竜皇が一緒。~巫女姫アリアの場合~ 1
『竜皇の巫女姫』シリーズ第2弾。『竜皇といっしょ。』より数世代前の竜皇と巫女姫の物語。
竜皇、巫女姫ともに残念仕様のため、コメディ寄りです。
ちょっとした屋敷なら庭ごとすっぽり入ってしまうような、広い空間。
この城では大広間と呼ばれる、部屋と呼ぶには広すぎる室内に、この広さに見合った大きさの存在が身を横たえている。
窓から射し込む光を受けて輝く鱗は空色で、薄暗い室内にも青空が現れたように見える。折り畳まれた翼を広げれば、姿はその数倍にも見えるだろう。爪は青みを帯びた銀。人間から見れば一抱えもある大きさながら、十分な鋭さを持っている。床に長く伸びた尻尾もまた、尖った鱗が並び、寝そべってくつろいだ姿でも、その偉容が向き合うものをひれ伏させる。見るものが見れば、その巨躯から発せられる強大な魔力を感じとれることだろう。
竜。
それは神の末席に名を連ね、多くの神が大地を離れた後もこの地に残り続ける最後の神。
北大陸を守護する竜は、その蒼い姿から蒼の竜皇と呼ばれる。
縦長の瞳孔と青銀の虹彩を虹色が取り囲む目が困惑の色を湛えながら、首を反らし何故か自分自身の背中の辺りを見ようとしている。
「ちょっと動かないでよっ!」
背中の中程、左右の翼の付け根辺りから、少し高い声が響く。
『危ないから降りなさいと何度』
竜皇の苦言に、翼の間から一人の娘が姿を現した。
白地に所々青い糸で刺繍を施した、巫女の略装を身に付けている。癖のない黒髪を背中に流し、南方の出なのか肌の色は少し濃い。年の頃は十七、八といったところ。世間なら大人として扱われてもおかしくないし、実際顔立ち自体は大人びているのだが、翼の陰からひょっこりと顔を覗かせる仕草には幼さがにじんでいる。
「大丈夫よ。それに、落ちそうになったら助けてくれるんでしょ?」
『それは当然だが』
「ならいいじゃない」
娘は困惑する竜皇に構わず、背筋に沿って並んだ突起状の鱗に手を掛けて、背中から首筋へと登っていく。
娘に止める気が毛頭無さそうなのを見て取り、首を巡らせた状態では危ないかと、竜皇はそろそろと首を床に這わせる様に伸ばした。
その姿には体躯からくる威圧感はあっても、威厳はかなり失せている。
『……そもそも何故登るのだ?』
「竜皇が大きいからじゃない?」
あまり答えになっていない一言を返し、娘は竜皇の額辺りに腰を下ろす。
『だから、頭には乗るなと』
「いいじゃない。減るものじゃないし」
他の者が見れば、竜皇の威光は確実に減っている。そう、口には出せないまでも心に思うことだろうが、幸か不幸かこの場には一人と一匹しかいない。
竜皇はなるべく風を巻き起こさないように、細く溜め息を吐くと、顔を上げた。
「きゃっ!」
体勢を崩した娘が小さく悲鳴を上げるのにも構わず、竜の巨体は光に包まれ、光は次第に小さくなる。
滑り落ちかけた半端な格好のまま宙に浮いていた娘はゆっくりと床に近づき、竜を包む光が集まった場所に現れた人物の腕の中に納まった。
そして、浮遊感がなくなり、自身の体重が不意に現れた男の腕にかかるのを察知した途端。
広い室内に乾いた音がこだました。」
「いやーっ! 放せーっ!」
遅れて悲鳴。
娘は自分を抱き上げる相手の胸に手をついて引き剥がし、床に飛び降りて走り出す。
腕から降りる際にも、転ばないように魔力で支えられていたのは一応わかっているが、礼を言うような状況でもないらしい。
広間の奥、人間の大きさに合わせた城へと続く扉を開けて駆け込むと、その影から室内に残る相手を睨み付けた。
