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魔王と聖女と世界

作者: 亨珈

 これで、最後。

 ここまで温存してきた力をありったけ叩き込むように、両手を前に伸ばす。

 もはや防御能力をなくした甲冑に身を包んだまま倒れ伏す王子を背後にかばうように、丹田からわき出る熱を、血管を通じて手のひらに集めるイメージで、奔流を放つ。

 初めて、対峙する魔王のフードがはずれた。風になぶられるようにして現れたのは、私と同じ黒髪と焦げ茶の瞳。印象的な、左の泣きぼくろ。

 同じ人種、同じ国の人、と判る顔立ちに、私は息を止めた。


 ――呼吸法を思い出して。


 光のように、言葉が届く。

 魔物たちを食い止めるために、ここより手前で堰を作った魔術師の声だ。

 そうだ、練った力を放ち続けるためには、静かに長く息を吐かなくては。何度も何度も練習してきた身体が、反射のように応える。


 ――お前なら、できる。どんなに間抜けでも、聖女はお前しかいない。


 間近にいるはずの王子の声が、這うように足下から伝わってくる。

 言語が異なるけれど、伝わることば。馬鹿、阿呆、間抜け、このとんちんかん、ぽんこつ女。散々に罵られても、そうするしかないからとここまで辿り着いたんだ。

 どんな予想外のことが起こっても、歩みを止めない。止めたくない。

 可視化された力が、魔王を包み込んでいる。聖女の癒しだけが、魔王を消滅させることができる。そう説明されて、ただの会社員だった私は、崇拝の対象になり、ここまでやってきた。

 一年掛け、道中の魔物たちを浄化し、呪われた土地を浄化し、力の使い方を学びながら。

 魔王の居城は閑散としており、満身創痍で訪れた私たちは半ば拍子抜けしそうになったけれど、それでも残っていた魔王の側近を足止めするのが精一杯の魔術師に願いを託され、ここへと進んできた。


 この世界の、みんなの願い。

 青空を取り戻して。大地に恵みを。治ることのない病をなくして。命の息吹を失った森を畑を川を、蘇らせて。

 それは、私には重すぎる思い。

 何故、願いを叶えなければいけないの? 私は平凡な庶民で、疲れはてて倒れこんだベッドから唐突にこの世界に連れてこられただけの、何も持たない女。

 ただ、この世界を救うという力だけは、確かに私の中にあった。使いすぎると昏倒してしまうけれど、願うだけで他人を癒す力が。

 民には感謝され、まるで奴隷のようだという思いは意識の底に沈めて、どうにかここまで来たんだ。もう、解放されたい。


 魔王は、うっすらと微笑んだ。

 どうして?

 言葉にならない私に気付いたのか、唇が動く。その形は、間違いなく母国語の感謝の言葉で。

 どうして? 何故なの。あなたはどうして。私は、私は――

どうしてあなたと戦わなければならなかったの。


 ありがとう。ありがとう。

 世界は祝福された。

 光あれ、聖女に栄光あれ。

 称えろ。聖女様万歳。これで王家は再び聖なる血を取り入れることになる。

 

 待って、この声は誰なの。


 あふれる光の中、魔王の姿は崩れて溶けて消えていく。

 最大級の感謝を、私に告げて。





 『いつもの場所で、いつもの時間に』

 『りょーかい』

 彼からのメールは簡潔至極。私の返信も簡単なもの。

 それでも、不安ではなかった。まだ、あの頃は。

 いつも通り一足先に到着した私は、ほんの二十メートルほどの石橋のたもとで周囲を窺う。すっかり日が落ちて水面は黒く、両岸にずらりと並んだ店や宿の明かりが映りこんでいる。

 いちど中ほどまで渡り、引き返して川沿いに少し下る。


「やっぱりいないか~」


 昼間に仲良く泳いでいる白鳥のつがいが見つからない。もうねぐらに帰ってしまったんだろう。

 諦めてぼんやりと川面を眺めていると、背後から静かにフルートの音色が流れてきた。それを殺さないようにと、控えめなピアノが追従する。大正モダンと呼べば良いのか、白い壁に黒い屋根のその建物は、一階のホールで度々音楽関係の催しがある。たいていの待ち合わせがここだから、知るともなく知ってしまった。


