8話
私は今し方、雲上の空の旅を強要されている。私は鳥だ、などと、果てしなく下らなく、稚拙な言葉遊びなどしている暇は無いが、思考回路がいくらか麻痺し、気が散っている現実は認めざるを得ない。
ご忠告通り、騒ぎ立てるような真似は行っていないが、かといって何がどうなって、現状へと至っているのかくらいは事前に説明をして頂きたかった。
「腕が疲れる。柄にでも座っていろ」
空飛ぶ箒。ある意味、見慣れた代物に乾いた笑いが零れそうになる────程に楽観視できる筈もなく。高所恐怖症ではないものの、肝を冷やすとはこの事かと、眼下の白い景観にやつれる。
魔女から引き上げられた私は、指定された通りに箒の柄に腰を下ろすも、何とも落ち着かない。空を駆けた事のない私には、その疾走感を覚える為の対象物が周囲に存在しない為に、現状どの程度の距離を飛行したのかも分からず。
存外、目的地まで近かったのだろうかと錯覚する位には、速度を上げていたようで。魔女は感覚で告げたのだろう。
「そろそろか。一応、もう一度言うが、騒ぎ立てるなよ? 僕がみっともなくては、示しがつかないからな」
ほぼ直角に、急降下。
浮遊感を楽しむ玩具など霞む程、むしろ恐怖の要素しか残さないようなこの遊戯に。私は自分でも分かる程度の苦悶を、内心の顔にだけ出力する。
自由落下とは程遠い、加速に加速を重ねた降下に。私の知る物理法則などは、完全無視とばかりに。
傲慢にも地上に胡座を掻く、絢爛豪華に着飾った王城へと。爆撃の如く、屋根をぶち抜いて内部へと侵入した魔女と僕の私は。
「さて、私を案内してもらおうか。あの屑王子のところへ」
驚愕と混乱に渦中にある兵士、貴族諸君に、魔女だけは不敵な笑みをお見舞いして見せた。
気の毒でならない。
勤務時間中の想定外の出来事。屋根を破壊しながら空から降ってきた、常識知らず。仕事上とは言え、主と仰ぐ存在への不遜な態度。少なくとも、この場で起こった災厄については、何も非がない彼らは。最低限の処罰ですら、笑って見過ごせるものではないだろう。
全く以て、気の毒でならない。
主が行った魔女への酷い仕打ちの仕返しが、僕に過ぎない彼らに降り注ぐのだから。彼らにだって、家族は居るだろうにと。
だが、その思考に熱はない。熱など、持てる筈もなかった。
何故ならば、彼らが行っていたそれは。言い訳のしようがない。
壁全面、地面一面に止まらず、山さえ築く、腐臭漂う死体の山。そして混乱に乗じて追加された、骸への下準備が整ってしまった、涙の後が頬に残る男の子。
何度でも言おう。全く以て、気の毒でならない。
口調は変わらずとも、魔女から『黒い感情』が溢れる。それによって、周辺一帯が暗く淀み始めたと幻覚を視てしまう程には、私も感情的になってしまった。現に、短剣を握る右腕は、軋んでいる。
「き、貴様は────」
余計な雑音が、破裂音と共に消え去った。
まるで何も居なかったかのように、肉片も、骨片も、体液さえ残さずに。
確かに災厄については、彼らに非がない事を認める。だが、災厄以前に起こっていた最悪に関しては、この限りではない。私の心内と同調するように、魔女は怒りに震えていた。
何も学べない木偶の坊が何人か、消えた彼と同じような結末を迎えたが、私の心は動かない。彼らが『人』で────『人の悪意側』の『人』である事が気の毒でならない、と。
彼らからすれば、加害者の一人である私が多少なりとも同情しているなど、露程も思わないと断言できるが。
理由もあるのだろう。
曰く、親が同類故にこの行為は必要悪だと。曰く、この悪を為さねば、自らの命はないと。曰く、曰く、曰く────
どれもこれも、心が織り成す悪意の上に成り立つそれに。所詮『人』のままで停滞する『人』は、どこまでいこうとも、『人』でしかないのだと。大罪の一翼を以てして、彼らを敵視せざるを得ない。
私は未だ『人』である我が身が、彼らと同類だという唾棄すべき事実に、悪意を向ける。
「仮にもお前達の主である屑王子。そいつの城の案内すらままならないのか? とんだ恥さらしだな。だが、屑の下に集まるのは屑しかいないと、実証できた事は褒めてやるとしよう」
「な────」
最後の言葉が『な』だけとは、なんとも遺憾であろう。人の悪意は悪意で返されるべきと願うからこそ、因果応報を願うからこそ、私は凍り付いた瞳で彼の様を見届けた。
「一応言っておくが、この大魔女、イヴ=ロード様から逃げられるなどと甘い考えは持たない方がいい。私はお前達を、人と認識している訳ではないのだから」
忠告を受けたにも関わらず、恐怖に捉われ奇声を発しながら逃げ出した者が、一人、また一人と消える。
「……これだから、人間は嫌なんだ。大嫌いだ」
魔女が悲痛を呟く頃には、既にその場に生きている者など私達二人以外に居なかった。終始、私は無表情を装い、今回は問題なく偽れたと思われるも、亡骸の山を無機質に観察する程の耐性は、まだない。
しかし、放置する訳にもいかないだろうと、魔女と視線を交わす。
「分かっている。これにあの屑が関わっているとは断言できないが、子が屑なら親も屑だろう。元凶を潰してから、花を手向けてやろう」
「畏まりました」
息苦しいこの空想に。だが私は、今まで見てきた現実と何ら変わりないと、疑問も持たずに。ただ、死人達の冥福を祈るばかりであった。
