炊煙警戒せよ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふんふん、この匂いはカレーを作っていますよ先輩! 部活の帰り際でこんな匂いを嗅がされたら、そりゃもうお腹がうずいちゃいますねえ。ほら、言っているそばから先輩も腹の虫が鳴いていますよ。
今日はカレーまんでも食べて帰りません?
いやあ、ちょうど2個だけとかついていましたね〜。一年三百六十五日、いついかなる時でもカレーの匂いを嗅げば、元気を取り戻す自信が私にはありますよ。たいして具が変わらないはずの肉じゃがは、あまり好きじゃないんですけどね。みりんなどの甘い味付けが、舌に合わないんじゃないかと、個人的には分析しています。
ご飯の気配って、誰しも敏感になりますよね。人間に限らず、たとえば、一部の肉食の動物なんかは、数キロ先の血の匂いをかぎ分け、後を追うことができるとか。これもまた生への執着、長く生きるために必要な感覚、いつまでも鈍らさずにいたいものですね。
そしてこれらの生の証は、時に大きなサインとして、私たちに情報を与えてくれるんです。その一端が垣間見える話、ちょっと聞いてみませんか?
戦国時代に、とある領主が隣国へ攻め入った時のことです。着々と戦力を整えていた領主は、実に2万人という大軍を擁し、国境を侵しました。
それに対し、隣国は兵をかき集めても、おおよそ8000が限度だったといいます。先輩だったらこの人数差で、どう戦いますか?
――ふんふん、一か八かの奇襲をかける、ですか。まるで桶狭間の戦い、いや、人数的には三方ヶ原の戦いの方が近いかな。
そう、野戦であれば天候その他で、どう転ぶか計算がしづらい。自然の流れに影響を受けやすいですからね。大勝も大敗もするでしょう。
ですが、隣国の領主は籠城策を採りました。国境から本城に着くまでは、真っすぐ進むと6つの城を越える必要があります。そこにそれぞれ1000の兵を配し、本城に2000の数を持って、立てこもったらしいのですよ。
どうしてこんな戦略を採ったのか。マイナーな人なので研究はさほど進んでいないようですが、私は割り算説じゃないかと思っています。
合計で7つの城。城に籠る側からすれば、外からの援兵を期待するのが普通ですから、持ちこたえることが肝要です。攻める側も時間をかけたくないところでしょう。
そうなれば城を同時攻撃した方が早い。大軍で進軍しているのだから、兵を分けるゆとりは十分。2万の兵を7で割れば、一隊あたり3000にちょい足らないくらいです。多少の配分差はあれど、城で防戦に徹すれば跳ね返せるだろう……という考えじゃないでしょうか。
どこまで勝算を見ていたかは、分かりませんけどね。
そしていざ戦ってみると、隣国の思惑は完璧に外れました。領主はご丁寧に兵を分けてなぞくれなかったんです。
2万の兵が、一丸となって一つ目の城に襲い掛かります。容赦のない攻撃で、備えも十分でなかった城は、瞬く間に落ちます。そしたらそのまま、休むことなく次の城へ移動。再び攻撃です。
多少の抵抗など物ともしない力攻め。想定していたであろう相手の7倍が押し寄せるのですから、守兵としてはたまったものじゃありません。竜巻を前にした木の葉のように、吹き飛ばされていきます。
侵攻から一昼夜が経つ頃には、残る城が本城のみという有様でした。奪った城は時間差で出発するよう指示した、後詰め部隊を入れます。本体の人数はさほど減ってはいません。強行軍による疲れはありましたが。
攻め寄せた領主は、本城へ向けて開城を促す勧告を行います。力の差は歴然としており、これ以上の血を流すことはないと考えたのです。
しかし、答えは「否」でした。きっと追い詰められて冷静さを失っていると、日を改めて二度送っても、やはり同じ回答。城を見通せる山上に陣を張って、3日が経とうとしていました。
これは時間を稼いで、こちらの士気を倦ませる意味もある、策かもしれない。そう考えた領主は、明朝に攻撃をかけることを全軍に触れました。
その日の夕方のこと。かの本城の様子を探っていた、細作のひとりが戻ってきました。何やら城の中で慌ただしい動きがみられるとのこと。
領主が城を見渡せる崖の上へ登り、目を凝らしてみると城の内から炊煙が立ち上っているのが確認できました。この3日間で見てきたものに比べれば、明らかに多い量です。それでも薄い煙のため、細作によって注意を促されていなければ、発見は難しかったでしょう。
