虚像と無知
その戦争のきっかけは些細なことだった。
とある小国内部、その村同士の境での喧嘩騒ぎ。そのときに片方の村人がもう片方の村人の命を奪ったことが始まりといわれている。
場所が問題であったのだ。その小国は当時世界でも有数の国力を持っていた大国に挟まれた位置にあり、さらにその国は大国の主たる民族の血を濃く受け継ぐ複数の民族によって構成された多民族国家だった。今回の喧嘩騒ぎはその二大民族の境で発生したのである。
殺された村人の家族を中心として、その村は相手方に相応の賠償を求めた。その時にさらなる圧力をかけるために村人の一人が国の民族組織に応援を頼んだことで事態がさらに巨大化する。そこからはとんとん拍子であった。仲のよろしくない民族組織が動いたとなるともう片方も動かざるを得ず、小国は一種の内乱状態に近い形となり、その報告が隣国である大国まで至るのにはそう時間はかからなかった。自国の民と同じ血を持つ者が苦しめられている。国が動くのにそれ以上の理由はいらなかった。
はじめは穏便に、時間がたつにつれ表立った過激な介入が行われた。
そうなると大国間での緊張が高まるのは当然の事であって、それが臨界に達するのも時間の問題というものである。
ある日の昼下がり、東の大国の皇帝は側近に耳打ちした。
曰く、かの西国を討伐すると。
そこから数日後、皇帝の言葉によりあわただしく動いていた東の政府に西で活動中の間諜から一つの報告書が送られてくる。そこには西の政府が正式な戦争の準備を進めていること、こちら側の動きを少なからず感知していることが書かれていた。
ここに征服王戦役以来77年ぶりの大戦争の開始が決定的になった。各国は隠すこともせず軍備を整え始め、そこから一週間もしないうちに正式な宣戦という運びになった。
戦争がはじまる。
この情報は東の(西も同様であった)全国に瞬く間に広まり、同時に軍の兵隊募集の張り紙が掲示板に出されるようになった。かつての戦争の英雄たちの物語を寝物語に聞いていた人々にとってそれは栄光の舞台に等しく、政府の要求募集数どころか軍部の最大予想数をはるかに上回る人数がその張り紙を見て各地の駐屯地に殺到した。軍関係者はうれしい悲鳴を上げつつも少なからず人数を絞ることにした。すなわち、兵隊に適している人物を一種、それ以下を二種として前者を優先的に採用、訓練するようにしたのである。
首都から汽車で揺られること1時間余り、決して大きいとは言えない駅があるのみの田舎に住む青年もその張り紙を見て駐屯地に向かった一人であった。
彼はここ最近失恋と挫折という若い時期にありがちな問題を抱えて、鬱屈とした毎日を過ごしていた。学業にも熱が入らず、成績も落ちるばかりで父からきつい叱りを受けたのもこの数日の事である。
そんな中の兵隊募集であった。彼もまた幼いころは騎士の物語に目を輝かせ、少年のころには征服王戦役の話を聞いては心を躍らせていた一人で、それに強く惹かれたのである。
彼は募集の張り紙を見た夜、家族の食卓の場で応募する旨を伝えた。母は仰天して止めようとしてきたが、父は特に反対することもなかった。三男である彼が兵隊に行ったところで家業に問題はなく、最近の彼の様子は何か閉塞的なものを感じられていた。そして何よりも彼の祖先は戦で功績を立てたという事実があり、国の危機ならば一族から戦力を出すのは妥当と思われたのである。
次の日、彼は駐屯地の門をたたいていた。
彼は格別に優れた体躯を持っているというわけではなかったが、学校では運動を欠かさず行っていたこともあり、一種合格を勝ち取った。当時はまだ栄養不足が常に付きまとう時代であり、それがないだけでも十分に合格する要素ではあるのだが。
彼が一種合格を得てからはあっという間に入営、そして訓練の日々が始まった。
