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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
同棲編
89/115

ふたりの間の距離

 公園の中には、僕らの他に誰もいなかった。

 だからといって静かだというわけでもない。公園前の大通りにはひっきりなしに車が走っていたし、信号機の奏でる鳥の鳴き声も遠くのほうから響いている。周囲に植えられた木々を見上げればそれよりも高いビルが目につき、ここがビル街の真ん中にあるんだってことを再認識させられる。

 ただ、それがおいしいお昼ごはんに差しさわりあるなんてこともない。

 僕らは選び放題のベンチから一番奥まったところに置かれたやつを選び、ふたり並んで腰かけた。


「二種類買ってきたの、好きなほう選んで」

 みゆがそう言って、お弁当の蓋を開ける。

 ひとつは彼女が先日画像を送ってくれたコロッケ弁当だ。今日のもこんがりきつね色に揚がっていたし、添えられた真っ白なポテトサラダもおいしそうだった。ご飯に海苔が敷き詰められているのもいい。

 もうひとつは定番の唐揚げ弁当だ。こちらもいい色をしていたし、付け合わせがきんぴらごぼうなのもちょっと気になった。

 でも僕が選んだのは、やっぱりコロッケ弁当のほうだ。この間見せてもらって以来、こいつの味が気になってしょうがなかった。

「そっちでいいの?」

「みゆが前に食べてたから、どうしても食べてみたくて」

 彼女の問いにうなづくと、みゆは少しうれしそうな顔をする。

「あの写真、おいしく撮れたなって思ってたの」

「本当においしそうだったよ」

「職場の人にコツを聞いたんだ、接写で撮るのがいいんだって。あと角度が大事だって……」

 お弁当屋さんでは大切な商品の写真を撮ることも少なくないだろうし、それが販促の決め手になることだってあるはずだ。そういう話を職場でする彼女が、ますます立派な社会人に見えてきて眩しくなる。

 興味がないわけじゃなかった。むしろ興味はあった。みゆは職場ではどんなふうに働いているんだろうって想像してみたこともある。

 でも、今日までずっと確かめずにきた。

 今日は勢いでここまで来た。正直、ちょっとどきどきしている。

「じゃあ食べようか、冷めちゃわないうちに」

 職場の制服姿のみゆは至って自然体だ。僕に割りばしと、ペットボトルのほうじ茶を手渡してくれた。

「いただきまーす」

「……いただきます」

 ふたりで手を合わせる。

 彼女の隣に座ったのも、どこか久しぶりのような気がする。


 コロッケ弁当は画像から想像したとおりにおいしかった。

 冷めても衣がサクサクしていたし、ちょっとスパイシーに味付けしてあるおかげでご飯がよく進む。ソースをかけてもかけなくてもおいしいというところがまたいい。ポテトサラダはニンジンや枝豆など具だくさんで見た目以上に食べ応えがあり、これはこれでご飯に合った。

 みゆが唐揚げを一個分けてくれたから、僕もコロッケを箸で切り分けてトレードした。唐揚げのほうもしっかりめの味付けで、こちらもおいしかった。次食べるなら唐揚げ弁当にしようかな。

 外は相変わらず交通量が多かったものの、公園の中は木々や芝生から漂う緑の匂いしかしなかった。見上げればビルのてっぺん越しに抜けるような青空があり、降り注ぐ陽射しで辺りはぽかぽかと暖かい。

 絶好のピクニック日和だった。


 僕らは十五分ほどで昼食を終え、まだ冷たいほうじ茶を飲んで一息つく。

「ごちそうさま、すごくおいしかったよ」

 そう告げると、みゆは自分の手料理を褒められたように顔をほころばせた。

「ありがとう。みんなにも伝えておくね」

 その後で少しだけ言いにくそうに続ける。

「篤史くんが来てること、みんなも知ってるの。説明して抜けてきたから」

「説明って?」

「ええと……か、彼氏が来てるって……」

 もう付き合い始めて二年以上経ってるし、今では同棲もしてるというのに、彼女はその単語を口にするまでずいぶんと苦労していた。もっとすらっと言えばいいのに。

 でも彼女の職場の人たちとは僕も一度だけ会ったことがあって――居酒屋で偶然会って挨拶をしたというだけだけど、その時みゆが冷やかされていたのも見ていたから、ちょっとわかるなと思う部分もある。きっとこの後お店に戻ってからも、彼氏とどうだったのなんて聞かれたり、不用意に赤くなったところを大いにからかわれたりするんだろうな。

「急に誘ってごめん。完全に思いつきでさ」

 僕の言葉に、みゆは素早くかぶりを振った。

「ううん、うれしかったよ」

「一度は見てみないとって思ってたから、みゆが働いてるとこ」

「見て面白いところではないかも。普通の事務だしね」

 彼女はそう言って笑うけど、僕はまだ『普通の事務』さえ経験がない。コンビニバイトで伝票を扱うことはあるものの、今はまだ習ったことを忠実にこなしているだけ、という具合だ。