――ことによると、この晩にでもここへ夜襲をかけて来るな。
苦しまぎれの策でしょうが、こちらを追い返すに足る打撃を与える可能性もあります。領主は今のうちに休める者を休ませ、今晩は特に警戒を厳にするよう、諸将に申し伝えました。
やがて陽が暮れ始め、辺りも暗さが増してきましたが、炊煙はまだ止みません。むしろ他の光を失ったためにはっきりと見えるほど、煙は色づいていたのです。もはや白と呼ぶのもおこがましい、明るい緑へと変じていたのだとか。
夜もすっかり更けた頃、領主がにらんでいた通り、山の中腹あたりがにわかに騒がしくなりました。彼らは領主にとっての、第一の警戒線に引っかかったわけです。
「それ来たぞ」と、領主は本陣の備えを残し、手近な兵たちを動かして事態の収拾を図りました。
ところが、せいぜい半刻(約1時間)で済むだろうと考えていた喧騒が、一刻を過ぎても止む様子がありません。領主は、件の戻ってきた細作に、敵との交戦を避けて状況を把握したのち、帰還するように命を出しました。
細作はさほど時間を置かずに戻り、報告を始めましたが、その顔は青ざめています。
攻め寄せたのは、装備から見ても敵城にいた兵たちに違いありません。彼らは刀や槍を持って立ち向かってくるのですが、その懐へ入られ、致命の一撃をもらう段になると、顔を相手に近寄せていきます。
その時、口から漏れ出る息は、あの炊煙と同じ。緑がかって視認できるものでした。その煙を浴びたものは、しきりに目をこすってしまい、そこから無理やり組み打ちへと持っていかれてしまいます。
それだけではありません。息を浴びせられながらも相手を倒すことに成功した者は、次の相手へと打ちかかっていくのですが、そこに敵と味方の別がありません。
ただでさえ視界の利かない中、文字通りの闇雲。戸惑う味方にも容赦なく歯を剥き、殺意を隠そうとしません。中には罵りや、人の名前を叫ぶ者も混じっていたとか。
にわかには信じがたい状況ですが、領主は残っている兵たちには彼らから距離を取り、矢を射かけるよう指示を出しました。味方も、向かってくる者であるならば、容赦はいらないと。
その晩のうちに、数えきれない矢が、兵たちの躯と共に、山の中腹から裾野へかけてを埋めたと言います。どれほどの被害となったか、検使を駆って出た者がいますが、そのうちの一名が、うつ伏せになった躯をひっくり返した際、その兵の口内に残っていた息が漏れ、顔に当たってしまいました。
彼はすぐさま刀を抜き、そばについていた兵に斬りかかったそうです。これまでの事態のため、兵自身警戒はしていましたが、その検使役の膂力はすさまじいものでした。打ち合った兵の刀は、ただの一合で火花を散らしつつ、叩き折られてしまいます。
かろうじて飛びのき、二太刀目を外しましたが、周囲の根に足を取られ転倒。そこへ三の太刀を打ち込もうと振りかぶったところで、追いついてきた他の兵に取り押さえられました。
「離せ! こやつはわしの弟の仇だ! 成敗してやる!」
検使役はそう叫んではばかりませんでしたが、斬りかかった兵にとっては何のことか分かりません。しかし、目の前へと引き出された領主は目を丸くします。
彼の弟は、数年前の戦で討ち死にをしていました。それは領主自身も命からがらで逃げ帰ったほどの惨敗で、多くの将が命を散らしました。
残された彼らの家族への見舞いを行い、この検使役の前でも頭を下げた記憶が領主にはありました。以来、彼を重用し続けていたのですが……。
「仇ィ! 仇が一、二、三……斬り放題じゃ! 斬らせろ! 斬らせろォ!」
おめき叫ぶ彼の目の焦点は、領主に合っていません。周囲を取り巻く者たちすべてが、彼にとって仇の貌に映るようでした。
他の生き残った者にも、同じような症状が見られ、領主は撤退を皆に伝えます。彼らは結局、正気を取り戻すことなく、いずれも牢につながれて生涯を終えたそうです。
またあの炊煙の立つ城も、この日を境に人の気配がなくなりました。様子を見てきた農民によると、城内の兵たちは互いに刺し違え、果てたものがほとんどだったといいます。その中には相手の領主の姿も混ざっていたとか。
あの緑色の炊煙が何によってあがったのか。それを調べる手立ては、何も残されていなかったとのことですよ。




