2話:コンティニュー
白い。――ただ白い海がそこにあった。まさに虚無といったところだろうか。常人なら半日もいれば気が狂ってしまいそうなほど、超常的な空間だった。
しかし決して何もないわけではないらしい。
空虚な空間に不自然に目立つ、アンティーク調のテーブルとチェアが2つポツンと用意されていた。加えてどうやらチェアには1人の男が座っているようだ。いや……惰眠を貪っているというべきか。
(……うぁ……痛え……)
脳が軋むように痛み、ズギズキと一定の間隔を刻む。まるでアラートのような刺激は急激に意識を覚醒させていった。
「おや?起きたかい?」
(……ん?俺は寝ていた……のか?しんだはずじゃあ……)
何者かの問いかけにより、濁った意識が明瞭になっていく――――とはいっても気だるさは未だ健全で、体重が増しているような気さえするのだが。
重力という不可視の枷に苦しむ体を無理に動かし、腕で体を押し上げることで突っ伏していた体を起こす。お高そうなテーブルに寄りかかっていたのか……涎垂れてないか?思わず口元を服の袖で拭う。
年期の入ったテーブルに刻まれた木目には液体は見られない。よかった、垂れていないみたいだ。
顔をあげた俺は辺りを見渡す。――白い。それ以外の感想なんて、白で目を焼かれて眩しいぐらいのことしか思い当たらない。俺が座っている椅子とテーブル以外に物は一つもないようだ。……いや?誰も座っていない椅子なら後一脚あるけど……意味はないか。
「大丈夫かい?」
―――先ほどから聞こえてくるこの謎の男性の声はなんなのだろうか。先ほどから凄まじく現実離れした光景や現象であるにも関わらず、不思議と恐怖はなかった。頭がバグっているのかもしれない。
「ここだよここ。前を向いて集中して観察してごらん」
何を言っているのかわからない。けれども俺はただ愚直に言葉に従い前を向き、声の聞こえる方向、つまりもう一脚の椅子がある方向を見つめた。
(ん?なにかが見える……ような……)
純白の空間の中にぼんやりと澱みが見える。それは…人の形をしているのだろうか。少しずつ、少しずつ、何かの形が浮かび上がってきた。
「慣れてきたようだね」
最終的に俺の視界にあったのは白いタキシードを着込んだ男だった。顔はモザイクがかかったかのように、澱みが取れなかったが……ただの人間というわけではなさそうだな。
「ここはどこですか?あなたは誰なんです?」
恐怖は感じていなかったものの疑問は尽きない。耐えきれずに質問を投げかけた。
「随分動じないね君は。死んだと思ったらいきなりこんな状況下にある……そうなると人間は錯乱するものだと思っていたよ。――――ここは現世と冥界の狭間、生死の境といったところかな。それと……僕はフィドっていうんだよろしくね」
「生死の境って…俺生きてるんですか?電車に轢かれて死んだなって感じたところまでしか記憶がないんですが……」
言葉を紡ぐ度に体が冷たくなっていくのを感じる。
質問したことですぐに解答されるものだと思っていたものの、白い男――フィドは数秒の静寂の後、足を組み替え、勿体ぶったかのようにコーヒーカップを口に運んだ。男の反応の静けさから、俺にえもしれぬ恐怖が這い寄る。死んでるから恐怖がないなんて嘘だった。明確な死の実感が、死を言葉にするたびにこの身を蝕んでいく。
そしてようやく男は口を開く。
「――――君は死んでいるよ」
電車に撥ねられた瞬間が今更のようにフラッシュバックする。なんちゃらホルモンてやつで俺の精神は麻痺していたんだな。自覚ともに恐怖があふれ出し、体が勝手に、意思とは関係なく震える。
「死を自覚できていなかっただけみたいだね。君の分のコーヒーを用意しよう。飲めるかい?」
「は、はい」
今までよりも優し気な口調で語りかけてきたフィドは指を重ねパチンと弾いた。するとフィドの手元が光り、コーヒーカップが表れた。
「どうぞ。これでも飲んで一旦落ち着こう」
フィドはどこからともなく現れたコーヒーカップを俺に差し出してくる。暖かい。俺は冷え切った両手を白い陶器で温めた後、口をつけて黒い液体を嚥下した。
「電車に轢かれたら助かることなんてそうそうありませんよね……」
事実を咀嚼するように口に出した。胸中を誰かに打ち明け、どうにかして落ち着きたいのかもしれない。
「そうだねぇ、死んでしまっているよ。だけどあくまで肉体は、だけれどもね」