 社会に出るってどういうことなのか、まだ完全に理解してるわけじゃない。

「本当はさ」

 僕は、春風に吹かれる彼女の前髪を見ながら告げた。

「なかなか来れなかったんだ、みゆの職場」

 みゆは、黙ってじっと僕を見る。

 気づいていなかったのか、何も知らないという顔をしていた。

「当たり前のことだけど、僕はまだ学生だから。焦りがあったんだ、みゆに置いてかれてるなって」

「そんなことないよ」

 彼女はとっさに口を挟んできた。

 そして僕のほうに身を乗り出し、真面目な顔で熱心に説いてくる。

「そんなふうに思うことないよ。篤史くんが進学したのも、私が就職したのも自分で決めたことだもん……私は、篤史くんは勉強もバイトも、今はおうちの家事までがんばってて本当にすごいな、尊敬しちゃうなって思うし……」

「あ、ありがとう」

 思わぬ形でたくさん褒められて、なんだか照れてしまった。

 でも、そういうことなんだろうな。他人から見れば『がんばっててすごい』ことが、自分ではなんでもないように思えてしまう。そして他の人のすごさばかり目について、つい自分と比較してしまう。

 彼女の言うとおり、僕がまだ学生なのは、そういう進路を僕自身が選んだからだ。

「高校時代はずっと隣にいたからかもな。離れてみたら、つい自分とみゆを比べたくなって、そしてひとりで勝手に焦ってた。普段はあんまり考えないようにしてたけど……」

 ベンチで隣り合って座る、僕らの間には拳一つ分の距離がある。

 どちらからともなく手をつないだら、その距離さえもがゼロになった。

「でも、今日、見に来てよかった」

 僕は思う。

 温かくて柔らかい手を握り締めながら、心から思う。

「いざ来てみたらどうってことなかったよ。ちょっとどきどきしたけど」

 どうってことなかった。

 ここにいたのは普段よりも大人っぽく見えて、でもいつもと変わりない彼女だったから。

「それはたぶん、みゆの制服姿がかわいかったからだし」

 僕がそう続けると、

「えっ」

 みゆは飛び上がらんばかりに驚いて、あたふたとうつむいた。

「そ、そんなことないよ。だってこの制服、ロゴ入りだもん」

「ロゴ入りでもみゆが着るとかわいいよ」

 遠目に見れば水玉模様みたいだったし、タイトなジャンパースカートもよく似合ってる。見慣れない彼女の姿が新鮮で、どきどきした。そういう気持ちは僕の中にあったわだかまりさえ吹き飛ばしてしまったみたいだ。

「そうかな……でも、篤史くんが言ってくれるなら……」

 みゆは頬を真っ赤にしながら、僕の手をぎゅうっと強く握り返してくる。

 それから、おそるおそる僕を見上げてきたかと思うと、ぎこちないはにかみ笑いを浮かべた。

「今日、来てくれてありがとう。ちょっとの時間だったけど、会えてうれしかったな……」

 僕にとってひとつだけ残念な事柄があるとすれば、彼女を職場に帰してあげなくてはいけないこと、このまま連れ帰れないということだ。

 まあ、僕も授業があるんだけど――五限まで時間はまだたっぷりあるし、今度こそ図書館にこもって学生の本分を全うするかな。


 公園を出た後、僕は職場に戻るみゆを送っていくことにした。

 ネットの地図でしか見たことがなかった彼女の店は、それでも見た通りの外観をしていた。彼女はお弁当のポスターがべたべた貼られた正面入り口ではなく、裏口から事務所に戻るそうだ。

「また後でね、篤史くん」

「わかった。僕は今日五限までだから」

「じゃあ私がごはん作るね。終わったら連絡して」

 制服姿のみゆが手を振ってくれる。

 僕が振り返すと、彼女はとびきりにこにこしながら裏口のドアを開け、最後にもう一度手を振ってから建物の中に消えた。

 目に焼きつけたその笑顔を思い出しつつ、僕も彼女の職場に背を向け、駅までの道を辿りはじめる。


 いつかまた、こうしてお昼を食べられたらいいな。

 僕はもしかしたらこの辺りのオフィス街で働くことになるかもしれないし――そうなったら一緒にいられる機会も増えるだろうか。そんな理由で勤め先を決めるのは不純だろうけど、理由のひとつにするなら問題はないはずだ。選択肢が複数あったら、最後に選び取る決め手になりえるのは間違いない。

 その時は僕も、みゆに褒めてもらえるような、『かっこいい』って言ってもらえるような社会人になりたい。

 まだ先の、でも確実に訪れる未来のことを、僕は昨日までよりも明るい気持ちで考えていた。

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