「人になるときは一言断ってって言ってるじゃないっ」
もとから少しつりぎみの漆黒の目を更につり上げる。
その視線の先には一人の男。
背丈は一般的な男性よりも高く、細身の体が長身を際立たせている。背中に長く流れる髪は、淡い青。白皙の肌に均整の取れた顔立ちは、石像を思わせる程だが、左頬にくっきり残る手の跡が確かに血が通っていることを示している。縦長の瞳孔と青銀の瞳もまた、明らかに人間ではない色。しかし、浮かべた表情は穏やかなもので、視線も子供をなだめるかのように優しい。
「頭の上には乗らないように言ったはずだが」
ゆっくりと、扉に体を半分隠している彼女に近づく。
「それと、いい加減に慣れないかな?」
五歩程の距離を残して向かい合う。
「……イヤなものはイヤ」
娘はそう言い残すと、扉を閉める。
軽い足音が遠ざかっていくのを感じながら、青い髪の男――竜皇はやれやれと苦笑した。
こうして、竜皇による第五十八回巫女姫アリアスティア捕獲計画は、それまでの五十七回同様、失敗に終わったのだった。
「うぅ、またやっちゃった」
城の廊下を早足に歩きながら、巫女姫――アリアは頭を抱えていた。
相手はいくら自分に甘いとはいえ神である。神に平手打ちをかますというのは、どう考えても誉められた行動ではない。
ある意味勇者ではあるが。
しかもこれは何回目だろうかと考え、両手の数を越えたところで数えるのをやめたんだったと思い出してまた落ち込んだ。
突き当たった壁に手をついて、深呼吸で暴れる鼓動を静める。
「いい加減慣れろって言われたって、イヤなものはイヤなんだから仕方がないじゃないのよ」
うつむいて顔にかかった髪をかきあげながら、はぁ、と溜め息を吐く。
「初めの頃は、良かったのに」
遡ること十一ヶ月ほど前。
まだ、アリアが別な名前で呼ばれていた頃。
最も昼の短い夏至。大陸の南にある南神殿で、竜皇の巫女選びの儀式が行われた。
竜皇は四方の神殿にそれぞれ年に一度、神託を授けに降りてくる。そして、その際、それぞれの神殿で四年に一度、つまりは毎年どこかの神殿で、竜皇の傍に仕える巫女姫を選ぶ儀式が行われる。
とはいってもと、巫女姫となるべく修行している巫女のうちから、十六から二〇歳の者を一人選び、竜皇に引き合わせるだけのものではあるが。
竜皇に選ばれることは大変な名誉ではある。
しかし、人間としての生活を捨てる程の決断ができるものがそういるわけではなく、なかなか儀式に臨みたがるものもいないのが現実だった。
そうなのだが、今回は珍しく自ら名乗りを上げた巫女がいたため、何の問題もなく儀式が進められた。
儀式の間と呼ばれるテラスに降り立つ巨体に、巫女が息を呑む。
予想以上に大きくて圧倒されてしまった。
その力強い姿に。空色に輝く鱗に。淡い色なのに、深さを感じさせる、不思議な青銀の瞳に。
一目で心を奪われたと言っていい。
儀式の口上を述べながら、非礼になるとわかっていたけれども、思わず、巫女が立つべき位置以上に近づかずにはいられないほどに。
『私が恐ろしくはないのか?』
竜を目の前にしても、臆することのない巫女に、竜皇が語りかける。
直接頭の中に響くような声は穏やかで、姿に似合わないようでいて、良く似合っている。
「何故恐れるのでしょうか? これほど美しいのに」
竜を見上げ、巫女は心からそう答えていた。
こんなに美しい存在に、出会うことができただけでも幸せだったと。人生で最高の思い出になるな、などと。
巫女が夢見心地のまま、竜といくつかの短い会話を交わした後。
『巫女姫に、なるつもりがあるか?』