「肉体は?」
どういうことだ?疑問が胸中を埋め尽くす。
「君、僕と話しているじゃないか。それにコーヒーカップも温かく感じるだろう?つまり肉体を失ったとしても、魂はまだ生きているってことだね。それにここは生死の境だよ?真の死者はこの領域には留まれないんだ。」
俺を安心させようとしているのだろう。フィドはゆっくりと語りかけながらもそう断言する。
「魂は生きているよ。あくまで――まだ――だけどね。本来は肉体の死と共に大いなる生命の円環に戻るはずだった君の魂を、僕がここに引き込んだんだ」
「……そんな死にかけの俺を引き込んで何がしたいんです?」
疑問が意図せず口から飛び出てしまった。
「…あれ?こういうのって割とお決まりなんじゃないの?」
「え?どういうことです?」
驚くようにフィドは言葉を漏らした。何をいってるんだ?俺も意味がわからなくて驚いている。俺がおかしいのか?
「それと僕がなんかミスっちゃって君を殺しちゃったとかじゃないからね?」
「え?ん?――――――あぁそういうことですか!」
唐突なひらめきによって急速に現状把握が進む。確かにこれなら納得がいく……のか?かなり信じがたいことではあるけど、今もかなりおかしな状況ではあるし……
「これってもしかして流行りの転生物的な感じなんですか?俺はあんまり知識ないんですよね……」
「そうそう!やっとわかってくれたか!てっきり君はそういうの好きなのかと思っていたよ。」
「なんで俺が好きだと思ったのかはわかりませんが……俺が好きなのはゲームなんですよね。……ってことはあなたも神様的な存在なんでしょうか?」
「別に僕は神様でもなんでもないから畏まらなくでいいよ!」
神様じゃないならなんなんだよ……その思いを飲み込みながら話を聞く。
「なんとなく状況を分かってもらえたわけだし、丁寧に説明していこうか。まず君をわざわざ生命の円環の中から掬い上げた理由についてなんだけど、それは君に異世界で新たな人生を歩んでもらおうと思ったんからなんだ」
「はぁ…異世界っすか。」
なんとまぁテンプレートな。でもまぁやっぱり想像通りだし、そこまで怯える必要もなさそうだ。
「ムムッ!なんてありきたりな展開だって考えているね?使い古された展開ってのはそれだけ、優秀なシナリオってことなんだぞぉ!」
フィドはムキになったのか今までで1番大きな声を出す。多分好きなんだろうなぁ。俺もゲームの話をするときは大きな声になるし……なんか死の恐怖を感じてたのがバカらしくなるな。
「君が好きなゲームは――――デモンズクエストだっけ?あの作品も王道を征く作風の中に意外性を混ぜ込んでいくって感じだろ?そういうことなのさ!」
「はぁ。じゃあ俺が異世界に行く目的ってやつも教えてもらえませんか?」
なんとなく言いたいことはわかったけどフィドって、相当ディープなやつだな。なんかキャラも崩れてきているし……正直変な奴だ。
「ほほう、君はいいところを突くねぇ!ちゃんと疑いを持つのはいいことだよ。最も!僕を疑う必要はないんだけどね!!!」
フィドは顔こそ全く見えないものの、ヘラヘラと笑っているようだ。何が面白いんだか全然わからん。
「目的はね!君が新たな世界で織りなす人生を僕と一緒に体験しようってことなのさ!!」
「なるほど……じゃあ特にして欲しいことはないって感じなんですねか?魔王討伐とか……」
「そう!あくまで自由にやってくれ!魔王を倒したっていいし、勇者を殺したっていい。田舎で農業をやったって、犯罪者になって独房で過ごす……みたいなことになってもいい。楽しくないのは困るけどね」
随分と寛容な条件だけど……異世界って言われてもなぁ、自分の話ってなるとイマイチ想像がつかないものだ。ファンタジーの世界に行けたらなんて妄想は数えきれないほどしてきた筈なのに、いざって時には役に立たない。
「じゃあなんで俺を転生の対象に選んだんでしょう?」
死者なんて悲しい話だが世界中を見渡せばいくらでもいるだろう。その中でなぜ俺は選ばれたのだろうか。
「――都合が良かったから、とだけ言わせてもらうよ」
急にまじめ腐った態度になったフィドはそう説明する。……なんとなく理由がわかったわ…未練がなさそうだからってことだな。――天涯孤独の身の上だし。
「君の暮らしていた地球とは全く違う世界で自由に生きる!実に興味をそそられないかい?
