7回裏 打球の行方
この緊張感は久しぶりだ。
それはまだ少年団にいた頃。まだ、野球が楽しかった頃。長らく浴びてこなかった緊張感に少し体が硬くなった。けど、先生に強く背中を押された。ここまで誰かの力を借りないと何も出来ない私はまだ先生の力を借りるしかなかった。でも、先生は力を貸したことで私を責めなかった。逆に激励した。
楽しんで来いって言っている。直接聞いたわけじゃない。そう聞こえた。
「いけぇぇぇぇぇ!!!」
「有紗ぁぁぁぁぁ!!!」
神野ツインズが渾身の声で私を応援する。
「決めてきなさい!有紗!決めれなくてもあたしで決めるから!」
と親指を立てて私を送る、ミキちゃん。
「ファイトです!綾元さん!」
私よりも緊張してるのは恵美ちゃん。
「フッフッフ。ここで決めなければ、ダークレディの名が汚れるぞ」
なっちゃん……それは別にいいかな。
「有紗!」
それはファーストにいる凜子ちゃんからだ。
「余計なこと何も考えないで思いっっっっっっっきり!!!野球を楽しんで!」
「そうですよぉ」
「ふん」
みんなが私のために集まってくれて、私のために野球をしてくれて、こんな最高の舞台を用意してくれた。私が打たれて取られた7失点。私が打てなくてついてしまった5点差。不甲斐なくて頼りない私でもみんな私に期待して着いて来てくれた。
「ここで打てなくて、いつ打つの」
深呼吸をして打席に入る。
主審プレイボールのコールと同時に相手を挑発するようにバットを四之宮さんに立ててから構える。
「ねぇ、六道さん」
私は自分から六道さんに声をかけた。六道さんはこういう場面で私たちに話しかけて動揺を誘ってきた。それは十分承知の上で私は自分から六道さんに話しかけた。
「ワッツ?」
微笑なら六道さんのほうを向く。
「野球って楽しいね」
六道さんがぞっとしたのをよく覚えている。
満塁。ツーアウト。塁が埋まってるから盗塁はない。ツーアウトだからスクイズもない。私と四之宮さんを邪魔するものは何もない。私と四之宮さんの真っ向勝負。この勝負を四之宮さんも望んでいた。品のあるお嬢様の四之宮さんが白い歯をまるで獣みたいに見せて笑った。その鋭い眼光で私との勝負を存分に楽しんでいるように見えた。
四之宮さん。私も今、すごく楽しいよ。でも、楽しいだけじゃない。―――勝ちたい。
セットポジションをやめてワインドアップ。それはランナーがいないときにしか出来ない投球モーション。モーションを大きくすることでボールに力を加えやすくなる。ただ、デメリットもある。体を大きく使うからフォームのバランスが崩れやすくてコントロールが付きにくくなる。ただ、四之宮さんにはその粗いコントロールという弱点を帳消しに出来る強力な剛速球がある。
その剛速球が来る。―――とは思わなかった。
振りかぶって投げたボールは真っ向勝負でぶつかる私の裏をかく緩いカーブ。でも、カーブが来る予感がした。まるで野球の神様が私に囁いてくれたように。
態勢が崩れないように足を上げてタイミングを合わせて振りぬいた。
カキーン。
甲高い気持ちい音が響く。
大きな瞳をいっぱいに開いて四之宮さんは飛んだ打球を追う。打った私はボールが右に流れて行くのが見えたので引き返した。
「ファール」
守備陣がほっとしているけど、四之宮さんだけは違う。
「いいですわ。やっといい勝負ができますわ」
野獣のように闘争心剥き出しで私を睨む。
「そうだね」
打席に戻るとあの感覚に襲われる。それは五十嵐さんから三振を奪ったときの感覚だ。体が軽い。いつも振っているバットがまるで体の一部みたいに重さを感じない。四之宮さんだけが鮮明に見えた。周りの雑音がまったく入ってこない。まるで深い水の中にもぐっているようなそんな感覚。振りかぶる四之宮さんの投球モーションがスローモーションのように見えた。投じた渾身のストレートがまるで止まっているように見えた。
―――高めに外れる。
「ボール!」
違和感に六道さんがいち早く気付いた。
「ヘイ!よく見たね!」
「…うん」
たぶん、私の気を逸らす目的だったんだろうけど、全然気にならなかった。
振りかぶる四之宮さんのストレートはたぶん速い。でも、速く感じない。
今度は低めに外れる。ボールかストライクか一瞬だと判断が難しいコースだった。
「ボール!」
それを見逃されたことにさすがの四之宮さんも汗をぬぐう。
周りのみんなが一生懸命声を張って応援している姿は見えるんだけど、耳に入ってこない。この集中力は先生が言ってた極限の集中力。なんでこんなに集中できるのかわからない。
でも、大変だよ。先生。勝てるよ。
振りかぶる四之宮さん。両手を上に大きく上げて長身の体を大きく使う。右足がプレートよりも半歩後ろに下がって反動をつけて得られる遠心力が長い腕がしなることでさらに上乗せされるパワー。恵まれた体格を余すことなく使って投げるボールはまさに剛速球。しゅるしゅるとすさまじい回転で空気を切る音が聞こえる。みんなからそのストレートがどう見えているんだろう?きっと、無理だな。打つことなんてできないよって諦めてしまうかもしれない。
―――私は違う。打てる気しかしない。
構えているとき、左バッターの私の場合は重心が左足にある。タイミングを取るために小さく右足を上げて左足のほうへ寄せてタメを作る。そして、引き寄せた右足を前へ踏み出す。重心はまだ左足に残す。腰を回転させてバットを振る。左足に残していた力を体の中心に移動させてスイングの軸を構築する。肘を開きすぎず、窮屈にならないちょうどいいスイング。
ゆっくり迫ってくるボールへ私もゆっくりとしたスイングでボールをバットの真芯に当てた瞬間、今までゆっくりとして静寂だった世界が元に戻る。
カキーン。
大飛球がライト方向へ。
ベンチのメンバーが一斉に飛び出してくる。
ランナーは進塁しながらもその打球の行方を追う。
打たれた四之宮さんは嘘でしょって顔でライトへ目を向ける。
慌てる守備陣。
バットを投げてファーストへ走る。大飛球を正面に見ながら。
「行け。行け。行け。行け」
行ける。
ライトの九条さんが必死に打球を追った。そして、学校のフェンス際までやってきた。
―――やった。
油断。なぜかその言葉が浮かんだ。四之宮さんが桃香ちゃんに長打を打たれたのは打たれないだろうっていう油断からだった。そんな油断を私だったら絶対にしないと思っていた。でも、私は油断していた。この集中力だったら、五十嵐さんを抑えたみたいに未来が見える気がした。三振を奪う未来。そして、今は四之宮さんからホームランを打つ未来。
でも、それは未来じゃなくて願望だった。その願望を未来だと思って油断した。極限の集中力の中でもその油断が―――。
ライトの九条さんがグローブを構えた。
私の負けを呼んでしまった。
大飛球はフェンス間際で九条さんのミットに収まった。
「アウト!ゲームセット!」
そのコールは私には聞こえなかった。
極限の集中力の中にいるわけじゃないのに私の世界から音が消えて真っ白になった。
4対7で星美高校の敗北が決まった。それに気付くのに少し時間がかかった。