竜からかけられた予想外の言葉に、巫女は一瞬自分が寝ているのかと疑い、頬をつねって現実と確認し、それでもまだ納得できずに竜を見上げる。
『巫女姫になりたいと思うか?』
改めて問いかけられた言葉に、巫女は表情を輝かせ、そして。
「はいっ!」
不意に拓かれた新しい道に、何のためらいもなく飛び込んだのだった。
ただの修行中の巫女から竜皇の巫女姫となってアリアスティアという名を竜皇から新しく与えられ、最初のうちは一人と一匹の生活は穏やかに流れた。
アリアにとっては、口やかましい神官もいないし、巫女同士のいがみ合いもない、家族から胸の悪くなるような手紙も来ないし、好奇の視線に晒されることもない、初めて手に入れた平和な生活。
一緒にいるのは竜だが、アリアは全く臆するところがない。順応性が高いのか、単に神経が太いのか、意見の分かれそうなところではある。
あまりに大きくて、その翼が、尾が、爪が、吐く息でさえも、ただの人間であるアリアにとっては取り返しの付かない傷をつけるほどの凶器になる。その為、初めは竜皇から距離を取っていたのが、何を思ったかアリアの方が近づきたがった。
「触ってもいい?」
言われて嫌だと言えるはずもない。
むしろ、恐れ敬われることがあっても、わざわざ触れてくるような者は今までいたことがないので、竜皇は首をかしげた。
怯え、萎縮する生き物は多いが、懐いてくることはほとんどない。どうするのかと見守っていると、アリアは鱗に覆われた竜皇の前足に近づき、そろりと指先を伸ばす。
指先に伝わる硬い感触に怯えるどころか満足気に頷くと、掌で撫でた。
どういうわけか、アリアの顔が緩んでいる。
『……硬くて冷たいだろう』
竜皇が少し沈んだ声で呟くが、答えはなく。
『アリア?』
もう一度声をかけると、返ってきたのは上機嫌な笑みで。
「うふふふふふふ」
『……アリア?』
困惑する竜皇に構わず、アリアは嬉しそうに鱗を撫でる。
「ひんやりで、すべすべでつやつやー」
しばらくしてやっと状況が理解できた竜皇が、それでもまだ信じられない様子で、問いかける。
『……鱗が、好きなのか?』
「大好きっ」
ぴったりと鱗に頬を寄せながら満面の笑みで返され、竜の姿を受け入れられた嬉しさに、竜皇はしばし言葉を失った。
それからしばらくは蜜月とも言うべき時間が流れ、アリアは遠慮なく竜皇の背中や頭でくつろぐようになり、竜皇も苦笑しつつもそれを嬉しがっていたりしていた。
アリアが竜皇の城に来てから半年が経った夏、白夜の空に浮かぶ紅い月の下で。
「これが、私のもうひとつの姿」
竜がその姿を縮め、その代わりに少し照れたような、でも穏やかな笑みを浮かべて目の前に立つ男の姿に、アリアは一瞬凍りつき。そして。
「うそぉーっ!」
悲鳴を上げて、逃げ出した。
「……え?」
予想外の出来事に、取り残されて呆然とする竜皇がその事情を聞けたのは、実に三日にわたる城内をくまなく使った追いかけっこの後のことで。
「私、竜は大好きだけど、人間の男は大嫌いなのよ。近寄りたくもないの」
それは、竜皇を落ち込ませるには十分すぎる答えだった。
「また駄目か」
後に残された竜皇はそのまましばらく立ち尽くし、やがて小さく溜め息を吐いた。
でもまぁ、今回は一瞬でも触れられた。前回よりは体一つ分位は近づけた。少しは進歩している。多分。きっと。
竜皇は自分に言い聞かせるように、無理矢理にでも前向きに考える。頬に残る痛みも、アリアの手が触れたのだと思えば、愛おしく思えないこともないような気がする。
「……野生動物を手懐けようとする人間は、こんな気分だろうか」