 もう一度見回して待ち人来たらずと確認してから、その建物に近付いていく。

 窓がたくさんとってあるので、立ったまま中を窺うことができる。

 ベンチ椅子はほぼ埋まっており、シンプルな白いドレスの伴奏者の前で、赤いドレスの女性が金のフルートを奏でていた。

 シャンデリアの明かりがフルートに反射して、私を射す。


 薄いガラスの向こうは、まるで別世界のようだ。この窓を開ければ、あるいはぐるりと回って濃茶の木のドアを開ければ、繋がっているはずなのに。

 窓枠はテレビ画面のようで、現実感が薄れる。

 こちらとあちらでは、空気すら違うような。

 彼がいたら、入ったかもしれない。

 入ってしまったら、彼に気付けなくなる。

 踵を返し、遠のく音楽を背中で聞きながら、橋の中央へと戻った。


 結局、その日彼は来なかった。

 三十分ほど待った頃に携帯端末が鳴り、音声着信を知らされた。


『ごめん、まだ終わらない。寒いだろ? ごめんな』

「ううん、それは大丈夫だよ。もう少しで終わりそう? 待ってるよ」

『少しといえば少しなんだけど、後輩が自分で仕上げるの待ってるから、先が読めない。悪い! また今度埋め合わせするから、今日はキャンセルにして。ホントごめんな』

「わかった……」


 電波の先の彼の声は本当に申し訳なさそうで、終わるまで待つといってもその方が負担になるだろうと思うと、会いたいとは言えなかった。

 もう、一か月会ってない。

 しかも、明日から出張が入っているからと金曜の夜に予定を入れていたのに、これでまた次の週末まで会えない。

 私は携帯端末をショルダーバッグの内ポケットにしまうと、駅へと足を向けた。

 音楽が遠ざかっていく。

 ひとりでも入ろうとは、思えなかった。



 怒涛の年度末を乗り越えて、春先に白鳥の雛が生まれた。

 午前様が当たり前の時期は、疲れ果ててメールでの連絡しかできなかった。声を聴きたくても、深夜の電話は気が引ける。彼はそこまで繁忙ではなかったようだけれど、相変わらず後輩のサポートで四苦八苦しているらしい。

 そんな中、新芽の出た柳の下でしゃがみ、ふたりで雛を眺めていた。


「なんていうか、ホント醜いアヒルの子って感じだよなぁ」

 ふわふわの産毛でおっかなびっくり親鳥について回るグレーのかたまりを見て、彼はしみじみと呟いた。


「でも可愛い」

「うん、それは同意」

 膝に頬杖をついている私の腰に、彼の腕が回る。


「去年もその前も、卵孵らなかったんだよな、確か」

「うん」


 いくつかは外敵にやられてしまったけれど、最後に残った一個もいつの間にかなくなっていたらしい。なにがダメだったのか判らないけれど、生まれなかった命について思うと、心臓がぎゅっと縮こまる気がする。


「命ってすげえ」

「このまま、すくすく育つといいね」

「だな」


 彼との会話はいつもこんな風にのんびりとしている。

 けれど、その会話から先へと発展しないように、私は「お腹空いた! 大判焼き食べに行こ」と彼の顎に頭突きをした。





 聖女様万歳と、この世界の誰もが叫ぶ。ただ言われるがままに、いつの間にか授けられていた能力を使うことだけを期待され、望まれ、強制されてきた。

 最初、真っ白な長衣を着た複数の男性に囲まれた円の中心に出てきた私は、驚いて声すらも出せずにいた。

 成功だ、と口々に声をあげ、興奮した様子の見知らぬ人々は、みな金や銀の髪をしており、中には顔をしかめている人もいたように思う。それは、のちに知ることとなる蔑みの表情であったらしい。


 この世界には、おそらくいくつかの国がある。私のいた世界ほど細かくは分かれていないようだが、それがいくつなのかも何という名前なのかも、誰も教えてはくれなかった。確かに知らなくてもやってこれたし、知る必要もなかったのかもしれない。けれど、たとえば朝夕に提供される食事の名前やその食材がどのような形容であるのか、最初少しでも打ち解けようと尋ねた私の言葉は、すべてが黙殺された。


 私は、魔王を滅するために呼ばれた。世界を越えて召喚されたということだけは、理解できた。この世界のものでは歯の立たない存在である絶対悪。それが存在するだけで土地が腐敗し広がっていく上、天候さえもおかしくなるため、現れたときにはすぐにわかるらしい。


 しかし、魔王は不定期に顕現するが、その対抗手段である聖女は、人の手で召喚しなければならないのだ。神殿で修業を重ねた高位の神官たちが、飲まず食わずで三日間儀式を続けようやくなされるもの。場合によっては、命を失うほどに危険な儀式だという。

 そうしてあの場に現れたのが、私だった。


 疲労のあまり、夢を見ているのかと思った。あまりにも突然で理不尽な事故。その対応をしなければならないはずの脳は働かず、迎えた人々の歓喜がわずかに落ち着き声をかけられても、床にへたり込んだまま呆然とするしかない。

 まるで映画でも見ているかのように現実感がなく、さかんに話しかけても反応のない私に焦れて近付いた王子が私の顎を掴むまで、私は傍観していた。


「おぬし、五感は正常であろうな」


 腰を落としたものの王子の体格はよく、ぐいと捻るように持ち上げられて首がつらい。痛みで我に返った私は、同時にこれが夢ではないと悟った。

 瞬きをして、王子の視線を受け止める。それは、私の上司と同じ色を湛えていた。自分の意思が通るのが当たり前で、部下はただの駒であると割り切っているそれ。白のみの男たちの垣根を割って現れた彼は、童話に出てくる王子様そのものの金髪碧眼で、質のよさそうな服を身に着けている。さすがに冠などはなかったけれど、生まれながらに持っている気品と傲岸不遜な気配が感じられ、私は息をのんだ。


