有紗の過去
私が野球を始めたのは小学3年生の時だった。当時の私は女の子同士で女の子っぽいことをするよりも男の子に混ざってスポーツをして遊ぶことが多かった。そこで私は野球を知った。野球はお父さんがテレビでよく見ていたら知っていた。男の子たちと遊びでやる野球が楽しくてお父さんにグローブを誕生日プレゼントで買ってもらうほどだった。元々、お父さん自身が野球好きだったせいか、近所の少年野球団のチームに入れてもらった。
男の子に混ざること事態に抵抗のなかった私は黙々と練習を重ねて着々とうまくなっていった。
そんなある日。私はある人の出会いで大きく変わった。
所属していた少年団で野球教室に行くことになった。私はそこで憧れの選手に出会った。その人は海を渡ったアメリカで歴史を気付いた天才バッターだった。相手投手を挑発するようにバットを向けてから構える。その堂々たる姿に私は憧れた。
だから、その人を真似して右利きなのに左打席にバッティングをしたり、打撃フォームを真似したりした。私はその人に教えてもらった。
努力は人を裏切らない。
その人は努力の人だった。世間では天才バッターと言われているけど、人の何倍も何千倍も努力を重ねて身につけた天才と呼ばれるバッティングセンスを。だから、私もたくさん努力をした。あの人みたいになりたくて努力をした。すると努力は報われていき男にも負けない打力と、自覚症状のない天才的な投球で小学5年生でありながらその少年団のエースで4番に私はなっていた。小学1年生から少年団に所属している子もいたけど、そういう子たちを差し置いてたった2年で私は誰にも負けない存在になっていた。エースという肩書きよりも4番という打順よりも野球をしていることが楽しくて幸せだった。
だが、地獄だったのはそれからだった。エースで4番として試合に出た次の日だ。
「綾元」
赤いランドセルを背負っている私は学校で名前を呼ばれて振り返るとそこには同じ少年団の男の子たちがいた。
「どうしたの?それよりも川原に行かない!野球やろうよ!」
いつも通りに誘ったつもりだった。だけど、その日は違った。
「なんでお前が4番なんだよ」
「なんでお前がエースなんだよ」
「おかしいだろ。女子のくせに」
「え?」
それは嫉妬だったのだ。誰もが憧れるエースで4番を女子の私が成し遂げたことへの。
「別に女の子が野球をやっちゃいけないってルールはないよ」
「でも、テレビを見てても女子が野球やってるか?」
「やるならチアガールじゃね」
「ウグイス嬢とかのほうが向いてるよ。女なら」
「そんなこといわないでよ!」
「だったらさ、俺にエースを譲ってよ」
「俺には4番頂戴よ」
意味がわからなかった。欲しかったら実力で努力をして勝ち取るものだ。私は憧れの人にそう教わった。だから、目の前の男の子たちの言っていることが理解できなかった。
「だったら、練習すればいい。誰にも負けないくらいに!」
ちょっと怒ってしまった。
「どうせ女子だから監督がエコヒーキしてるだけなんだ」
「そうだ。女子だからかわいがってもらえるんだ」
「どうせ、色気で監督を誘惑したんだろ」
「そういうのなんていうか知ってる?」
「ビッチって言うんだ」
それから私のあだ名はビッチになった。
世間一般からはまじめで元気な明るい女の子。でも、そのあだ名が広まった途端に周りの反応が少しおかしくなった。ビッチってどういうことなんだって。私はそんな周りの声に巻けずに野球を続けた。
それをみた男の子たちは再び私に嫌がらせを行う。
「あれ?」
ある日は上靴がなくなっていた。
「なんで?」
あるときはノートに下品な言葉ばかりが並んでいた。
「どうして?」
あるときは筆箱の鉛筆が全部折られていた。
「やめてよ」
あるときはほうきでこけさせられた。
「もうやめて」
あるときは黒板消しを投げられた。
そして、最も許されないことが起きた。
「私のグローブは?」
練習に来てトイレに行っている間に毎日大切に磨いていた大切な大切なグローブがバックの中から姿を消していた。思わず泣きそうになってしまうのを最近私に嫌がらせばかりする男の子たちがニヤニヤと面白そうに見ていた。
あいつらだ。
すぐにわかった。
「ねぇ!私のグローブは!」
強気な態度に男の子たちはからかうように。
「知らない」
「知るわけないだろ」
「忘れてきたんじゃねーの」
ギャハハハと下品な笑い声を上げる。
「そうだ。お前のグローブかどうか知らないけど、そこのドブに何か落ちてたぜ」
「え?」
私は男の子が指差したほうへ駆ける。田んぼ道の水路の中に私が大切に手入れを続けてきた大切なグローブが泥だらけでの傷だらけになって浮いていた。憧れの人は道具には魂が宿っている。道具を大切にするものにはちゃんと結果が付いてくる。努力することと同じくらいに大切なことなんだって教えてくれた。だから、私もあのグローブを大切にしていた。そんな大切なものを……大切なものを。私は拾い上げる。
「あ?なんだ?そのゴミは?」
「汚いな!何拾ってるの!キモ!」
「グローブを粗末にするなよ!バーカ!」
完全に私は我を失った。
「あああああああああああああ」
私は男の子に向かって飛び掛った。引っかいたり噛み付いたりした。3対1。男子と女子。勝てるはずもなく私はあっけなく返り討ちにあった。殴りけられ服を破かれ髪を引っ張られぼろぼろになっても私は止まらなかった。
ようやく大人がやってきて止めに入る。
「やめろ!綾元!」
「だって!あいつらが!あいつらが!」
大人の手を振りほどこうと抵抗する。傷は圧倒的に私のほうが多いのに私が悪いみたいに男の子は言いつける。それが私を長い間苦しめる。
「野球はな……女がやるスポーツじゃないんだよ!」
「…………え?」
「だってそうだろ!テレビでやってる野球に女なんてひとりもいないだろ!考えればわかるだろ!女は野球なんかやったらダメなんだぞ!」
それは違うぞっと大人がしかるが男の子は止まらない。
「いいから野球やめろよ!女がいると野球がつまらないんだよ!」
私がいると野球がつまらない?