送られてきた若者を中心をした集団を一人前の兵士に、短期間で育成するというのは並大抵のことではなく、非常な厳格さが伴い、肉体的精神的負担が育成者と被育成者に降りかかった。
町では学業的厳しさで知られる学校に通っていた彼にとっても兵営生活はつらいもので、同室の仲間たちと夜ごとに訓練についての愚痴を語った。
しかし、そのような厳しさもあってか、入営から2週間もすると教官たちは訓練兵たちが基本的な服従、規則、集団行動を身に付けたと思えるほどになっていた。
そのころである。
東西両政府は正式に宣戦を布告。ここに征服王戦役以来の大戦争が幕を開けた。
彼は戦争が始まったことを訓練と訓練の間の昼食休憩の時間に知った。教官室の前を通った訓練生の一人が教官たちが興奮気味に語っていたのを耳にしたらしい。
当然、訓練生たちは沸き立った。ついに、あこがれた武勲の稼ぎ場所が定まったのである。これによりやる気で満ち溢れたというのは言うまでもない。それに加えて教官たちの熱の入りようも目に見えて変わった。実戦が目の前に来たのである。
戦争の最序盤は静かなものだった。どちらも相手の出方をうかがって動かない。それもそのはずで、常備軍しか戦争体制が整っていなかったのだ。虎の子をたやすく失うわけにはいかないのである。
東の軍総司令部は政府の若干時期尚早な宣戦に憤りつつも、戦争を優位に進めるための計画を練っていた。それがウェーネッテル・プランである。参謀総長ウェーネッテルのもと考案されたそれはこれより数週間もしないうちに訓練が完了するであろう新兵を大量に前線にやり、戦線を押し上げつつ要所を常備軍で抜くという王道も王道な戦術であった。それを東の首都から見て北西という特定の地域でやると定めることで、ウェーネッテルは自分の名がついた作戦を行えるようになった。
対して西側は情報によると防備を固めているようで、積極的な軍事行動は見受けられないとのことであった。これを聞いた時、総司令部にいた高級将校たちは皆ほくそ笑んだ。
戦争は機先を制した方が勝つ。
古来からの基本とされ、それをうまく実行したものが戦争の英雄とされてきたことは周知の事実である。それに反する動きをした西側は負けるのみであろう。
そう、楽観視していた。
小競り合いが多数起きる一か月が過ぎ、東側の新兵第一期生らは訓練を終え、正式に配属が決定された。
彼の配属は第347歩兵大隊。新設された第103歩兵師団の所属である。頭に3桁の数字がつく師団は戦時において新設された師団の証である。
訓練を終えた余韻に浸る間もなく、配属先の大隊へ移動を命じられ、そこで大隊規模の演習を数日受けたのち、来たるウェーネッテル・プラン実行のためにさらなる移動が命じられた。
行く先は西部の要所フラット。そこで命令を待ちつつ、訓練が行われた。
しかし、それもまた一週間もしないうちに終わる。
新設師団8個の編成が終了したとの報告を受け、総司令部は直ちにウェーネッテル・プランの発動を命じた。師団は命令を実行に移すべく、所定の配置へと移動を開始する。第103歩兵師団は想定される戦線のちょうど中央に配置され、そこより前進、カウナス河を越え運河の要衝カペタゴンを占領するのが目標とされた。
フラットより列車で辺境へと至り、そこからは徒歩行軍。鉄道こそ通っていないものの、昔からの道がいくつかあったため行軍はそこまで困難ではなかった。
彼を含む兵士たちは基礎訓練による体力づくりが行われていたので行軍中に談笑する余裕すらあった。本来それはとがめられる行為だが、士官たちは黙殺した。
徒歩行軍をすること半日。ようやく西側との緩衝地帯に至り、師団は他との足並みをそろえるため一度足を止めた。近くには小さな村がいくつかあるのみで、町はなく兵士たちは野営の準備を進める。夕暮れが美しい時間帯であった。