 言葉が出ない。だが、それがまた彼を苛立たせた。

 乾いた音とともに右頬が熱くなり、衝撃で頭が揺れる。あとから訪れた痺れるような痛みに、ようやく自分が叩かれたのだと理解した。


「返事をしろ」


 低い声が、私を促す。はいと言おうとして、乾ききった口の中が音を紡いでくれないことに焦った。

 唾を飲みどうにか声を出そうと呼吸を整える私の頬が、また鳴る。今度は反対側だ。頭がぐわんと揺さぶられ、どうにか姿勢を保とうとしていた私は、床に倒れ伏す。それなのに悲鳴すら漏れなかった。


「そう急くでない。初めての場所で緊張しておるのであろう」

「ですが父上、ことは急を要するのです」


 輪の外から厳かに声が響き、王子を止める。それは王の言葉であったから、さすがの王子も腰を上げ姿勢を正した。

 だが、誰も彼の所業を諫めることはなく、私を気遣う者もいなかった。

 もしかしたら、その場にいた王と王子以外の人たちの中に、優しい人もいたのかもしれない。けれど、それは私に届くことはなく、そのあともずっと、届けられることはなかった。





 たとえば、社内にあるシステムである改善提案。私の勤務先では、年に一度は必ず提出しなければならないものだった。

 簡単なものであれば、朝の清掃当番をこうこう組み替えた方が良い、こうすればより効率的であるというもので良い。それを実施してこういう結果になったというものであれば尚良いとされる。

 そのように個人あるいは小さなグループで達成可能なものが手軽で無難だ。

 技能があるならば、職場で使用する専用ソフトを作成するなどで、金一封を得ることができる。

 しかし、組織のシステムに問題があり、それが己に枷になっているので改善してほしいというたぐいのものは、大抵受理されないのだ。

 いや、受理はされるだろう。けれど、こう言われるのだ。

「考えておこう」

 と。



 いま、私の前で、王は厳かに告げた。一片の乱れもない服装で、玉座に落ち着いたまま、段の下に膝をつく私たち一行を見下ろして。


「すでに準備は進めておるゆえ、旅に費やしたより早く行われるであろう」


 魔王との対峙からこっち自失状態だった私は、先の言葉に反応するのが遅れ、この言葉にようやく顔を上げた。

 普段なら勝手に顔を上げることも咎められた。流石に魔王退治の立役者である私をいまこの時に叱責することは憚られたのか、居並ぶ誰からも責められない。けれど。


「どうして、ですか。私は、帰らせて欲しいと伝えたはず」

 声が、震える。


 旅に出る前、どうしても納得できなくて、また無視されると思いながらも叫ぶように頼んだ。

 悲願を達成したそのときには、元いた場所に送り返してほしいと。

 鷹揚に頷いた王に、安堵したわけじゃない。それでも、それしかよすががなかったからこそ、私はそれに縋りついた。


 一パーセントでも可能性があるならば。

 万に一つ、億に一つでもいい、あの日あの時、私が私であり、歯車の一つでしかない平社員でも、私という存在を必要としてくれる誰かがいる世界に戻れるのならば。

 頑張れる。生きていく意味がある。そう、思えた。

 それがどんなに愚かであったとしても、そう考える自分を封じ込めていなければ、私はいまここにいなかっただろう。


 皺一つない豪奢な衣装に身を包んだ王が、玉座で片眉を上げた。その瞳にあるのは、上司と同じ色だ。いや、同じではないか。上司にあったのはせいぜいが呆れの色だったけれど、こちらは侮蔑だ。

 私に拒否権などなく、もとより同じ人として扱われていない。

 聖女という綺麗らしい言葉に飾られた奴隷だ。一兵士ならば辞職もできるが、そのような自由もない。


「考えてはみた。だが、帰還の儀式を行うには再び神官らに負担がかかる。魔王のせいで荒れた国を浄化しきらねばならぬいま、そのような手間はかけられぬ。褒美として王族の血筋にお主の子を迎えると言っておるのだ。これ以上の誉はあるまい」

「そ、んな」


 ただ震える手で、自分を支えることしかできない。

 なんと便利な言葉だろうか。

 考えておこう。しかし、それは無理だ。そのように計らう利はない。

 省略された言葉。

 そうと知っていても、支えとして縋ってきた私には、もうなにも残らなかった。

 近衛とともに王が玉座から去り、私は騎士たちに引っ立てられるように、客室に放り込まれ、侍女たちによって磨き上げられる。

 なすがままに。

 思考を放棄して、私は身を任せた。




 旅立つ前の監禁状態からはましになったといえど、相変わらず私に自由はない。

 室内には常に侍女が数人控え、扉の外には近衛がいる。

 彼ら彼女らは私の身の回りを世話をし護衛する者ではあれど、私との会話はなく、私の訴えに誰も聞く耳を持たない。

 個人として嫌うことができればまだ良かったのかもしれないが、あの居丈高な王族の有様を知るだけに、この人たちも我が身が可愛いのだろうと諦めるしかなかった。


 ただひとつ良いことがあった。最低限のマナーさえ身に着けていれば、王子から王太子へとランクアップした彼の政治的な補佐はしなくてよいと、旅立つ前より自由時間が増えたことだ。

 穿った見方をすれば、下手に知識を取り入れて逃亡されては困るということだろう。

 正妃であれば当然必要であるはずの外交、社交といったたぐいのものは、聖女であるからと免除されている。その代わりを務めるのが、王太子の傍に使える宰相補佐という立場の、やんごとなき地位にいる令嬢だった。


