十五、星霊樹の異変
足許から這い上がる、黒い影。
“嫌な感じ”が実体を持ったかのような酷く冷たいその影は、まずは身体の周りを覆い隠し、そこから中へ、じわり、じわりと身体を侵食していきます。
身体の周りには、とても温かく、優しい何かがふわふわと集まっているのに、身体の周りを覆ってしまった影が、それを跳ね返してしまっているのが感じられます。
――あの温かいものは、私を助けるものなのだと、解るのに。
それを寄せ付けない影は、身体の中の大切なものに向かって、少しずつ、少しずつ迫ってきて。
――寒い。
――痛い。
――怖い。
――恐い。
そんな気持ちがどんどん膨らんでいって、《助けて》やがてそれは爆発して、温かいものも、冷たいものも、全部、全部消えてしまうのでした。
メリルは、飛び起きました。
心臓が、どくどくどくどく、まるで身体の外に飛び出そうとしているかのようです。
恐い夢を見た、分かるのはそれだけで、どんな内容だったのかは、もう思い出せません。
ただ、何か自分に向けられた声が聞こえたような気がして、自分が何かをしなければならないような、そんな焦燥感も感じます。
だけどどうしたら良いのかは全然分からなくて。
ふと我に返ったメリルは、酷い寝汗で濡れた寝間着の気持ち悪さと一人きりの不安に、ベッドから逃げるように這い出て、妖精達のいる部屋へ早足で向かったのでした。
残暑もすっかり影を潜め、森の一部がいつものように色づき始めた頃、しかし、いつもと違う、大きな異変がありました。
常に緑の葉を茂らせていた星霊樹が、その一部を赤みを帯びた色に変え始めていたのです。
メリルはそこに至ってようやく、なにか大変なことが、既に起こり始めているのだと理解しました。
妖精達は以前から少しずつ元気を失いつつあったのですが、アミィやユイル、ユスティやガーズなど、メリルの身近の、人間と強い絆を結んだ妖精達は以前と変わらず元気だった為に、変化に気付けずにいたのです。
しかし、気付いてしまえば、星霊樹に何かが起こっている以上、メリルはそれを護る家系の人間として、何かが出来るはずだと考えました。
その時不意に、いつかどこかで聞いたことがあるような声が、頭の中に響きました。
《助けて》
メリルは、それが、星霊樹が自分を呼ぶ声なのだと理解したのでした。
アミィは、最近、突然不安に襲われることが増えていました。
それは、風の聖地に向かう前のようなハッキリしたものではありませんでしたが、その時よりも良くないことが起こる予感のように思えてなりませんでした。
そして、その日、まだ太陽が昇る前のこと。
アミィはどうしても落ち着かない気持ちが、どんどん強くなっていくのを感じていました。
まだメリルを起こしに行くには随分早い時間でしたが、居ても立ってもいられないアミィは、メリルの部屋に向かいました。
そしてそこでアミィを待っていたのは、沈痛な面持ちで佇むヨナドの姿と、もぬけの殻になったメリルのベッドだったのです。
メリルは、森の中を歩きます。
向かうべき星霊樹は、上を見上げれば木々の間からその姿を見せ、メリルの道しるべになってくれています。
その大きさのせいで、すぐ近く思えるのにあまり近づけていないような感覚になりますが、ヨナドの力で安全に空間を開けるギリギリの距離に出してもらったはずなので、そう長い時間は掛からないだろうと思い直し、メリルは歩みを早めるのでした。
「済まんが、メリルの覚悟を踏みにじるわけにはいかん。だからアミィ、わっしはおぬしの為には空間を開くことは出来ん」
アミィは、メリルを送り出したヨナドに言いたいことはたくさん有りました。
だけどそれをぐっと堪え、ヨナドが自分の為に力を使う気は無いと聞くや否や、メリルの家を飛び出しました。
星霊樹の周りは聖地のようなものだから、メリルは少し歩く必要があるはず。
そう考えたアミィは、空を飛べる強みを生かし、必ず追いついてみせるという強い気持ちで、森の上を真っ直ぐ星霊樹に向かって飛んでいくのでした。