何人かの兵士は村へ赴き遊ぶことも考えたが、初っ端から自国で軍記違反を犯すわけにはいかないと踏みとどまった。実際、ほかの師団では無断で遊びに出かけ、後方に送り返されるという事件も発生していた。
やることもないため、ぴかぴかの軍備をさらに磨きつつ、談笑にふける兵士たち。
その間、士官たちは作戦開始の連絡を盛んに取り合っていた。無線通信は実用段階に至っておらず、全師団間は有線を張れるほどの距離でもないためいちど司令部のあるフラットへ伝令を送り、それを見て開始時刻を再度伝令に託し、師団は行動を決めた。
第103歩兵師団は明朝7時に前進、カウナス河まで至れとの命令を受け取った。その後は右翼の第4師団と左翼の第107歩兵師団と連絡を密にし、カペタゴンを攻撃せよ、と。偵察によるとカウナス河までは敵軍の姿は見られず、それを越えてからカペタゴンまでの間には防備が確認できるという。度合いは情報不足にわからないが、土塁が築かれ、鉄条網などが予想できる。数年前に開発され、極東の小国と北国の戦争に初導入されたこの単純かつ効果的な兵器は前進を大きく妨げる効果を持つ。また、師団の目標渡河地点は比較的浅瀬ではあるものの、周辺の泥濘地も含め砲兵などは渡るのに障害があると考えられるので注意されたし、とも言われた。
師団長のテントに集まり、地図を広げ注意点を書き込み、行軍線を引く。敵側の情報が少なく、それ以上が計画できないことはそこに集った人々に一抹の不安を抱かせた。
日が昇る。
時見の兵士がラッパを吹き、次々と兵士が起床し始める。季節はまだ朝を寒いと感じるほどではなく、寝床に吸い込まれたまま起き上がれないものは少ない。
彼は目覚めはいい方だったのですんなり起床し、身支度を整え、洗面桶に水をもらって顔を洗う。そして、その音でようやく起きた同じテントの戦友たちと合わせて朝食の配給をもらいに行く。肉がふんだんに入ったスープと硬めのパン。それに加え、努力すれば数日は持つであろう量の携帯食料も配られた。これから数日は戦闘行為に入るためである。
朝食で体を温めると、急に実感がわいてくる。はじめて、実戦に出る。
自身のテントに戻り、戦闘服の身支度をしたのち小銃の点検を行う。ますます実感は高まり、次第に興奮してきた。
再びラッパが吹き、大隊ごとの整列が行われる。訓示が始まった。
「わが大隊は師団の行動方針に基づき、まずは西のカウナス河を目指す。以降は漸次命令に従い、行動するものである。初戦を乗り越えれば勝利は目の前である。諸君らの健闘を期待する」
大隊長の少佐が雄弁をふるう。新兵たちはきりりとした表情でそれを聞き入る。誰しもが武勲を挙げて故郷に錦を飾ることを夢見ていた。今日はその一歩目だ、という思いは一緒だった。
訓示が終わると行軍開始である。前日とは違い、臨戦態勢に入りつつのそれはかなりの緊張感を伴う。先端がとがっている軍帽をかぶった彼は今までより重い気がする荷物を背負い、小銃を担いで歩く。
数時間しないうちにカウナス河は見えた。
偵察の通り敵影は見えず、発砲は発生しなかった。
大隊はカウナス河の泥濘地に入る手前で停止し、命令を待つ。
兵士たちは敵が見えないことにより若干緊張が解けていた。なんだ、敵さんはこの数を恐れて逃げ出したのか。そう思うのも当然である。
東の軍の行軍はほぼ想定通りに進んだ。そのため、作戦開始当日の正午より前には全軍がカウナス河にたどり着き、その情報が行き渡るのにも時間はかからなかった。
フラットの総司令部はその日の13時をもってカウナス河の渡河の開始を命令。全力を尽くした伝令により情報は正確に伝わり、全軍は動き始める。
彼の大隊も河を渡った。兵士たちはブーツを脱ぎ、ズボンのすそをまくり上げて渡る。緊急事態でもない限り服は濡らさないべきである。
彼らが無事に河渡りを終え、濡れた部分をふきつつ隊列を整えているころ、カウナス河より東で停止している師団本部には伝令が駆け込んでいた。