つりがちの目といい、しなやかな身のこなしといい、例えるならば山猫あたりだろうか。
そういえば前は平手打ちのついでに引っかかれることも多かった。距離を取って威嚇してくるときも、確かに体毛があれば逆立ってそうだ。
本来、竜皇は大陸の生けとし生けるものの皇である。動物はその威容を前に恐れひれ伏し、眷属はその強大な魔力を前に膝を付かずにはいられない。
竜皇に盾突くことができるのは、そういった存在の重さや、魔力に関する感受性の鈍い人間か、余程の身の程知らずくらいである。
アリアが鈍いのかそれとも身の程知らずなのか、それはなんともいえないが、少なくとも竜を前に怯え萎縮するだけではないという点だけでも、竜皇にとっては貴重な存在である。
「さて、今回は機嫌が直るのにどれだけかかるかな」
竜皇はアリアの位置だけを簡単に探り、なるべく行き合わない道筋を選んで自室へと歩き出す。
逃げられた後は、追いかけると余計と事態が悪化し、数日間顔を会わせることも出来なくなることをやっと悟ったのは十五回目くらいのことだった。
竜皇にしてみれば、アリアが城内にいる限りその居場所は簡単に探れるし、何をしているのかを見るのも簡単なことだ。仮に城を出ても、竜髄石を身につけている限りは、大陸のどこにいようと探し出せる。
しかし、できることとしてよいこととの間には乖離があり、竜皇はアリアの位置をおおまかに把握し、迷っていないかを確認するに程度にしている。常識と良心に基づく行動であるが、万一覗いて、それを知らたらどれだけ大変な事態になるかを恐れてであることは否定しきれないだろう。これ以上嫌われてはたまらない。
それでも、一応位置を確認しておくのは、アリアが迷っても一切助けを求めようとしないからである。
「動物ならば、エサでおびき寄せることもできるのだが」
食事の際になんとか会えないかと食堂に居座ってみたこともあるが、アリアが「じゃぁいらない」と絶食を選ぼうとしたので、慌ててやめた。
巫女姫の眷属であるアウテナの女王に、年頃の娘が好みそうなものをいろいろ用意させてみた。甘い菓子も、上質の茶も、細かな細工の小物も、色とりどりの生地、アルカスのレースですら冷静な一瞥で過ごされた。
城にあるもので何か気を引けないかとも思って試してみた。城を飾る彫刻。上質な調度を揃えた部屋。宝石の数々。温室に咲き乱れる、大陸各地の花。林に住む小鳥やリスといった愛らしい小動物。しかしいずれも、竜皇が驚くくらい反応が薄くことごとく失敗。
姿に気付かれれば逃げられ、まともな会話が成立しない中、竜皇が半ば自棄になり竜の姿で広間に寝そべっていると、不思議なことにアリアが自分から擦り寄ってきた。
どうやら、竜の姿で待っているのが一番効率がいいらしいと気付いたのは、三〇回を軽く越えた頃。
竜の姿も、人の姿もどちらも同じ竜皇だというのに、この扱いの差は一体なんだろうかと問いかけたこともあるが「姿が違うんだから当然でしょう?」と一言で片付けられている。
過去の竜皇の記憶を探っても、人の姿を見せて親密になった例は多いが、人になった途端嫌われた例はない。
あと数歩までは近づけている。方法としてはまちがっていないはずだ。
竜皇はぐっと拳を固め、決意を新たにする。
確かに、問答無用で逃げられてから、あと五歩まで近づけたと思えば、立派な進歩だ。
ただし、それに五ヵ月以上かかっており、一回で縮められる距離は回数と反比例に小さくなっている点を故意に無視しているが。
この調子ではいつまでかかるかわかったものではないが、竜皇はその能力とは反対に、非常に地道な性格をしているのだった。