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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
卒業後の話
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佐藤さんと理想の僕

 昔、学校で作文の宿題が出た。

 テーマは『十年後の自分』だった。


 優秀作品は校内代表として市の教育委員会が編集する文集に掲載されるそうで、東高校では定期的にこの文集への参加をほぼ強制的に生徒達へ課していた。かつて三年C組一同はぶつぶつ文句を言いながらもその宿題に取り組み、そして選考を経て校内代表の権利を手にしたのが、他でもない僕だった。

 しかし代表として選出されたからといって何の得があるわけでもなかった。原稿料は出ないし、肝心の文集だって自分で購入しないと貰えない。ただ誉められて校内で表彰されて文集に載せてもらうだけだ。高校生にとって決して手頃ではないその文集を、僕は結局購入しなかった。自分で書いた作文が載っているからといって手元に置いときたいわけでもないし、どうせ買っても読まないだろうと思ったからだ。あと数ヶ月もすれば作文が選ばれたことすら忘れるんじゃないかとさえ考えていた。

 そしてその予感は当たっていた。高校を卒業する頃には作文のことも文集のことも忘れてしまっていて、卒業後も一切思い出すことはなかった。

 佐藤さんがその文集を、僕とのデートに持ってくるまでは。


「昨夜ふと思い出して、そういえば山口くんの作文載ってたなあって」

 と、佐藤さんは持参した紙袋から件の文集を取り出した。

 分厚い文集は見るからに安っぽい作りで、つるつるした薄い表紙は手で触れるとくっついてきそうだった。佐藤さんはその文集にピンクのリボンがついた栞を挟んでいて、そこを開くと確かに僕の名前が載っていた。

「山口くん、見たら喜ぶんじゃないかって思って持ってきたの。どうかな?」

 コーヒースタンドのカウンター席で、佐藤さんが文集を差し出してくる。

 僕はホットコーヒーを飲みながら、それを受け取るべきか否か少し悩んでいた。

 せっかく忘れていたのに、何だって佐藤さんはそんなものを掘り起こしてきたんだろう。誰が昔書いた自分の作文なんて読みたい気分になるものか。まして『十年後の自分』なんてテーマじゃ書けるものはたかが知れている。僕が小手先で書いた口当たりのいい言葉だらけの作文が、佐藤さんが手にした文集の中には載っているわけだ。

「佐藤さん、その文集買ってたんだね」

 僕が尋ねると、佐藤さんはにっこり笑って頷いた。

「うん。山口くんは買ってないんでしょ? だから持ってきたんだ」

「え、買わないって言ったことあったっけ?」

「誰かは忘れたけど、誰かと話してるの聞いたよ。ほら、あの時は隣の席だったから」

 そういえば作文を書いた当時は三年生に進級したてで、僕と佐藤さんは隣同士の席だった。

 懐かしいな。あの頃は佐藤さんのことが無性に気になっていて、でもその気持ちを認められなかった。佐藤さんのことばかり見ていたくせに、佐藤さんのちょっとした言動でいらいらして、でもその苛立ちの理由がわからなかった。

 作文の宿題が出たのは、そんな気持ちを持て余し始めていた時だった。

「でも佐藤さん、なんでその文集買ったの?」

 載った本人ですら買わなかったような代物をどうして縁もゆかりもない佐藤さんが購入したんだろう。文集が発行される度にホームルームで申込用紙が配布されていたけど、あれを申し込んでいる奴を見たことがなかった。ここにいたけど。

 僕の疑問に、佐藤さんはむしろ怪訝そうに答える。

「私、毎号買ってたよ」

「ますます謎すぎるよ、あんなもん買ってどうすんの?」

「だって、知ってる子の作品が載ったりするでしょ。本になったところを読んでみたくて」

 佐藤さんの答えは屈託がなかった。手にした文集を、栞を挟んだままぱらぱらとめくりながら、

「この号だって山口くんが載るって言うから買ったんだよ。同じクラスの子が掲載されるなんて、すごいなって思ったから」

 別にすごくない。校内では必ず何人か選ばれる仕組みだったし、たまたま僕の作文がいい具合に取り繕われていて教師好みだったというだけだろう。載ったところで何のいいことがあったわけでもなし。