曰く、交戦が開始されたと。
一番北の師団所属の大隊が敵の小部隊を発見し、発砲。退却する敵兵を騎兵が先導して追撃してるとのこと。北側は橋が残っていたため迅速に移動ができ、おそらくは偵察してきた敵部隊と遭遇したものと考えられるらしい。
師団長は前線に注意喚起を促すように伝令を送る。
彼の大隊は河より進み、泥濘地を抜けた先まで至っていた。ここまでくるとカペタゴンに前に広がる森が見えてくる。
「あの森を抜ければカペタゴンだ。敵兵が見えることだろう」
行軍しつつ大隊長が言う。拍子抜けした時間を送っていた彼ら兵士の士気は高まりを見せる。
森には普段市民が利用する林道が敷かれており、また、伏兵などの心配も少ないため、行軍が遅くなるようなことはなかった。すぐに抜けることができたのである。
森を行軍中、ようやく銃声が聞こえてきた。まだ遠くても聞こえる範囲で戦争が行われている。その事実は何よりも臨戦態勢へ向かわせる要因となる。しかし、大隊長を含む幾人かの士官、下士官は眉をひそめた。
銃声がおかしい。小銃のような小さいものから、大砲のような大きな音がするのはわかる。しかし、それに加え小さな連続音が聞こえてくる。大隊長は副官を呼び、小声で会話を交わす。
「あの音は……」
「もしや、機関銃があるのやもしれませぬ。しかし、数がいささか多すぎるような……」
この時点で大隊長は嫌な予感がした。しかし、もう止まることはできない。
森がもう少しで終わるというところ、ようやく近くで銃声が始まった。師団の戦友たちが戦い始めた模様である。そこでも機関銃の音は複数鳴り響き、やがて大砲の音もするようになった。
ここにきても兵士たちは恐怖を感じなかった。音はすれども形は見えないのである。仕方のないことといえばそうなのだ。
しかし、やがて森は終わる。
開けた視界には遠くカペタゴンの街並み、そして、その手前にある複数のこんもりとした小さな丘。硝煙のにおいと、巻き上げられた砂。すでに戦闘は始まっていた。
大隊長はそれを見て突撃命令を出す。ほかで戦闘が始まっている以上待つ理由はなかった。
彼は銃を再確認する。銃剣をつけ、装填よし、安全装置解除。ボルトアクションを行い、発射可能状態までもっていく。そして、小走りをはじめカペタゴンの方へ向かっていく。
「おっし、俺が一番乗りだぜ」
「はっ、鈍足のお前がか?」
戦場には似つかわしくない会話。走りながら、息が上がりながらも口に出さずにはいられない高揚感。手にある鉄の筒の、足で感じる土の感触すら心地よかった。
「何か見えたら迷わずに撃て!」
大隊長の声が遠い。かなり前にいるようだ。
大砲の音はやまず、硝煙の香りはいまだに濃く漂っている。
だが、不思議と彼がいる部隊には実被害がなかった。
小さな丘が近づいてきた。よく見ると丘には細長い窓のようなものがついており、そこがきらりと光った。彼はそこめがけて銃を発射しようとする。
その次の瞬間だった。
ぱぱぱぱぱぱ、と連続音が響き、誰かの悲鳴が響く。鉄のにおいがぷうんと充満した。
「伏せろ!」
誰かが叫ぶ。しかし、彼はその言葉にとっさに反応できず、前に進もうとする力と止まろうとする力が同時に働き思いっきりつんのめるようにして前に倒れてしまった。
砂を噛む。口の中が切れたのか鉄の味が広がった。しかし、それ以上の被害はない。
転んだまま片手で軍帽を抑え、後ろを振り向く。生きている仲間は伏せて、若干のくぼみに隠れていた。しかし、その隣には目を負いたくなるような凄惨な光景が広がっていた。
地面が真っ赤に染まっている。その真っ赤に染まる原因となっているのはそこら辺に散らばっている物体から出ている液体。
機関銃をもろに食らった人間の末路であった。
彼はそこで初めて恐怖した。その光景から目が離せなくなる。
「あ……」
死んだ?さっきまで隣にいた連中が?