メリルが歩き続けていると、突然、木々が途切れ、開けた場所に出ました。
正面には、大の大人が数十人がかりでも囲いきれないほどに太い、星霊樹の幹。その周囲百メートルほど離れたところまでで森は途切れ、そこから星霊樹までは何も生えていない土の地面になっています。
山のような高さを持つ星霊樹の袂は、頭上がたくさんの枝葉に覆われているはずなのに、そこはなぜか、とても明るい場所でした。
そして、メリルは星霊樹の幹に向かって、ゆっくりと歩き出します。
――思い出すのは、火の聖地でのこと、アイールの言葉。先祖から続く道をただ流されて進むのでは無く、自分の意思で歩いて行くという、決意。
星霊樹をこのままにしてしまえば、きっとメリルにとって大切なものの殆どは失われてしまう。それはとても悲しいことだから、与えられた役割をただこなすのではなく、自分になら出来ることだからこそ、自分の意思で、星霊樹を助けたい。メリルもまた、そんな決意を固めました。
――思い出すのは、風の聖地でのこと、フランの言葉。友達と一緒だからささやかな冒険でも楽しい、そんな友情、そして、その友達に悲しい思いをさせたくないという、想い。
それはそのままメリルの、フランや他の大切な人達に対する気持ちでもあったから、とても嬉しかったし、そんな関係を絶対に守りたい。だからこそメリルは、星霊樹を助け、それでいて自分のことも絶対に諦めないと誓います。
――思い出すのは、水の聖地でのこと、サラの言葉。大切な人を、どんな後ろ向きな気持ちよりも強い自分の前向きな気持ちで、絶対に助けてみせると言い切った、強さ。
父親の手記や、火の精霊の言葉から、母がなぜ居なくなったのか、今はもうそれが分かるから、これからやろうとしていることが恐くないと言ったら嘘になる。だけど、後ろ向きな気持ちで臨めば結果もきっとそれに引きずられるから。そしてそれ以上に、自分はあんなにかっこいいサラの友達だと胸を張って言える自分でありたいから。メリルは、絶対に挫けないし、絶対に諦めない、それを貫ける自分になる為の勇気を奮い起こします。
そして、メリルは星霊樹の幹に手をそっと宛がい、目を閉じます。
メリルは、星霊樹の周りを覆う冷たいものが、メリルの手の温かさを嫌って避けるような感覚の後、星霊樹の中と自分の身体が一体化してしまったかのように感じました。
そして、メリルの身体から、温かい何か、きっとそれが星霊樹が必要としている力なのだと思えるものが、吸い上げられていくのを感じます。
その勢いはとても早く感じるものでしたが、同時にメリルは自分の身体がとても大きくなったようにも感じていたので、力の移動は少しずつのようにも感じられます。
だけど、時間が経って、メリルが自分の身体が小さくなっていくように感じ始めても尚、星霊樹は力を吸い続けます。
メリルは、焦る気持ちを抑えつけるように、負けるもんか、諦めるもんか、と、強く念じます。
そして、メリルの身体の奥の奥、とても大切なものが星霊樹の吸い込む力に負けて動きだしそうに感じた、その瞬間。
《メリル!》
その強く優しい声は、とても懐かしい声のようで、とても大切な友達の声のようで。
優しく突き放されるような感覚と、星霊樹との繋がりがぷつりと消える感覚を感じながら、メリルは意識を失ったのでした。
「メリル!」
アミィがそう叫びながら星霊樹の袂に飛び込みます。
そして、星霊樹の幹に寄り添うメリルの姿を認めて、何とか間に合った、と思いました。
しかし、次の瞬間に見たものは、星霊樹に弾かれるようにして後ずさり、そのまま膝から崩れ落ちる、メリルの姿でした。
「メリル! メリル!!」
アミィは、慌てて側に行き、目一杯声を掛けました。
しかし、その大切な友人にどんなに声を掛けても、身じろぎ一つしてくれないという事実に、アミィは目の前が暗くなっていくのを感じるのでした。