「読み返してみたら山口くんの作文、本当に素敵だったよ」

 佐藤さんは柔らかく微笑むと、僕に文集を差し出した。

 僕は断るに断れず、渋々それを受け取る。文集は結構な厚みがあって、手にするとずしりと重かった。佐藤さんもせっかくのデートにこんなかさばる物を持ってこなくても。

 栞のお蔭で、僕の作文のページをすぐに開くことができた。とは言えそこに並んでいる文章を読み返す気には到底なれない。あの頃の僕は自分で言うのも何だけど、実に可愛げのない、嫌味な優等生を気取っていた。どういうものを書けば教師を始めとする大人達が喜ぶかをわかっていて、その通りのものをきれいな言葉ばかり並べて書いたにすぎなかった。心なんて一切こもっていないその作文は予想通り校内で高い評価を受け、僕は校内代表に選出された。

 今の僕は、そんな昔の所業を恥じるくらいには大人になった。あの時期の僕がいかに未熟でひねくれもので生意気だったか、わかってはいるけど直視する勇気がまだ持てない。

「……ね? すごくいい作文だと思うな」

 文集に目を通すふりをする僕を、佐藤さんはにこにこしながら見つめてくる。あの頃と何にも変わってない、きれいな目だった。

 それで僕も何となく誤魔化す気が失せ、高校時代の僕と向き合う気になった。


 作文のテーマは『十年後の自分』だった。

 僕は困っている人がいたら進んで手を差し伸べ、弱っている人には寄り添い支えられるような、そんな大人になりたいと綴っている。社会では責任を果たし、友人を大切にし、日本の未来の担い手として胸を張って生きていきたいと――穴があったら入りたい気分になってきたのでこの辺りで読むのをやめてしまった。全くきれいごとばかりの作文だった。

 こんなものはただの理想論だ。誰もが一度は考えるだろうし、だけど実現する難しさを知る。貫き通して生きることは簡単じゃない。僕だってそうだ。

 まさに言うは易しを体現したその作文は、教師受けだけはいいようだった。


 それと、佐藤さんにも受けた。

「山口くんは高校生の頃からしっかりしてたよね」

 作文を読むのを途中で止めた僕に、嬉々として語りかけてくる。

「改めて作文読ませてもらったら、すごく山口くんらしい未来像だなって思ったよ」

 僕らしい、と佐藤さんは言う。だけど彼女の言う僕らしさって一体なんだろう。きれいごとばかり並べたてることか、人の顔色ばかり窺っていることか。

 もちろん佐藤さんが皮肉の意味で僕を誉めてくるはずもない。だから僕は一層後ろめたくなり、文集を閉じて彼女に返した。

「そんなことないよ」

 そしてかぶりを振った。

「この作文、僕は本心からこんな立派な内容を書いたわけじゃないんだ」

「……そうなの?」

「うん。なるべくいいこと書いて、誉められたいって思いながら書いた」

 文集に載りたかったわけではないけど、大学受験も控えていたし、教師の心証をよくしておきたい気持ちはあった。全く打算的だ。

「だから誉めてくれるのは嬉しいけど、あの頃の僕はこんな理想を持ってたわけじゃないよ。自分でも格好つけすぎてて、読み返すの恥ずかしいくらいだ」

 こういう本心を正直に言えるようになっただけでも、僕は変わったんだろう。

 佐藤さんが相手だから、というのもあるけど。

「でも……」

 僕をじっと見つめながら、佐藤さんは気遣うように小首を傾げた。

「こういう作文って、全く心にもないことは書けないんじゃないかな」

「いや、心にもないことばかりだよ」

 佐藤さんがあまりにも純粋なことを言うので、僕は危うく吹き出しそうになる。

 だけど彼女は笑わなかった。

「私は、この作文に書かれた未来の山口くんって、今の山口くんと似てると思うな」

「そうかな、かけらも似てないと思うけど」

 僕が否定しようとするのを制するように、佐藤さんは閉じた文集の上にそっと自分の手を置いた。

「山口くんの中にはいるんだよ。この作文に書かれた、理想の自分が」

「僕の中に?」

「前に、山口くんが教えてくれたよね。私が感想文で詰まってた時に……私の気持ちは同情じゃなく、共感だって」

 きれいな目が僕を捉えて、真面目に、真摯に語りかけてくる。

「山口くんも自分の中にいる理想の山口くんに共感したからこそ、それを十年後の自分として作文に書いたんじゃないかな」

 佐藤さんの言葉は不思議だ。彼女に言われると、ありえないことでも少し『そうかもしれない』なんて考えてしまう。二十年近く引きずってきたひねくれものの僕の性格さえこうして揺るがしてしまう。