 顔も見たくないから私のもとに訪れないのは喜ばしいことなのだけど、王太子は彼女にはしょっちゅう微笑みかける。令嬢は、王妃ほどには華美でないにしろ、それ仕事に邪魔じゃないかしらと心配になる程度には着飾り彼に侍っている。愛想を振りまきながらも仕事はこなしているようだ。まあ、有能ならばいいんじゃないかな。

 国民に相対する行事では私を隣に置くけれど、その一歩後ろには令嬢が控え、ことがすめば王太子は私には見向きもせずに彼女と消える。


 以前のように暴力と暴言がないことは救いであるけれど、私に求められているのは王族と聖女の血筋を残すことだ。

 準備が整えられれば、私は公式に王太子の正妃となり、夜を共にしなければならない。

 




 天の川を眺めて、願う。但し、宙の星はこんな地方都市でもほとんど見えず、街中の川に天球を浮かべるという催しだ。

 手のひらサイズのプラスティックカプセルに油性マーカーで色を付け、虹色のセロファンも追加してからきっちり蓋を閉める。ろうそく型のLEDライトに照らされた球は、川面に浮かぶと本当の星でもおかしくない気がした。

 もうずいぶん大きくなっているはずの雛はもちろん、親鳥の姿も見えない。もう少ししたら別の水場に引き取られるという。狭い場所では縄張り争いが起こるのだそうだ。親子でもずっと一緒にはいられない。人間に餌をもらえる環境でも、野生のシステムは働いている。


「来年も、この催しあるといいね」

「うん。綺麗だしね」

「まあ、そうなんだけど。なかったとしても、ふたりでこうやっていられたらさ、いいなって」

「私も一緒にいたいよ。ずっと。天球にも、お願いした」

「俺も」


 岸から色とりどりの天球を見守りながら、彼の腕の中で、そのぬくもりを感じていられる幸せ。それを手放したくなんてなかった。


 ねえ、帰りたいよ。

 お互いに仕事が忙しくて、なかなか会えなかったよね。

もしもこんなことにならなかったとしても、自然消滅になっていたかもしれない。

 こちらからのメールに返信が来なくて、留守番電話に切り替わらないあなたの携帯電話は、すぐに電源が入らなくなった。

 彼に何かが起こったと思うより前に、捨てられたと衝撃を受けた。

 たいしたことない距離を越えられなくて、努力すれば作れる時間を作ることもなくただ日々が過ぎて。

 あなたからの思い遣りだと無理やり納得していた、しようとしていた。それでも、さすがにもう自分を騙すことができなくなって。

 要らなくなったんだな、私のこと。

 そう確信した日、狭いアパートで、静かに涙した。

 あなたが時間をとれる日には、私は午前様だった。

 私が休みの日には、あなたは出張だった。

 それでも、忙しいだけで、いつかまたふたりでゆっくり過ごせるって、なにも疑っていなかったの。

 会えなかった時間なんて関係なくて、私たちはそのままでいられるって。

 そう、根拠もなく思い込んでいたんだ。


 だけど会いたいよ。

 いまなら、いえ、いまだからこそ。

 あの時、どうしてあなたの部屋にいかなかったのか。会社に問い合わせもせず、あなたの友人伝手に連絡をとろうともしなかったのか、愚かな自分に気付いたいま、だからこそ。

 会いたいの。

 だって、まだ、愛してる。




 この世界は魔力に満ちているらしい。生まれた時からわずかながらも全ての者が魔力を有し、それが膨大であれば専門の学院で学び、巧みに扱うことが可能となれば、魔術師と呼ばれる職業になれる。

 私と旅路を共にしたのは、その魔術師の中でも次期筆頭魔術師候補とされる人だった。


 この世界に呼ばれたときから、私は聖女と呼ばれている。唇の動きが母国語と異なることにはすぐに気付いたから、言葉を自動的に翻訳するなにかの力が働いているのだろう。

 そうでなければ、私は自分が何を求められているのかすら理解できず、更に酷い扱いを受けていたろうと思う。

 文字も認識できれば、もしかしたら私は逃亡を企てたかもしれない。どうにかして帰ろうと、ひとりででも足掻いただろう。


 魔術師が最初になにか、私に読ませようとした。手書きで革の表紙に綴じられた本だった。めくって示されたけれど、私には記号としか判別できず、窺うように私の表情を見守っていた魔術師は落胆の吐息をし、王子は安堵の表情ののち鼻で笑った。

 いちから文字を憶えさせる手間を惜しんだのもあるだろうけれど、やはり余計な知識を得られる可能性が減ったことが、彼らにとっては良かったのだろう。


 なにが真実なのか、判らない。

 神官たちによって、聖女としてこうしなければいけないということのみを刷り込まれた。

 神の力を借りて浄化を行うこと、または己の生命力を分けて治癒を行うこと、それが私に求められるすべて。

 力の練り方、発現の仕方は魔力と同じため、使い方は道々魔術師に叩き込まれた。

 魔王が顕現した場所へと向かう行程で、魔物と呼ばれる生き物を浄化しながら。


 王子と魔術師、そして護衛の騎士らが扱う武器や魔術でも、魔物たちを屠ることはできる。

 ただ、魔王と呼ばれる存在が、人間の暮らせない淀んだ地域を広げていく。草木は枯れ、水は腐り、大地はひび割れる。人間だけでなく、すべての生き物が駆逐されていく。

 それを元通りにするのが神官であり聖女であり、根源である魔王をすら浄化できるのが聖女だけなのだと教えられた。


 なぜ、魔王は顕現するのか。

 進みながらずっと考えていた。

 映画やゲームに出てくるような、元いたところには存在しないおどろおどろしい生き物、それが魔物と呼ばれるものたちで、それらを屠ることに忌避感はなかった。どこからそれらが生まれるのか、不思議ではあったけれど。

