聖地に集う女神たち
「はぁ~」
ため息が漏れる。練習に行きたくないのが本音。別に野球をやりたくないって言うわけじゃない。ただ、現実を見たくないだけ。あの負けで野球なんて楽しくないってみんながいなくなってしまっているのを見るのが怖かった。
野球は女の子がやるスポーツじゃない。
それを改めて知るだけ。知るために私はこの1ヶ月がんばってきたのかって思うと涙が出る。ミキちゃんの言うとおりだ。無駄だったんだ。何もかも。
下駄箱からローファーを取り出して履く。右に曲がれば、グラウンドのほうを通らなければいけない。左に曲がれば遠回りにはなるけどグラウンドを見ずにバス停まで行ける。
先生はいっしょに見に行こうって言ってくれたけど、先生がいたとしても怖い。せっかく私のために集まってくれたみんながいなくなっている現状を見るのが…。
「よう」
その声が日差しでも差したかのように私の暗い視界を光で照らす。
「先生」
「やっぱりこっちから出ようとしてたか」
先生は左のグラウンドを見ずにバス停まで行ける校門で待ち構えていた。
見慣れていたけど、久々に見るジャージ姿。手に持っている黒い袋には私といっしょに買いに行った真新しいグローブが入っている。
「なんで私がこっちから出てくるってわかったんですか?」
先生は笑顔で何も答えず手を伸ばして私の手を掴む。
「ちょっと先生!」
「怖いか?有紗?また、野球が出来ないって現実を見るのが」
先生の手は大きくて暖かい。でも、落ち着いているのがよくわかる。
どこに見たくない、幽霊よりも怖い現実を見ることに動じない精神があるの?
私は先生みたいに強くない。
だから、一度繋いでくれた手を振りほどいた。
「どうした?」
「もういいんです。どうせわかっていたことですから。私は野球の神様に嫌われている。私には野球をやる資格はないって。今まで抗い続けてきたけど、もう限界です。私を楽にさせてください」
「それ、本心じゃないだろ?」
「……え?」
「有紗の本心じゃ。野球を辞める気なんてまったくないはずだ。グローブを壊されて、捨てられて、大人からの冷たい眼差し、酷い扱い、辛い思いをして少年団から追い出されて。すべては俺も大嫌いな野球の神様が仕組んだことだ。でも、野球の神様が有紗にそれだけの嫌がらせをしてもお前は野球を諦めなかった。それは有紗が野球を好きだって言う気持ちが変わらなかったからだろ?」
私は何も答えなかった。私の頭の回転は止まってて先生の言葉の意味を理解することが出来ない。でも、否定しなかったのは心は嘘をつけないから。
先生が再び私の手を引く。
「行くぞ」
「どこに?ですか?」
「俺は野球の神様にはなれないけど―――見せたいものがあるんだ」
そういって強引に私の手を引く。そして、走り出す。暗くなっている私の心に同期するように中庭が日に影って暗い。でも、先生が走って向かう方は日が差していて明るくて暖かい。何度かつまずきそうになるけど、先生が手を引いてフォローしてくれる。男の人と手をつないで校内を走っている。その姿を見てきゃっきゃと噂を立てようとする子達が見えて恥ずかしくて爆発しそうになるけど、先生は握る手を絶対に離してくれない。
そして、強い明かりをくぐる。強い日差しに目がしかめて目の前が真っ白になる。
その瞬間、私は異世界にでも連れて行かれたんじゃないかって、現実ではない夢の世界に連れて行かれたんじゃないかって思った。
「有紗」
私は名前を呼ばれても答えなかった。
「これは夢じゃなくて現実だ」
広いグラウンドには―――。
カキーン。
聞き慣れた甲高い金属が響いていた。
「とりゃぁぁぁぁぁ!!!」
「取れる!!!」
「ちょっと右樹!今のはファーストが処理する打球よ!」
「え?だって取れそうだったし」
「ちょっと私の守備練習ですから邪魔しないでくれます?」
「わぁ~、さすが神野ツインズ」
「変態ね。それよりもさっさとトスやるの忘れるんじゃないわよ!」
「はいは~い」
「え~い」
「ダークローリングサンダー!!」
「なっちゃん。その技、全然キャッチと関係なくないですかぁ?」
「ビアンカにはわからんのだ。我輩の力が」
ミキちゃんがノックをするためにバットを握っていて、その守備練習に神野ツインズと恵美ちゃんがいて、トスバッティングを雪音さんと凜子ちゃんがしていて、いつも通りマイペースにキャッチボールをするのはなっちゃんと桃香ちゃん。
私は涙が溢れ出した。
「先生。これは夢ですか?」
「違う。現実だ」
ぎゅっと握る手に力が入る。先生の肌の熱も脈も感覚はすべて本物だ。
「野球の神様は確かに意地悪だ。俺も大嫌いだ。でも、この聖域にはお前の嫌いな大嫌いな神様はいない。ここにいるのは野球が好きなダイヤモンドの女神たちだけだ」
先生は私の背中を押す。
「わぁ!」
急に押されたの変な声が出る。
するとみんなが私の存在に気付いた。
「え、えっと」
「綾元さん!」
最初に声を上げたのは恵美ちゃんだった。
「15分も遅刻ですよ!しかも、10日も無断欠席もしています!」
え?そこなの?恵美ちゃん?