顔も思い出せる。訓練所も一緒に乗り越えた仲間だ。
現実が遠くなる。戦場のにおいが一気に薄くなる。手足に力が入らない。
誰か、いや誰かたちが立ち上がり、叫び声をあげて再度の突撃を開始したようだった。
「やめろ!止まれ!」
聞きなれた大隊長の声がそれを制止しようとした。しかし、それに対応した無情な機関銃の音が響くと叫び声は断末魔に変わる。彼は人間が肉塊に変化する瞬間を見てしまった。
思わずうずくまり、真っ暗闇に視界を向ける。
怖い。
あんな風に死にたくない。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……
彼は黒いスクリーンに映された自分の人生を見ていた。一瞬だが永遠のような時間が流れる。すべてが懐かしい。うれしさも苦さも、今となってはどれもが輝かしい。
彼がそれらが走馬灯であることに気づくまで少し時間がかかった。
「生きているものは聞け!機関銃の範囲の外まで退くぞ!」
懐かしい大隊長の声が彼を現実に引き戻す。彼は低い姿勢のまま顔を上げた。
血の匂いが濃くなっている。おそらくは仲間がたくさん死んだ。いや確実に、だ。
後ろを見るぞろぞろと背を低くして森へと向かう仲間たち。何人かはこちらを向いて小銃を撃っている。しかし、彼らの命は機関銃の前に薙ぎ払われた。
彼は何も考えず仲間の方へ走り始めた。全速で、ただ走る。
後ろで機関銃の音がして地面がはじける音がした。巻き上がった砂が素肌をたたく。
直撃しなかったのは奇跡だった。彼にはその奇跡を感じる間もなかった。
仲間が見える。手を振っているのが見える。
何も考えていなかった彼の頭に安堵という感情が生まれる。
だが、次に感じたのは無だった。
さっきまで遠くで鳴っていた大砲の音が急に近くなり、放たれた弾が炸裂する。爆発した付近の人間は吹き飛ばされ機関銃の時より無残な死を迎える。
測距が終わり、放たれた大砲がまず襲ったのは敵の一番近い兵士たちだった。彼のように弾のごく近くにいた人間はむしろ幸福だったといえる。何も考えることなく死ねるのだから。吹き飛ばされ、弾丸の鉄を食らった人間は良くてずたずたな傷を得、悪くて体の部位がなくなった。彼らを待っているのは等しく死であり、今ひたすらに感じるのは苦痛である。
「くそ……!」
大隊長が歯ぎしりをしてカペタゴンの方を見る。部隊は壊滅状態、生き残った人員も戦意を喪失している。もはや、軍隊の体を成していない。
「隊長、砲兵中隊を呼ぶべきでは……」
「もうとっくに伝令を送っている!ほかの部隊も同じ状況と考えると来れるはずもない……」
激しくなる砲撃の中、会話を交わす。完全な撤退という言葉は出さなかった。いや、出せなかった。これほどの死を目の前にしてもなお命令は有効であったのだ。
「師団本部に伝令、命令更新を待つ、と。それまでは森へ入り待機せよ」
大隊長は食いしばった歯の隙間から指令を下す。少ない声の復唱がばらばらに響く
大戦最初期の東側の攻勢、ウェーネッテル・プランは開始1日余りで頓挫する惨状を見せた。機関銃トーチカの存在を知らずに砲兵支援もなしに突撃したうえ、開けた地で砲撃を食らった新兵師団は大打撃を受け、戦力の多くを失うこととなった。加えて先行した精鋭の第2師団も真っ先に砲撃を食らったため壊滅に等しい被害を負った。
各部隊は司令部の命令を待つことなく一時撤退を行い、無謀な攻撃をやめた。それにより西側へ速攻を仕掛けるという計画は完全に破綻し、その初期目標である北西部に侵入すらできないという現実を司令部に押し付けた。
その報を聞いた参謀総長ウェーネッテルは加えていたパイプを落とし、目からは明らかに光が失われた。同じテーブルについていた司令部付きの参謀たちも被害の報告書を見て言葉をなくす。