 だから、それらの長である魔王も、同じような外見なのだと想像していた。


 まさか、魔王が。

 相対した時の、私の驚きは。

 そして、葛藤する間もなく、反射的に力を行使してしまったことを。

 私は――





「いつもの場所で、いつもの時刻に」


 それは、私とあの人の間での定型文。簡素だけれど、寂しさよりも安心感。

 一昔前には流通の要としてなくてはならなかった川にかかる橋で、私とあの人は待ち合わせた。いつも、いつの日も。

 観光客を乗せ往復する舟をゆったりと眺め、ときおり川岸に寄って来る白鳥のつがいに癒され、飽きることなくいつまでも待っていられた。


 私より先に来ていたあの人が遅れがちになり、ついには時計の長針が一周以上回るようになり、ついに約束が途絶えるまで。

 急な残業で連絡する間もなく、急ぎ片付けて駆けつけてくれていたのを疑うことなどなかった。だから、遅れても必ず来るから待っていてと、あなたはそう言ってくれればよかったのに。

 待たせたら悪いからと、約束すらもなくなってしまい、忙しそうだからと連絡を控えていた私に訪れたのは、今となってはあがくことすら不可能な、完全なる別離。


 もう、いまの私には、失うものなどなにひとつない。

 よすがとしていたもうひとつを、なんどもなんども思い出した。それは、私の脳内にしか響かなかったようで、自分以外の誰も気付いた様子はなかったから、勘違いかと思った。

 りんと響いたその声しか、いまは縋れるものがない。


 せめて王太子が私に好意的であったなら、私は諦めていたかもしれない。

 魔術師並みには、ひととして対等に扱ってくれていたならば、心が動いたかもしれない。

 もしも、もしも、だ。

 そんなことは、魔王退治の旅が過去のこととなり、民衆の関心が聖女と王太子との婚姻式に向いたいまになってすら、かけらも示されることはない。


 そう、それでいい。

 私を愛した存在は、私が愛した存在は、あの人だけでいい。

 もう二度と会えないと、少なくとも同じ世界にいま存在してはいないと確信するからこそ、私は安堵できる。

 今日の婚姻式が成立したとしても、王家やこの国の民が望むものを、私は与えない。

 もとより、持ち合わせていない。もしも私が望んだとしても、血筋など残すことはできないのだ。


 言葉を尽くして説明したとしても、彼らにそれは理解できないだろう。理解したとしても信じないだろう。信じたとしたら、私は処分されるのだろう。

 信仰の対象として命ながらえたとしても、そこにはまた私の意思などないのだろう。訓練の際に数人の神官と衣食住を共にしたけれど、城での扱いと大差なかった。


 ひとつ違ったことといえば、私を性の対象として見るものがいた、ということくらいだ。

 きらびやかな王家の人々にとっては蔑む容姿であったとしても、彼ら神官たちにとっては、同胞にも存在する黒髪であったから、そういう忌避感はなかったのだろう。

 私は、神殿でそのように扱われるのもまっぴらごめんだ。

 それならば、万に一つの可能性に懸けてみるしかないじゃないか。


 せめて表面上くらいは取り繕えば良いのにと、思ったこともあった。屋根のない馬車は真っ白で、隣に立つ王太子は、城を出るその時まで渋面を隠しもしなかった。

 けれど、いまはそれで良いとすら思う。

 私をとことん厭い続ければいい。そうであれば、私も憎み続けることができる。


 暴力をふるったことも、暴言の数々も、粗略に扱ったことも、すべてが当たり前で正しいことだと信じていればいい。

 それでこそ、私はこの世界を捨てることができる。

 あなたたちがくれなかった情けを、私だってかけなくていいでしょう。

 何の関係もない人に全ての罪を負わせ、闇に落とし、責任を押し付け、救いを求め、労いはなく、対価もない。

 この茶番に対する報酬でもあるならば、労働と割り切れた。

 なにもない。私には、なにも。

 この金糸銀糸の刺繍に彩られた見事なドレスも、やせ細った身体を押しつぶすほどの民からの歓声も。王太子の隣に並ぶことも。そして、これから一生王城に住まうという未来も。

 なにもかも、私にとっては栄誉でも名誉でもなく、報酬に値しない。


 神殿へと続くこの道は、十三階段。

 皆に死角となるところで王太子が私の足先を踏みつけようと、もう私は表情が動くことはない。おもねるために無理に微笑んだりはしない。

 ただまっすぐに前を睨み、聖女を希求し、私を排除するこの世界をシャットアウトしよう。





 私たちの住んでいた街には、都会のような高層ビルはなかった。高い建物といえばマンションという認識で、社屋ならばせいぜい五階建て、ごく最近建て直しのあった病院でも二桁階はない。

