壊れた時計は動き出す
4年後。桜が散って葉桜となり、新学期や新しい環境にそれぞれの人が慣れ始めたその時期の小さな町の一角にたたずむ小さなコンビニ。そのレジに俺は立っている。
コンビニ入り口すぐにおいてある新聞紙に載っているプロ野球の華やかな結果と喜びを爆発させる選手の顔。どうやらプロ入りして初めてサヨナラホームランを放ったようだ。俺はその選手を知っている。 普通の人の知っているとは一味違う。
レジに乱暴に商品を持ってきたアロハシャツを着た不機嫌そうなおっさん。一瞬、目が合う。
「早く会計しろよ」
俺は無言で商品のバーコードを読み込ませていく。誰も俺のことを知らない。
あの新聞に載っている選手は甲子園で通算20本以上ホームランを放ち、母校を全国制覇に導いた文字通り怪物だ。そいつから俺は三振を奪ったんだぞ。打ち取ったんだぞ。ノーヒットに押さえたんだぞ。でも、それを覚えてるやつはいない。こうして俺の顔を見ても誰も気付かない。俺は過去の人になっている。
あの夏の日、突然倒れた俺はそのまま病院へ連れていかれた。診断の結果、軽い熱中症と右肩の肩腱板損傷と診断された。前者の熱中症は知っている。だが、後者のやつは聞いたことがなかった。医者は答えずらそうに告げた。
「肩腱板損傷は簡単に言えば、肩の筋が損傷する怪我です。肩腱板は肩を上げたり、捻ったりする際に動きをスムーズにする筋肉です」
医者は息を飲んだ。
「俊哉さん。あなたの怪我ははっきり言って重症です。手術をしないと元には戻らない。手術をして元に戻ったとしても前と同じように野球できる保証は………。で、ですが、この怪我を乗り越えて返り咲いたプロ野球選手をいます。だから、安心してリハビリを―――」
医者のいうことは半分以上頭に入って来なかった。肩腱板損傷。それは多くのプロ野球選手を引退へ追い込んだ魔の怪我だというのを後で知った。年を追うどこに磨り減って損傷するパターンと過度な運動で損傷するパターンがある。俺は明らかに後者のパターンだ。
なんで今なんだよ。なんでこんな早く………。
俺は高校二年生。俺の高校生の夏は冷房の利いた部屋で幕を閉じた。
だが、諦めきれない俺は怪我を1年かけて治し大学で再び野球を始めた。甲子園での活躍を見ていた大学のスカウトの力を借りてある野球の強豪大学へ進学した。
大学に上がっても俺はピッチャーとして活躍した。投げ方は相変わらずのサイドスローだ。球速はかなり落ちた。それでも、変化球とコントロールで強敵をねじ伏せて、復活悲劇の甲子園エースとして再び注目された。しかし、そこで俺は再び野球の神様に見捨てられる。
ある打者に投じた一球で 肘に痛みを覚えた。離断性骨軟骨炎、野球肘と診断された。治すためには手術が必要だと言われた。肩に肘に俺の右腕は18歳にしてボロボロだった。
肩の怪我を気にして肘に負担が掛かりすぎたことによる怪我だと医者に言われた。さらに肩腱板損傷に再びなりかけているとも診断された。一度、切れた筋は簡単には戻らない。これ以上野球を続けると再び怪我をする。野球を続けることは不可能だ。諦めた方がいい。それが、医者が下した判断だった。
抵抗しようにも俺の右腕はいうことは利かなかった。ボール投げるどころか握ることもできない。
人生を野球にだけ注ぎ込んで生きてきた。それがすべて崩れ去った。そして、野球で入学した大学にも学力的に在学し続けることはできず、俺は大学を辞めると同時に野球を辞めた。バットもグローブを、集め続けていた野球の雑誌に記事、俺が取った野球のトロフィー、賞状をすべて庭で焼きはなった。
溢れ出る涙はしばらく止まらなかった。
あれから2年がたつ。
コンビニでバイトをしながら安定的に収入がえられる仕事を探している。学力のない俺には難しいことだが、時間を掛ければできる。野球だってそうだった。時間をかけて努力して変化球を投げられるようになった。だから、焦らずゆっくりと―――不意に涙が出そうになるのを堪えてお釣りを不機嫌な客に渡す。
そうだ。もう、野球をするのは無理なんだ。だから、普通に生きるしかないんだ。ずっと、頭に言い聞かせている。野球にもなるべく関わらないようにしている。断ち切れない未練を必死に切ろうとして。
そんなハサミで切ろうとしている野球の未練を止めようとする手に俺は出会った。それは奇しくも野球から離れるために働いていたコンビニのバイト中の出来事だった。
「あの、すみません」
「はい。いらっしゃいませ」
レジに並んでいたのは近くの星美高校のブレザーを着た健康的に少し焼けた肌に男の子みたいに短い黒髪に清んだ湖のような綺麗な瞳をした少女だった。新学期になってからこのコンビニに訪れるようになったから新入生だろう。手にはいつもの89円のリンゴジュースが握られていた。驚いた表情で清んだ瞳で俺を見つめる少女はリンゴジュースをレジに出す。
「89円です」
「あの!」
少女はお金を出さずに俺に声を掛ける。
清んだ瞳は眩しくて見ていられない。
もしかして俺に一目惚れでもしたのかと一瞬期待してしまった自分を押し殺してテンション低めのコンビニ店員を装う。
それから少女の放った言葉に俺は驚愕するのだ。
「もしかして、人違いだったらごめんなさい。…松葉俊哉さんですか?大垣一大高校を甲子園ベスト8に導いた…」
俺の中で腐ってぼろぼろになっていた時計がギリギリと動き出す音がした。
彼女との出会いで止まっていた時間が動き出す。