企みの標的になったということらしい。


      * * *


 万喜まきを助けた時の策を、八重は今回も踏襲することにした。つまり、金弥が客を迎える隣で、息を潜めて様子を窺うのだ。


「後で何を話したかは伝える、と言ってもやはり無駄なのだな」


 大人しく寝ていれば良いのに、と表情ではっきりと語りながら、それでも金弥は火鉢やら座布団やら、八重が冷えないようにあれこれ差配してくれた。言い争うだけ時間の無駄だと、八重の夫は妻の気性をよく理解してくれている。




 ほどなくして訪れた定信公は、当然のように上座を占めた。大名家の跡継ぎ──今は、まだ──の金弥に対して、将軍家の血を引く貴種で、すでに藩主の座を継いでいる御方だから当然のことだ。八重も席次を予想して、襖の隙間から来客の顔を覗ける位置に陣取っている。


「急なことで申し訳なかった。だが、周防守殿のもとで聞き捨てならぬことを知ったゆえ、居ても立ってもいられなくてな」


 今日も、定信公は隙のない装いで現れた。怜悧な表情に明晰な語り口は、若くして名君と称えられる御方に相応しい、のだろう。どこか冷たそうだ──などと思ってしまうのは、田沼家に肩入れする八重が素直に見ることができないだけのはずだ。定信公は、一応は夫を案じる言葉をかけてくれているというのに。


 だが、「見舞い」に応じる金弥の声は硬く──駆け引きのうちなのだろうが──不審を滲ませていた。


「何のお話か察してはおりますが、ご説明があるとすれば周防守様からと思っておりました。貴い御身を煩わせること、恐縮至極に存じまする」


 そうだ、この御方の訪問は確かに不審なのだ。神田橋邸でのやり取りを、なぜ知っているのか。金弥が事情を質したのは周防守に対してなのに、なぜこの御方が現れるのか。


「ああ……では、やはりまだ何もご存じないのか」

「知らぬ、というか……根も葉もないことで、困惑している、というのが正直なところにございます。越中守様がお気に懸けるようなこととは、とても……」


 定信公は、いかにも同情している、という風情で溜息を吐いた。一方の金弥は、慎重に言葉を選んで相手の反応を窺っている。敵方の認識を探るためにも何も知らぬという体を貫くのだと、あらかじめ決めているのだ。


「呑気に構えておられる場合ではないぞ。根も葉もないなどとんでもない、出羽守のやり口はまったく卑劣で道理に悖る。公儀に届けた跡継ぎである貴殿を追い出す算段を進めているのだ。それも、貴殿に知らせることさえせずに!」

「……まさか」


 とうに知っていることを得意げに聞かされて、金弥は驚いた演技をするのに苦労したようだった。八重の耳には夫の当惑が明らかだったが、定信公は驚きのあまりに言葉も出ないのだ、と取ったらしい。畳みかけるように膝を進めて、声を潜める。


「だが、より憎むべきは実の父君のほうだ。これほどの大事を知っていながら黙っているとは情が薄いにもほどがある。さすが、兄君が亡くなられた後も平然と老中の座に居座り続けるだけのことはある……!」


 ぎり、と。金弥が奥歯を噛み締めた音が八重の耳に届いた気がした。あるいは、彼女自身の歯軋りの音だっただろうか。怒りで脳が焼け、全身に力がこもって負ったばかりの傷を痛ませる。彼女が襖を押し開けずにその場にとどまることができたのは、痛みが辛うじて冷静さを思い出させてくれたからだ。


「……父が何も言わぬのは、取り合うまでもないと考えたからでしょう。兄のことも。何も感じておらぬはずはありますまい。悲しみを忘れるためこその精勤ぶりであって──そう、だから他所事が疎かになるのも致し方ないかと」

「あの父君に対してもそのように申されるとは見上げた孝心でいらっしゃる。だが、父を敬うからこそ過ちを正すことも子の務めではないか?」


 定信公の物言いは、高みから見下ろして言い聞かせる響きがあった。間近で面と向かって対峙していながら、目上への礼節を辛うじて守ることができた金弥の自制心は驚嘆すべきものだった。これが八重なら、刀を抜いて斬りかからない自信がない。


 それでも狼が唸るような剣呑さで、金弥は将軍家の血を惹く御方に迫る。


「父の過ちとは何なのか、教えていただきたいものですな……!」

「今さら多くを語らずとも良いだろう。だが、あえて挙げるなら……例えば、兄君を──嫡子を死なせてもなお改める気配がないというだけで十分だ」

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