 そんな環境で精いっぱい気を配ってくれたのが解るからこそ、私はことばを失った。


 天井から床までガラス張りの壁面の向こう、パノラマに広がるオーシャンビュー。あの人にとっては見慣れた光景だけれど、私には旅先のように馴染みのない海岸のホテルの最高階で、私は途方に暮れている。

あなたはしきりと瞬きを繰り返し、息をのんで私を見つめている。

 ライトアップされた大橋の明かりが点滅を繰り返し、それが幾度かも判らなくなるほどのときを挟み、私は拳を握りしめた。

 夜景を見下ろす私より少し室内側に立つあなたは、差し出した手をそのままに、私だけを見つめている。その掌に載っているびろうどの小箱には、憧れてやまない小さな石を頂く指輪が鎮座している。

 ごめんなさい。

 この日がくるのがどんなに待ち遠しくて、そして恐ろしかったか。

 もっと早くに伝えておくべきだった。でも、ただ付き合っているだけで、そんなつもりはないからと言われるのではないかと考えると、自分から告げる勇気が出なかったの。

 震える小箱を見て、あなたの勇気を知ったの。軽々しい気持ちでここまで来たのではないと、からだが震える。


「ありがとう。とても嬉しい。でも、それを受け取る前に、知ってほしいことがあるの」


 それを聞いて、あなたはどうするかしら。

 ずっとずっと、それだけを恐れてきた。

 小箱の蓋を閉じることなく、あなたは私のことばを待っている。期待の中にほんの少しの不安を隠していた瞳が、揺れている。

 嬉しいの。幸せだよ、こんなに想われて。それだけは本当。愛しているの、だからこそ、伝えなきゃいけない。


 その後の彼の表情を、嵐のような一夜を、私は生涯忘れることはないだろう。

 喜怒哀楽の中のふたつの感情を目まぐるしく表すあなたのなすがまま、私は絨毯の上で翻弄された。

 あなたは初めてスキンなしに私の中に欲情を放ち、それが私たちの最後の交わりとなった。


 黙って受け取れば、あなたを苦しませなくて済んだのかしら。

 優しいあなたは、数年後にとても悩むことでしょう。それがわかっているから、隠すことなどできなかった。

 騙したと罵られるのが怖かったわけじゃない。

 ただ、私は。

 私を愛している、私だからこそ一緒にいたいのだという確証が欲しかったの。

 そして私は、あなたを失った。



 私にはもう、失うものなどないのだと思っていた。

 ただ、惰性のように日常を過ごし、日常を送るために仕事に向かう。そこに意味はあるのか。生まれたからには生きていくのが当たり前で、けれども生きるってなんだろうと常に頭の片隅で自問する日々。


 親は、私の欠陥を見出した時、私を見限った。

 特に愛されて育ったとは感じなかったけれど、ごくごく一般的な家庭で何不自由なく暮らしていた私にとって、家は居心地の悪い場所になった。

 幸いにして、最高学府に通っている途中だったので、卒業までは面倒を見てもらえた。その間に私はアルバイトでせっせと資金を貯め、職場に遠すぎず近すぎないアパートへと引っ越し今に至る。

 初めのころは、せめて正月くらいはと実家に顔を出してみた。二年遅れて就職した弟が恋人を呼んだ翌年に、電話だけで新年の挨拶を済ませた。

 忙しいなら無理してこなくて良いからね。

 母にそう言われた瞬間、細く残っていた何かの糸が、ぷつんと切れる音がした。


 そうだ。私にとって、あそこはもう帰る場所ですらないんだった。

 とうに諦めていたはずだったのに、まだ期待していたのかと自嘲し、切れたままの携帯電話の画面を見つめたまま、床に膝を突く。

 以来、親とは連絡もとっていない。

 弟からは、結婚の報告があり、式には必ず来てくれと言われている。

 その日付は、もう過ぎているはずだ。こちらとあちらの時の進み方が同じであるかは判らないけれど。

 どちらにしても、帰れないのだから、気にするだけ無駄だった。


 開いたままの目の前で、人が走っているのと同じくらいの速さで、石畳が足元を流れていく。

 連日の晴天のせいで、空気は砂を含んでいる。あまり吸い込まないように静かに呼吸する私の隣では、私と揃いの刺繍を施された軍服姿の王太子が、沿道の観衆に向けてゆるやかに手を振っている。

 私にもそれを求められていたけれど、踏みしめた両足先が痺れても、私は応えない。

 さようなら、世界。

 私は、魔王の後を追う。


 この日のために磨き上げられてきたのだろう。鏡面のように景色を映す石で造られた神殿は、私にとっては牢獄とかわりない。

 物語の中で崇め奉られる救世主と私は、なにがどう違ったのだろう。

 神官たちが呼び出したから、使役して良い存在であるということなのか。

 そもそも神官たちの扱うちからとは、神へ祈り神より借りて与えるものではないのか。


 今までにも散々考えつくした事柄が、胸のうちで渦を巻いている。どろりと溶けだしそうなほどに、何度も何度も練られ、こねられ、固まって、もうどうにも加工できないほどに。