 僕の作文が小手先で書いた理想論であるのは事実だ。それはあの頃の僕を省みればわかることだ。

 でも作文の中にいる僕は、確かに僕の理想だった。

 なれっこないけど、こんな奴そうそういないだろうけど、もしこんな奴がいたら、こんなふうになれたら――それは今、僕を見つめて真摯な言葉をくれる佐藤さんに恥じない僕であることだろう。

 そう思うと、あの作文から目を背けてもいられない気がした。

「こんなふうになれたらいいけどね」

 僕が笑うと、佐藤さんはやっぱり笑わずに言った。

「なれるよ。もうなりかけてるんだよ、山口くんは」

「さすがにそれは過大評価じゃない?」

「ううん、山口くんは私に手を差し伸べてくれたもん」

 彼女はいつになく自信ありげに言い切る。

 僕が佐藤さんに何度となく声をかけ、気にしたり時に手を貸したりしたのは、好きだったからだ。身も蓋もない言い方をすれば下心からだ。そういう人間は、作文の中にいる『十年後の自分』とはまだまだ程遠い。

 でも、

「佐藤さんに言われると、何だか本当にできそうな気がする」

 ふと湧き起こった気持ちを、僕は彼女に打ち明けた。

 昔からそうだった。僕ならできるって、昔も佐藤さんが言ってくれたことだ。

「できるよ、山口くんなら」

 佐藤さんが僕にかけてくれる言葉はいつでも前向きで、優しかった。取り繕うことも飾ることもない佐藤さんの言葉は、僕にとっては何よりも信じられるものだった。

 忘れてしまいたくなるような高校時代の汚点の一つが、佐藤さんのお蔭で思い出の一つに変わってしまった。

 いつかまた思い出すだろう。この作文に書いたことを、今度はもっと前向きな気持ちで思い出して、今度こそ『こうありたい』と思うことだろう。

 僕を元気づけてくれる、佐藤さんに恥じない僕でありたい。

「ありがとう、佐藤さん。恥ずかしいのが薄れたよ」

 僕が素直に感謝を告げると、佐藤さんは照れたようだ。少し俯いてはにかみながら頷いた。

「うん、どういたしまして」

 今度は佐藤さんの方が恥ずかしそうで、その姿がすごく可愛かった。

 それからふと、作文はC組の全員が書いてたんだってことを思い出して、

「そういえばさ、佐藤さんは作文、なんて書いたの?」

 尋ねてみたところ、佐藤さんは急に慌て始めた。

「えっ、わ、私? 私はなんて言うか、全然大したこと書いてないんだけど……」

「是非聞きたいな。僕のは読まれてるんだし、お互い様だろ」

 ちょっと脅かすように言ってみる。

 すると佐藤さんは渋々と言った様子で口を開いた。

「『人に迷惑をかけない大人になりたい』って書いたかな……何か、志低いよね」

 まあ、そうかもしれない。大事なことでもあるけど、あの頃の佐藤さんが言いそうな言葉でもある。

 僕が複雑な気分になった時だった。

「でも、今の私なら、きっと違うふうに書くと思うな」

 文集を丁寧に、大事そうにしまいながら、佐藤さんが続けた。

「どんなふうに?」

「……『山口くんの隣に、胸を張って立てる私でありたい』って書くよ」

 そう言うと彼女は顔を上げ、隣に座る僕に向かって、ちょっとだけ誇らしげに微笑んだ。


 どうやら僕達は結構似たようなことを考えているみたいだ。

 あの頃書いた十年後が本当にやってきた時、もしかしたら僕達は、『似た者夫婦』なんて呼ばれてるかもしれないな。

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