かいほう戦線
記録、的な?
これは社会による無自覚な抑圧からの解放である。
自分の中に創り上げられた社会という幻想から抜け出し、思考の自由を取り戻す戦いである。
僕にとっての問題なのだ。もう他人事にはしていられない。戦わねばならない時が来た。逃げても逃げても、どこまで行っても、逃げ切れないことを悟ったのだ。
背中を追いかける制限や規制。普通とはこうであるべきという目に見えない圧力、―――。
僕は、それらが追いかけてきている、と思いたかったらしい。
まだ逃げ切れている、と思いたかったらしい。
だが気づいた。
もう囚われてしまっていることに。
僕は既に、見えない檻の中にいたのだ。
それに気づいてしまってから、脱獄したいというような考えに囚われるようになった。僕の中で創られた社会に囚われるのではなく、今、この瞬間の自分に囚われたいと思うのである。
何度も何度も考え、悩み挫折した。常に葛藤し、精神は疲弊した。
だが、止める訳にはいかない。これは、僕個人の問題であり、僕個人の望みであるのだから。
脱獄を補助してくれる道具はどこか。何が手助けとなり得るのか。
言葉である。
言葉が形のない僕の中に在る社会に枠組みを与え、体系化を可能にする。
理解しやすく整理しやすいように、構造化を可能にするのだ。
自分の内面を考えるときの過程は、深海に潜るのと似ているのかもしれない。
浅いところから深いところに潜っていく。
深くなるにつれて周りは暗くなり、寒くなる。
孤独の中でただ、ただ、潜っていくのだ。
不安と寂しさに苛まれるであろう。感覚は鈍り上下左右すら判らなくなるかもしれない。自分と海との境界がぼやけ、曖昧になり、自分という存在が確信できなくなるかもしれない。
僕は言葉が深海の闇を照らす光となり、凍えを和らげる火となり、自分の存在を照らす、自己の境界を創り出す陽になるのだと信じたい。
さて、このように僕の表層の意識を言語化するにつれて、これまで以上に自分を知ることになるだろう。
それは、霧散していた檻に形を与えるということだ。よってその檻は壊せるようになるのではないか。闇雲に壊そうと道具を振り回し、空を切るだけの徒労から抜け出せるのではないか。
ここまでが僕が考えた方針だ。先の方針は、折が来てから考えよう。
きっとこの時点では分からなかった、知りようがなかったことを気づき、新たな指針を示してくれるだろうから。
中二病じゃないよほんとだよ。。