 階段より少し手前で馬車は停まり、白くゆったりした衣に赤い垂れを肩から掛けた神官たちが、馬車のステップの両脇に立ち、私を誘う。

 ここまで大人しく従ってきた私を、彼らは未だに監視しているのだろう。手つきだけは恭しく見せているが、伏せた顔からちらりと見えるまなざしは、けして私を慕ったり敬ったりするものではない。

 この儀式ののち王宮預かりとなる聖女であっても、いま何か起これば神殿が責を問われる。何が何でも逃がすものかと気概が感じられるが、私はもう最初のころのように怯えたりはしない。気付いてなどいないように、淡々とふるまうのみだ。

 この場から逃げるつもりなどない。この儀式は私にとっても待ち焦がれたもの。そして、最後の命綱であり、心の支え。

 もしもそれさえも叶わなかったならば。それはまたそのときのことだ。


 自分の姿を足元に見ながら、粛々と回廊を進んでいく。駆け出したい衝動を抑え、少しでも儀式を遅らせようとささやかな抵抗をしていると見えるようゆっくりと歩を進める。

 王太子は多少苛立っているようだけれど、流石にこの場では言動で表しはしなかった。

 ついに最奥に到着した。

 私が呼び出され、無理やり服従させられることになった始まりの場所だ。

 なにが神聖なものか。これほど禍々しく忌々しい場所をどうして有り難がれよう。


 祭壇の向こうに神官長が立ち、鷹揚に頷く。王の隣が王妃だろうか。王太子よりかなり年下の少年少女が並び、緊張の面持ちで私を見つめている。その瞳には、民衆と同じようになにかを希う色しかない。

 もしも王と王太子もそうであったなら、私はいまと違う覚悟でここにいただろうか。

 せんないことを思い浮かべ、自嘲しそうになり口元を引き締める。


 油断してはだめ。迷ってはだめ。

 耐え続けた日々を無駄にしてはいけない。かけらほどにしか残っていない可能性を、自ら捨ててはいけない。

 武者震いを隠すように、左手で右手を握り締め、王族と神官たちが恭しく拝聴する祝詞を聞き流す。

 いつの間にか声が途切れ、神官長が一歩下がり、祭壇に王太子が歩み寄った。そこに用意されているガラスペンのようなものを手に取り、インク壺に浸してから、祭壇上でさらさらと書きつける。

 間違いなく、契約のサインをしているのだ。

 流石の王太子も緊張しているのか、肩を上げて落とす仕草をしてから元の位置に戻ってきた。

 いよいよ、と私は深呼吸する。

 一歩一歩踏みしめるように進み、一枚の紙を見下ろした。


 やはり。

 魔術師が示したときにはただの記号だった文字が理解できる。読めるようになったわけではない。書かれているのは相変わらず記号にしか見えないが、その上に重なるように母国語が浮かび上がっているのだ。

 内容はといえば、あちらの世界に広まる宗教からすれば、かなり不条理で、母国であれば法律違反もいいところだ。

 儀式にて婚姻関係を結んだ両者は、いかなることがあれどその関係を解消することはならない。生涯国と王家に尽くせと、大体そんな感じだ。


 要するに、今までもそうであった関係が書類上のものとなり、更に神とやらに誓い違えること叶わぬ強固なものとなるのだ。

 他と変わりないただの紙に見えるこの書類は、確かにいま、神力を帯びている。その由来すら聞かされていないけれど、あのときのことばを裏付けられて、私は安堵の吐息を漏らした。

 離れた位置にいる神官長と王太子からの、急かすような気配を感じる。

 ここで強制はできないし、私がこの文章を理解できるとも思っていないだろうから、最後の悪あがきとでも見えたらいい。


 深呼吸して、クリスタルのように透明な筆記用具を手に取る。それはずしりと手に馴染み、一筋だけ降り注ぐ陽光を受けて煌めいている。実物に触れたことはないけれど、きっとガラス製の万年筆がこんな感じなのだろう。

 陶器でできたインク壺の中身は、深い青だった。この国では濃い色ほど卑しいとされ、黒をまとう魔王はその最たるものとされている。

 だから、聖女はそれに対抗する存在と伝えられながらも、選民意識の強い城住まいたちには受け入れられなかった。


 市井には、黒にほど近い色を持つ者たちもいるため、民衆からはただ縋られ有り難がられたけれど。

 黒は優性遺伝のはずだから、もしも私が王太子の子を産んだとしても、その子はまともに育てられるのだろうか。それとも、もしかしたら、この世界では王族の因子の方が強く出て、必ず金銀の淡い色になるのだろうか。

 あり得ない未来が頭を掠め、また綻びそうになる口元を引き締めながら、インクに浸したペンを持ち上げる。

 ふう、と息を吐いてから、私は王太子のサインの下に母国語でペン先を滑らせた。


 勿論、名前などではない。私はこの契約に同意しない。

 これは、一方的に告げられてきたなにものかからのことばに、こちらの意思を伝えることができる用紙。私は、そう認識している。


 このホールに現れた私を死に至らしめることは、如何なる人間にもできない。最初に神官たちにより、そのように言祝がれた。

 その制約には抜け道が多く、だからこそ私は王太子により何度も傷付けられた。


 刃物は室内に置いてくれなかったし、窓には鉄格子があったから、自死するとしても舌を噛むとか首を吊るとかの方法しか思いつかず、私はそれらを試してみた。

 結果、どんなに力を入れようとしても歯が舌に当たるとすぐに体が硬直し、もう諦めようと考えるまで動かなかった。そのあとしばらくは体中が弛緩し、ぐったりと寝込む羽目になる。