暗くなった雰囲気を払拭するかのようにフィドは手を広げ大仰な仕草で問いかけてくる。
「――興味ですか?なくはないかなって感じっすね」
「そこは興味をがあると言っておけば話は簡単に済むんだけどなぁ」
「そう言われても転生するっていう異世界がどんなところかわからないんですから。転生したら環境に合わないで即死みたいなとこに送られたら困りますよ」
話を聞かないで契約をするってのは1番やってはいけないことだ。これでも一応、20年ぐらいの人生経験を有した成人なのだ。
「……まぁ確かにそうか。こういうのってみんな飛びついてくるもんだと思ってたんだけどもなぁ。僕が楽しみたい以上、君に向いているであろう世界は剪定してあるし、今ならおまけもつけちゃうよ?」
「断ったらどうなるんですか?」
断る理由もないのだが、一応聞くだけ聞いておこう。
「えー断るの?そりゃあ勿論魂が命の円環に戻るわけだから当然、死ぬってことになっちゃうんだよね」
「それ、俺に選択の余地なくないですか?」
「そうだね!!!」
フィドはおどけた様に拳で自分の頭をコツンと叩く。俺が断るわけがないと知った上で態々こんな質問をしてきたのか!なんだこいつちょっとウザいな!!——————とはいえ死ぬよりは転生する方が明らかにマシだろうな。夢も希望もない人生を送ってきたが、決して死にたいと思っているわけではないのだ。それに異世界となると夢を見ることも叶いそうだ。
「じゃあお受けします。それとおまけってなんですか?」
「それは転生してのお楽しみってやつさ!」
そこは教えてくれないのか……かなり気になるところなんだけど……
「じゃあ形式に沿って仕切り直そう」
「え?そんなことするんですか?」
仕切り直す?そんなことする必要ないじゃないか。
「こういうのは形から入るべきなんだよ。言わば転生の儀式だね」
はぁ……面倒臭いが反論するのも更に面倒臭い。従っておこう。
襟首を正し、神妙な雰囲気を漂わせ始めたフィドが格好をつけて喋り始めた。
「自分はこの世界に向いていない。そう感じ、やるせなさを感じたことはないだろうか。」
――ある。もしゲームのような世界で暮らすことができたら、そう妄想を重ねたことは数えきれない。
「本当にやりたいことはこんなことではない。そう思い悩んだことはないだろうか?」
――――もちろんある。惰性に敷かれたレールの上を歩んできた人生だった。一度死んで、新たな人間となるならばそんなレールから外れてもいいんじゃないだろうか。
「本当に輝ける場所はこの世界ではない。そう思ったことはないだろうか。」
思い上がりと言われようとも俺は、他の世界ならばもっと活躍できると信じている。
「ならば、僕が君を新たな世界に誘おう。共に新たな世界で冒険を楽しもうじゃないか!」
徐に立ち上がったフィドは白い手袋に包まれた手をこちらに差し出す。そして俺はその手を躊躇なく取った。今度こそ、今度こそ全力で生き抜いてやる。2度と言い訳なんてしない人生を。
「でもなんでわざわざ確認を?」
「……ちょっと昔やらかしちゃったんだよね。……だから形式に沿って意志確認しないとさぁ……」
「…そうなんですね。」
急に心配になってきたんだけれど……一体何があったんだ……
「コホン!君の新たな人生に幸多からんことを!僕はいつも見守っているよ!」
気を取りなおすかのように咳払いをしたフィドは、手を振りながら俺の肩に触れる。
その瞬間、世界は白から黒へと染まった。