「見積もりが甘すぎるんだよ、上の連中は」
司令部の一室、小さめな個室で大佐の階級章をつけたメガネの男と少佐の軍服を着た男が話していた。大佐はふーっと紫煙を吐く。
「見積もり?」
同じようにタバコを吸っていた少佐は大佐を見て聞き返す。
「ああ、いくら80年近く大規模な戦争がなかったからとはいえ、そのときの勝利をそのままに使いすぎなんだ」
ため息が出る。机の上には数々の報告書が置かれていた。その一番上は数か月前の日付で題名は『技術革新に追随する新戦術の考案および体系変更』と記載されていた。
「数年前の極東の戦争は知っているだろう?あの時私は北国の駐在武官として見学したが、東国の軍事技術の高さには舌を巻いたものだ。それ以降陸軍全体の革新を推し進めるように提言をしてきたが……頭の固い上は何も聞き入れちゃくれなかった。それがこの結果なんだよ」
すっかり短くなったタバコを灰皿に押し付け、椅子に深く腰掛ける。
「今回の会戦で少なからず目は覚めるだろうが、ただそれだけのためにどれほどの命が失われたことか……」
戦没者保障の捻出を図る財務役人たちはさぞかし大変であろう。そんなことを思いつつ天井を見上げる。程よい色の木材が見返してきて、大佐は目を閉じた。
「変わらねば、なりませぬな」
少佐の決意じみた発言は大佐の黒い視界に響いた。
砂。カペタゴン出身者にとってそこ一面が砂でおおわれていることは違和感でしかなかった。東部のアルシュタットの森とカペタゴンの街の間には本来小麦畑があるはずだった。しかし、戦争の機運が高まるや否や、保証はするという魔法の一言と共に国軍と徴兵された住民がそれを撤去、トーチカ群を建設し、その前は平らにした。さすがに森にまで手を付けることはできなかったようである。
そこで待つこと2週間余り。東の軍は予想通りの進路をとりカペタゴンを目指した。
戦闘はあっけなかった。訓練通り、引き金を目標に向けて引き、後方の砲撃部隊に測距結果を送る。ただそれだけだった。
カペタゴンに来た国軍司令官曰く、臨時徴兵の人にはそれ以上のことを求めないし、させるつもりもないとのことだった。
だが、戦闘が終わると、“それだけ”がどれだけのことであるかが身に染みて理解できた。
カラスが何匹も空を舞っている。不気味な声は夕方の刻を知らせるものだが、あまりに数が多い。ましてや、地上にいる同種がやっていることを見たら声だけで吐き気がするというものである。
「あんな風に死にたくはないな」
双眼鏡で森の方を見ていた同じトーチカの同僚が言った。
機関銃のメンテナスをしていた私は一瞬対応が遅れる。彼と同じ視線にしてようやく言いたいことが分かった。腐臭が鼻を刺激する。
「ああ、それはそうだよな」
元は畑だった場所に死体が点々と転がっている。視界に入るそれらの多くは数日前に自分が撃ち殺した人間だった。カラスはそいつらをついばんだり、つついたりしている。
幸いなことに殺す瞬間は間近で見ることはなかった。ただ、照準器通りに飛んだ弾が当たった人間は一部が吹き飛ぶか、ばったりと倒れ動かなくなる。それらは距離があれば動物や物と変わらない。それゆえに心を失わずに済んだ。
「俺、ここで何事もなくおやじの跡を継いで生きていくと思ってた……」
同僚はとても小さい声でつぶやいた。
「ああ、俺もだ」
すでに自分の手は血で染まってしまっている。目に見えぬ汚れかもしれないが、はっきりとまとわりついていることが実感できる。
カラスが鳴く。それ以外は静かなものである。私は目を機関銃に戻し、再びグリスを塗り始めた。戦争はまだ終わらない。死者を出しただけで東が戦をやめるとは考えられない。
濃厚な死の気配が漂う戦場の風が吹く。