 朽ち果てた落ち葉のように床に横たわり、朝を迎えることが続いた。

 首を吊るのも同様で、とにかく私が死を意識する動作を取ろうとすると、体がいうことを聞かなくなるのだ。

 旅の途中で、崖など高い場所から落ちようと画策したこともある。それも同じ結果だった。

 では、飢えて衰弱すれば良いのではと思えば、それに気付いた魔術師に強引に食事を詰め込まれた。何度か吐いて抵抗してみたが、民たちが飢えを我慢し融通してくれている貴重な食材を無碍にするなと諭され、罪悪感で吐けなくなった。


 もしも、魔術師が婚姻相手であったとしたら。

 またせんないことを考えそうになり、ぐっと下腹にちからを入れる。

 迷わない。この世界は私のいるべき世界ではない。私を拒絶してきた世界など要らない。


 垂れることなくインクを留めているペン先を紙に置き、母国語で丁寧に綴っていく。

 旅に出る前旅の途中で習ったように、体内に巡る血液を意識して、心臓から指先へと辿らせた聖なるちからとやらを込めて、母国語で。

 最後まで書ききると、文字がふわりと浮かび上がった。

 差し込んでいる陽光がそれを包み金色に輝きながら頭上高く上がっていく。首が痛くなるほどに見上げていると、ごおんと鐘が鳴った。


 ――契約は受理された。


 どこからともなく、厳かな声が降り注ぐ。

 それは他の者たちにも聞こえるのか、おおと感嘆の声が挙がった。

 ごおん、ごおん、ごおん。鐘が鳴り響く。

 くすんでいた世界が鮮やかに色を取り戻し、それから剥がれ始める。

 文字が輝き霧散する様子を眺めていた者たちが視線を落とし、私に集まるのが分かった。

 眉を上げ、だらしなく口を開けたままこちらへと手を伸ばしている様子を見て、今度こそ微笑みを隠せなくなる。


 見てなさい。

 どんどん軽くなるからだを意識して、両手を掲げる。目の前で、指先がかすんでいくのが判る。契約の文字のように天に昇るのではなく、そして世界に散らばるのでもない。

 私の前で魔王がそうであったように、なにかに吸い出されるように、存在が粒子になり消えていく。気配がどんどん減っていく感覚に、たまらず私は声を出して笑った。

 王太子の声が、背後で挙がった。もうどうでもいい。最後になにか言ってやろうかとも考えたけれど、どうでもよくなった。

 好きの反対は憎しみではないということばを実感する。もう、王太子も王も神官たちも、そして諸悪の根源であるこの世界の神とやらも、すべてがどうでもいい。


 消えて無くなれ、世界。

 私を拒絶する世界など要らない。

 誰からも必要とされない私なんて要らない。

 消えてしまえ、消えてしまえ。






 鼻先をくすぐる懐かしい匂いに、意識を揺さぶられる。少し汗を掻いているのかな。懐かしいと感じることが悲しくて、瞼の裏が熱くなる。じわりと滲み出した熱がこぼれ出たとたんに頬が冷えて、耳の穴に不快感。

 それでも目を開けたくない。開けてしまえば、絶望が待っているんじゃないかって。

 濡れた頬を拭う動きで俯せてみれば、こちらも懐かしい感触。

 これは、パイル地だ。

 手で触れて確認しようとして初めて、自分以外の体温に包まれていることに気付いた。

 一瞬の疑念ののち、これも懐かしいものであると思い出す。この節くれだった長い指と私を包み込む掌には、剣を持つ者の硬さはない。


 最後の確認のため、ゆっくりと目を開いていく。

 いつか見たよりも、やつれた顔が、床にくずおれるように、ベッドに縋りつくように、私の至近距離にある。

 伏せられた瞼のほど近くにある黒子をみとめて、笑みがこぼれた。


 ねえ、あのときの返事の続きを言ってもいい?

 堪えきれずに呼びかけるも、掠れた吐息のようなものしか漏れない。

 それでも、愛しいひとの瞼がぴくぴくと動き、その下から黒と焦げ茶の瞳が現れる。

 頭をもたげることなく、私と同じ向きになるよう位置を変え、目も口も微笑みの形になるのを見つめていた。

 こくりと唾を飲み、唇を湿らせてもう一度声を出してみる。


「ただいま」

「うん、おかえり」


 へにゃりと崩れたあなたの笑顔が嬉しくて、握られた手の反対の手で、そうっと彼の眦を拭った。


「ねえ、話したいことがあるの。たくさん、たくさん」

「うん、俺もだよ」


 ふたりで答え合わせをしましょうか。あの世界のこと。

 それからじっくり話し合いましょう。この世界の私とあなたのこれからについて。

 


                  了



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