腐敗臭を放つ肉体で敷き詰められ、部屋とも呼べないように破壊されたそこから立ち去り、元凶を砕く為にひたすら階段を上がる魔女。彼女に付随する私は、歯噛みをしながら、湧き始めた感情を殺害する。
この心の使い方は『悪』だ。酷く醜い、救いようのない悪感情だ。私が嫌い、無価値と決め付けた『人』である証拠。『善』を知る為に知った『悪』が、私に囁く。
下劣極まる『人』連中など、殺してしまえと。
だが、感情のままに振る舞うなど、それは『人』でしかない。仮にも『人間』に昇華し、その果てに到達しなければならない私は。先ずは『善』のみを持った『人』になろうとする私は。
この醜悪な獣を、握り潰した。
綺麗さっぱりと、無感情を騙れた頃には、回廊で屑にお目にかかる事ができた。
「これはまた久しい顔を見たものだね。まさか、君の方から来てくれるとは思わなかったよ。あの話の返事でも言いに来たのかな?」
外見は平凡に過ぎないのだが、中身は大変浅ましい御様子。歪んだ笑みを惜し気もなく振り撒き、血走った瞳からは我欲が漏れている。そのあまりの気持ちの悪さに、身の毛がよだつ。
感情を刺激してくる厄介な場所だと、つくづく思いながら、魔女の動向を見守る。
「私が聞きたい事は一つだけだ。地下にあった死体の山は何だ」
顔をしかめ、話す事すら嫌そうに問うた魔女は。されど、屑は卑しい微笑みを強める。
「良い返事が聞けたのならば、答えてあげられるかもしれないね」
「そうか。お前に聞いた私が馬鹿だったようだ」
刹那。
屑王子は、後方の壁へと弾き飛ばされ、壁との一体化を果たしていた。恐らく、魔法と呼ばれる超常現象の類いを行使した結果であろう。魔女と敵対する事になれば、彼と同じ結末を辿る。容易に想像できるその様に、彼の護衛はまともに動けないようであった。
「態度が大きいところは変わっていないね。とても、魅力的だ」
壁から這い出て来ようとしながら、笑みを崩さず魔女を見つめる屑に。間髪を容れずに、魔女は再度、屑を壁画として造形してみせる。
「はは、酷いなぁ。せっかく気が変わって、教えて上げようとしているのにさぁ」
「ならば、私の気が変わらない内に弁明した方がいい。もう手加減は出来ないからな」
「そうさせてもらおうかな。まず前提条件として、死んでもらいますか」
悪意以てして瞳を見開き、より一層の悪意を以てして歪ませた表情は、絶世に程近い。かといって彼が何かしらの行動を起こす訳でもなく、手をこまねいていた護衛達が、見るからに簡素な造りの杖を掲げ、呪詛を唱えるが如く何かを呟く。
屑が攻撃命令を出してから数秒。何とも遅ればせながら、魔法が飛んでくる。火球の形を為したそれは、速度自体はそれなりである為、不意打ちならば脅威だろう。しかし如何せん、火球を飛ばしてくるまでの時間が長い。お座なりな思考回路でさえ、対処法の一つや二つは思い付く。
私でさえ、危害を加えてくると理解し、遮蔽物となりうる物体の位置を把握。その後、魔女に避けてもいいのかと確認を取る程度には時間があった。結果、魔女がそこを動くなと命じた為に、私は退屈ながら彼らを見守ったのだが。
どうやら魔女は、魔法を魔法で返したらしく。魔女の眼前でそれは霧散し、残滓が流れる。
「仮にも大魔女を名乗る私に対して、その程度の練度で死ねとはな。いくら囮だとしても、この冗談は笑えないな」
彼らのような冗長な詠唱の素振りすら見せずして、同程度の火球を周囲にいくつも出現させ、自在に操る魔女は。背後の気配に対しても、魔法を飛ばしてみせる。
くぐもった呻き声が、姿を現した暗殺者から漏れ出た。気配を隠し切れていない、杜撰にも限度がある彼らに非があるとは言え、こうして魔女の実力を目の当たりにすると、差は歴然としたものであると把握する。
「王国に媚び諂った売国奴共に、負けてやる道理はない。下らない茶番劇に付き合う程、私は優しくはないぞ」
「まさかここまで使えない存在だったとは、予想外としか言いようがない。本当に、魔法という技術以外、救いようがないな。これでは、実験体として扱われるのも納得だろう?」
「────屑が」
これで三度目。よく何度も壁に叩き付けられて、平気でいるものだと感心する程に、彼の表情は揺るがない。
「……魔法使いも魔女も、使えない者が多い。目を見張るのはその技術だけ。ならばその技術を奪ってしまえば、奴らは用済みだ。心置き無く根絶やしにでき────」
轟音。それが、妙に人気がない城を揺らす。
「研究者共の言葉だ。全く以てその通りだったと言わざるを得ないな。現に、ここにいる魔法使い連中は、使い捨ての駒に過ぎない。既に魔法は技術として確立し、魔法使いや魔女が居なくとも魔装備の生産は実現している。もう、用済みだろう?」
「どうやら、本当に死にたいらしいな」
「どうせ死ぬさ。時間ももうそんな残っていない。それを理解したからこそ、ここに来たのだろう?」
「違うな。知ったからここに来た訳ではない。本来であれば、お前が私に掛けた懸賞金を受け取りに来た訳だが、そんな時間は無かったようだったからな」
「それはお気の毒に。支払うだけの財産は、もう何もないというのに」
口は達者に動くにも関わらず、いよいよ身体が言う事を聞かなくなったらしい屑を置いて。魔女は険しい顔付きを見せながら。
「……行くぞ。もうここに用はない」
私達は、王国から脱出した。