「これは大変ね、有紗」
笑みを浮かべるミキちゃんは何か企んでいる。
「有紗だ!」
「戻ってきた!」
神野ツインズはうれしそうだ。
「来たね!有紗ちゃん!」
誰よりもうれしそうなのは凜子ちゃんだ。
「ふん、やっと戻ってきたわね」
うれしいのを不器用に隠すのは雪音さん。
「待ってましたよぉ」
…桃香ちゃん。
「よくぞ舞い戻った。ダークレディよ」
なっちゃん。その名前で呼ばないで。
全員が私のところに集まってくる。
「なんでみんな?どうして?」
その問いに最初に答えたのはミキちゃんだった。
「もう、戻ってこなかったら泣き喚こうが引きずってでも部に戻すつもりだったのよ。こっちはどれだけ苦労してお父さんにどれだけ続けさせてもらえるように頼んだか知らないでしょ」
「観月さん。それはいじめとも言いますよ」
「な、なんで?だって、部活は無駄だって」
「無駄は無駄でしょうね。でも、久々に楽しかったから続ける。それだけよ」
そんな理由で?
「ゆ、雪音さんはなんで?」
「私?あのまま負けたまま終わるなんて嫌よ。次こそはあのデカ女の鼻をへし折ってやるのよ」
「雪音ちゃん。顔が怖いよ」
「で、でも」
「私たちに足りなかったのは経験よ。でも、もう少し練習して試合をすればあのデカ女を倒すことくらい余裕よ」
雪音さんは燃えている。
「神野ツインズはなんでここにいるの?」
「楽しいから」
「面白いから」
「あらあら、単純ですねぇ」
「しかし、久々に我輩も任務を忘れて楽しめたぞ」
それ以上の理由はないようだった。
先生も輪の中に入ってきた。
「これがみんながここにいる理由だ。みんな野球を嫌いになった?違うな。その逆だ。野球は女の子がやるようなスポーツじゃない?本当にそう思うか?これを見て」
たくさんの涙が流れる。拭いても拭いても拭き取れない涙。
今までとは違う。うれしい涙だ。
みんなが優しく見守ってくれた。
また、みんなと野球が出来る。それがすごく、すごく、すごく、うれしかった。
「さて!有紗!」
先生は仁王立ちで私の前へ。
「俺は練習を休むって連絡をして休んでたけど、有紗は無断欠席してらしいじゃないか」
「え?は、はい」
「なので、罰としてグラウンド20周!」
「まぁ、当然よね」
「でも先生。それきつくない?」
「なによ、凜子。当たり前じゃない」
「冬木さん。何うれしそうにしているのですか?」
「私も付き合う!」
「私も!」
「がんばってください」
「応援してる」
それぞれが言いたいことを言うのが星美高校野球部。それがチーム。
「すぐに着替えてきます!それから―――走ります!」
私はすぐに回れ右をして走る。
やれる。楽しい野球がやれる。うきうきが止まらない。