「お前がいるとピッチャーはやらせてもらえないし、監督も俺らに野球を教えてくれない。みんなお前ばっかりだ。お前がいるせいで俺は野球が嫌いになりそうなんだよ!だから、女はさっさと野球なんてやめちまえ!」
男の子たちはその後大人にこっぴどく怒られた。それは私も例外じゃない。いくら嫌がらせをさせられても大切にしていたグローブを汚されても暴力を先に振るったほうが悪いのだ。どれだけ相手が悪くても暴力はいけない。
大人は理不尽だ。私を助けたつもりで叱っている。男の子たちもたぶん同じ気持ちなんだろう。
その理不尽でどうしようもない怒りをどこにぶつければいいのか。私はバッティングセンターに出向いてひたすら打ちまくる。的当てゲームでひたすら投げ続ける。野球に夢中になることで私は怒りを静めた。それは私の方法。この方法が万人に通用するとは限らない。男の子たちの場合は私をいじめるという形で怒りを発散した。机には覚えのない落書きが増えて、物はよく無くなった。暴力を振るわれた。いつしか男の子たちだけじゃなくなった。面白がって関係の無い子たちまで私をいじめた。
そのたびに私は野球をした。辛いことを全部忘れたくて無心に野球をした。そのせいで私は少年団でずば抜けて野球がうまくなってしまった。練習はするだけ実るといわれるだけある。面白いくらいに私の投じた投球で空振りが取れる。面白いくらいバットがボールに当たって飛んでいく。いい成績を残すたびに私のいじめがひどくなる。ついに大人までもが私をいじめ始めた。男の子たちの親だ。どうして自分の子が試合に出ていないのか。なんで女の子がチームの中心で活躍をしているのか。
「野球は女の子がやるスポーツじゃなのにね」
「本当よね。あの子のせいでうちの子がピッチャーできないのよ」
「なんで少年団に入ったのかね?少年団よ?女の子は女の子らしいスポーツをやればいいのよ」
「なんで野球なのかね?」
「男の子がやるスポーツよね」
影で私は大人のその会話を聞いてしまった。自分の子供が私のせいで好きに野球ができていない言い訳をすべて私に擦り付けているだけに過ぎない。でも、私はいじめられるようになってからいやになるほど聞かされた。
野球は女の子がやるスポーツじゃないって。
大人たちの言葉を頭から必死に追い出しながらベンチに戻ると私のグローブが水の入ったバケツの中に捨てられていた。近くで男の子たちが笑いを堪えていた。吹き出そうな涙を堪えて水を一杯しみこんだグローブで私は試合に望んだ。4番ピッチャーとして。試合のまさに花形のポジションと打順。なのに私を見る周りの目は軽蔑の目。なんであいつが、なんであの子が。
ぐしょぐしょになったグローブのせいでボールはぬれて握りづらい。でも、負けたくないから全力で投げる。空振りが取れる。誰もほめてくれない。誰も讃えてくれない。誰も私が抑えることに喜びもしない。ヒットを打たれれば大人しかったメンバーから一斉に罵倒が飛んでくる。何しているんだ!何で打たれているんだ!フォアボールを出せばその馬頭はさらにひどくなる。審判の監督の見えないところでチームメイトは嫌がらせをする。足を踏みつけたり、髪の毛を引き千切ったり。でも、野球をすれば忘れられる。だから、私は全力で野球を。
「君はなんのために野球をやるの?」
それは打席に立ったときにキャッチャーに言われた一言だった。
「仲間外れにされて、いじめられて、ミスをすれば一斉に攻められて、そんな状態で野球をやってて楽しい?」
楽しい?楽しいわけないよ。辛いだけだよ。
好きで始めた野球。憧れの人を目指して始めた野球。それが楽しくない。
打席に立ちながら私はベンチを見る。誰も私を応援していない。べちゃくちゃとしゃべっている。監督も注意しない。ベンチの裏の親からの視線。私を嫌う視線。野球は9人でやるスポーツなのに私は今孤独にひとりで野球をしている。これが野球なの?楽しい野球なの?私がやりたかったことなの?なんでこうなったの?
ふと脳裏によぎる。皆が口を揃えて私に言う言葉。
―――野球は女の子がやるスポーツじゃない。
その打席は三振に終わった。
馬頭が飛び交う中、ベンチに戻ると私は自分の荷物を持って球場を飛び出した。それ以来、私は少年団に顔を出すことは無く退団した。
すると、今まであったいじめが徐々に減っていっていつしかいじめられなくなった。野球をやめた途端に私の苦しい辛いだけだった毎日からあっという間に解放された。その間も私はバッティングセンターに通ったりはしていた。野球を完全にやめたわけじゃなかったけど、少年団を野球から離れたことで私は普通の生活を取り戻せた。
私が退団した後の少年団がどうなったのか気になって見に行くとみんな生き生きと野球をしていた。楽しそうに掛け声を上げながら野球をしていた。あれが本来あるべき野球の姿なんだ。回りの人たちも必死に応援している。監督も真剣な眼差しで次の攻めの手を守りの手を考えている。私がいなくなったことで、女の子がいなくなったことで野球は本来の姿を取り戻したんだ。良かった。本当に良かった。
「……あれ?」
涙が止まらなかった。
野球はもうやめよう。




