第5話 八重の決意
「冗談では申せません! 父は、確かに──」
叫んだことで心の堰が溢れたのだろう、万喜は、八重の腕の中に崩れるようにして、涙を流し始めた。義姉を抱き締めながら、八重は懸命に言われたことを呑み込み、何が起きているのかを把握しようとした。
「お父君──周防守様が? いったいなぜ、そのような無体を……?」
万喜の父は、老中主座の松平周防守康福。田沼意次や、八重の父の水野忠友とは同輩にあたる。意次のように実務の中で頭角を現したのではなく、長年実直に勤め上げたがゆえの今の地位だ。現職の老中の中では最高齢ということもあり、何ごとも穏やかに無難に運ぼうとする風があるとは聞いている。だから──普通なら、このような常識外れのことを言い出すはずはない方なのに。
「たとえ夫を亡くしても、子があれば婚家に残るものでございましょう? まして、龍助殿は田沼様の嫡子ではございませぬか。松平様のもとへお連れするなんて──」
「父には、男子がおりませんでしょう。次代については姉に婿養子をいただきましたが、姉もまた子には恵まれておりません。また養子を迎えるとしたら、私の子のほうが家中の者も受け入れやすい、と……」
「だからといって横暴な……!」
家を継がせるならば、できることなら血の繋がった孫に。どこかで聞いたような理屈だ。ほかならぬ八重の父が、そのようなことを言って娘の婿を挿げ替えようとしている。だが、それは口実でしかない。息子を亡くした意次の失脚に巻き込まれぬよう、早々に縁を切っておこうというのが父の真意だ。同じ老中同士、同じく意次との縁組で権勢を奮った者同士、万喜の父が同じ結論に至ったとしてもおかしくはない。──あるいは、八重の父がその考えを吹き込んだか。
「……そのような大事を、万喜様だけに? 周防守様は、主殿頭様にはどのように……?」
父への疑念と憤りのために、八重の声は低くなった。顔にも険が浮かんでいるだろう。だが、幸いに、万喜は顔を手で覆っているから義妹の表情には気付いていないはずだ。恐らくは、その余裕もないのだろう。八重の胸に額を押し付けながら万喜が漏らす言葉は、嗚咽で途切れ途切れになっていた。
「何もかも諦めたようなご様子でいらっしゃいます。父が望むならそのように、三河以来の名門を継ぐほうが幸せかもしれぬ、と……私は、我が殿をお見捨てなどしたくはありませんのに……!」
(先ほどの主殿頭様は、だから、あのようなことを……!)
八重を遠ざけるような意次の物言いは、腑に落ちた。息子たちと縁づかせ、共に幕政を担った者たちにさえ見捨てられつつあるのを悟ったからこその、あの儚げな眼差しだったのだ。だが、知ったところで納得にはほど遠く、八重は奥歯をぎり、と噛み締める。
「だから、金弥様と私のことをお気に懸けていらっしゃるのですね……?」
「失礼なこととは存じましたけれど。でも、父がもっともらしく言うものですから、私──」
いかにも言いづらそうに言葉を濁す万喜の懸念も、よく分かる。金弥が田沼家を継ぐとしたら、八重との離縁が前提になるのだから。それも、金弥の立場で考えれば婿養子よりも実家を継ぐほうが美味い話なのかもしれないのだから。近しいはずの者たちが、揃って婚家を見捨てようとしているなど、信じたくはないだろう。その苦い思いは、八重もこの数か月というもの嫌というほど味わっている。
(いずれは分かること……その時は、お恨みになるかもしれないが……)
せめて今だけでも、万喜の心を安らげたい。その一心で、八重は嘘を吐く心の痛みをねじ伏せた。
「まあ、万喜様。そのようなことはあり得ませんわ」
八重も、かつてならば夫を疑っていたかもしれない。父と謀って妻を捨て、実家を手に入れるつもりなのではないか、と。けれど、今なら自信を持って首を振ることができる。亡き兄への敬愛の念も、龍助の行く末を案じる思いも、ちゃんと伝わっているのだから。そう──少なくとも、その点だけは嘘ではない。
万喜の背を撫で、その不安と恐れを宥めながら、八重はどうにか微笑むことができたはずだった。
「我が殿は、兄上様の忘れ形見を押しのけて家を継ぐことを良しとするような方ではございません。私にお話してくださって良かった……殿がお聞きになったら、きっとお怒りでしたでしょう」
「え、ええ……そう、ですわよね……」
「私も……父に確かめてみます。周防守様は何か思い違いをなさっているとしか思えませんもの」
万喜がやっと頬を緩めたのを見てとって、八重はやっと息を吐くことができた。万喜に告げたのは、わざと本題をぼやかした言葉だった。金弥の心情は、本人に聞くまでもなく事実ではあるだろう。だが、八重や夫が望むことがそのまま実現するかどうかは分からない──というか、非常に怪しい。だが、今の万喜にそのようなことを言えるはずもない。
「良い年をしてお恥ずかしいところを──龍助たちが戻る前にどうにかしなければなりませんわね」
「龍助殿は育ち盛りですもの。少し身体を動かしたくらいでは満足なさらないはずですわ。殿がしっかりとお相手してくださるでしょう」
涙を拭って恥ずかしげに頬を染める万喜に、できるだけ朗らかに語りかけながら、八重は内心では腸を煮えくり返らせていた。
父に確かめてみる、と言ったのは嘘のつもりはない。だが、それは相談ごとでは決してない。離縁のこと、次の婿についてなにも聞かされていないことも不満だし、意次から何もかもを奪おうとするかのようなやり口はまったく人倫に悖る。
父のもとに怒鳴り込んで、直接問い質さなければ気が済まない。父の都合も謀も知ったことか。
(父上……今度こそ、はっきりと説明していただきますぞ……!)
そのように、八重は密かに心を固めていた。




