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真に淀むは私達だった。  作者: あすたると
-章 悪意の起源
1/23

-話

 本来な意味は図々しく、恥知らずな様の事である。だが私は、自身がそれをされたら嫌だと思う事を平気な顔をして他人にそれを押し付ける、そんな人としての在り方とは正反対の性格をした、人在らざる者の敬称(・・)として用いている。


 『厚顔無恥』。


 私はこの言葉が当てはまる、『人』が憎い。自分が絶対だと、無意識にも勘違いを起こしている、『人』が。


 唯一、彼等がもたらす限定的な利点。それは心の優しさだというのに。この世の中には自身とは異なる存在を慮る事も満足にできない、欠陥品が多すぎること。厚顔無恥があまりにも多い。


 それに加え、厚顔無恥よりも輪に掛けて多い存在がある。


 『他力本願』。


 本来の意味は、他力は阿弥陀如来の力を現す言葉であり、本願は一切の人達を仏に成らしめようとする願いの事。つまり、阿弥陀の本願である『人』を救おうとして立てた願いに縋って成仏する事を意味する。


 近年では他人任せという意で扱われる事も多く、むしろこちらの方が広く知られているだろう。自身は楽をして、他に苦を押し付ける、私もそのような意で扱う。そしてまた、この存在も思慮の欠片もない欠陥品。


 現世にはろくな存在が居ない。それは少なくとも中学時代から勘付いていた事柄ではあるが、社会というものを目の前にしてようやく、現実自体がろくな存在ではないと理解した。


 そして元凶は全て、『人』であり、『心』。


 人が持つ心、などという善として使われる筈のそれが、悪となってこの世界を歪める。未だに戦争など、下らない私利私欲の為の争いをやっている事からもよく窺える。


 だから私は彼ら『人』達を、決して人間とは呼ばない。人間とは人とは違い、心を持たない生き物だと私は定義するからこそ。


 どうか心の使い方を誤らないでほしい。


 どうか心が囁く悪意から逃げ仰せてほしい。


 それも出来ずに、あまつさえ他の心の機微も察せないようならば、そんな無価値な心なんて消えてしまえ。


 だが、現実は『心』を持つ者ばかりであり、それが絶対。とても恐ろしい世界だ。


 故に私は『人間』になりたい。


 『心』を持っているからこそ、不満を垂らし、現世を嫌う。私は未だに『人』なのだと痛感させられる。ならばいっそ、何も感じる事のない『人間』になりたいと思う事のどこがおかしいのだろうか。


 人間に蔓延る『心』などという、人間を人へと成り下がらせる諸悪の権現。大した価値もないその存在をかなぐり捨てたい。その私に残る『人』としての願いの先が、例え無惨なものだとしても。


 何も感じる事もないだろう。


 故に、自らが置かれるであろう境遇に一切の感情は入らない。


 『人』にあいつが居なくなって楽になったと喜ばれようとも。


 『人』にあいつは馬鹿な真似をしたと哀しみ、怒られようとも。


 だからこの状況は『人』として、『人』を捨てる良い機会だった。存在意義である善意の心を行動に移した末路。『人間』になりたいと願った『人』が取った、『人』としての最後の行動。


 この時ばかりは、『人』の『心』に宿る善意を尊敬した。

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