僕の彼女は佐藤さん(1)
「山口くん、服を買いたいんだけど……付き合ってくれないかな?」
長い夏休みの中盤戦、僕はそんな誘い文句で佐藤さんに呼び出された。
夏休みの最中と言っても、学生の僕とは違って社会人の彼女に夏休みはない。せいぜい三、四日程度のお盆休みがあるくらいだと聞いている。おかげで僕は八月の時点で既にこの夏を持て余し始めていた。
そんな中での彼女の誘いとあって、一も二もなく了承した。
日曜日に駅前で待ち合わせをして、真夏日の炎天下を並んで歩く。店までの道すがら僕は尋ねた。
「佐藤さん、どんな服を買うの?」
すると佐藤さんは困ったように笑い、
「それがね、どういうのがいいかわからなくて。山口くんに選んでもらえないかなって」
もじもじしながらそう言ってきた。
「いいけど」
僕は恥ずかしそうな彼女を横目に見ながら応じる。
けど、っていうのは愛想がないかなと思って、後から言い直したものの。
「でも僕のセンスだと佐藤さんの趣味じゃないかもしれないよ」
「ううん、それでいいの。だって私、あんまり趣味いい方じゃないし……」
佐藤さんはますます恥じ入りつつ、今日着てきた服を見下ろすように視線を落とす。
彼女の服装の趣味は、悪いというほどではない。若干垢抜けないだけでどちらかというと無難な方だ。もう無難のお手本みたいに地味な無難さだ。
ただ高校時代こそ『垢抜けない』で済んだ彼女の服装も、今見るとちょっと――いやかなり子供っぽいように思えてならない。ちなみに本日の服装は紺色の英字プリントTシャツに薄い色合いのデニムスカート。男物と大差ないごついデザインのスニーカーを履いている。おまけに髪はいつもの一つ結びだ。十九歳の女の子に着せるにはあまりにも野暮ったいファッションだった。
まあ、自覚があるだけまだましか。僕は苦笑したいのをどうにか噛み殺してから告げた。
「じゃあ僕が選んであげるよ。すっごい可愛いやつを」
「ありがとう」
ほっとしたのか、佐藤さんが胸を撫で下ろす。
「山口くんに一度服を見立ててもらえないかって思ってたんだ。山口くん、いつも素敵な服を着てるから」
「そうかな……」
微妙な気分になって、僕は密かに息をつく。
そこは『いつも格好いいから』とかそういう言い方をして欲しいものだ。佐藤さんは相変わらず誉め方が下手だ。
「雑誌読んで研究してるからね。何の情報も仕入れずに服を選ぶなんて無理だよ」
気を取り直した僕が肩を竦めると、彼女は屈託なく笑った。
「へえ、そうなんだ! ファッションも勉強なんだね。私も勉強しようかな」
言う人が言えば嫌味になりそうな言葉も、佐藤さんが言うと素直に聞こえる。誉め方こそいつも下手だけど、佐藤さんの言葉は疑ったり、勘繰ったりする必要がないのがいい。そこが、好きなのかもしれない。
「じゃあ今日は山口くんが私の、ファッションの先生だね」
「僕が先生か。責任重大だな」
「うん。よろしくお願いします、先生」
ふざけて冗談を言う佐藤さんは、たとえ服が地味でも可愛いとは思う。
僕としても彼女がより可愛くなるのは喜ばしいことだし、バイト代が貯まったらデート用の服でもプレゼントしようか、なんて考えたこともあったくらいだ。でも失礼にならないよう切り出すのはいくら佐藤さんが相手でも難しいだろう、そう思っていたから今回の誘いは渡りに船というやつだった。
どうせなら、佐藤さんが見違えるような服を選んであげよう。
目当ての服屋の手前まで近づいた時だ。
不意に佐藤さんが、何かを見つけたように足を止めた。どうしたんだろうとその顔を見ると、びっくりして目を見開いた後でぱあっと笑った。
「あっ、ヒナちゃん!」
佐藤さんが呼んだ名前は、どこかで聞き覚えがあった。
そして呼ばれた相手はちょうど服屋の店先にいて、ショーウインドウに飾られた水着を着たマネキンを見ていた。呼びかけられた途端に振り向き、銀フレームの眼鏡の奥でぱっちりした目が微笑む。
「みゆきちゃん? わあ、久し振り」
その声も、その顔も、よく知っていた。
東高校時代、C組で一緒だった柄沢さんだ。柄沢雛子、だから仲のいい相手からは『ヒナ』と呼ばれていた。
ところで、佐藤さんを下の名前で呼ぶ人はあまりいなかった。僕ですらずっと呼んだことがない。佐藤みゆき、という名前だということはずっとクラスメイトだったから知っていた。でも名前を呼ぶ機会は今までなかったし、呼びたくなかったわけじゃないけど、何となく踏み切れずにいた。
しかし長らくほとんどの人に呼ばれてこなかった佐藤さんの名前は、高校卒業直前になって急にいろんな人から――C組女子皆から呼ばれるようになっていた。この辺りの経緯はよくわからないんだけど、C組女子の間には卒業直前のある時期、心を一つにするようなイベントがあったらしい。それで皆すっかり仲良くなってしまって、こんなふうに気安く名前を呼ばれるようにもなったようだ。僕ですら呼んだことないのに。
「山口くんも一緒なんだね。相変わらず仲いいね」
柄沢さんは僕を見て、冷やかすように微笑んだ。柄沢さんとは卒業式の日以来顔を合わせていなかったけど、随分大人っぽくなっていた。高校時代は髪を二つに結んで制服を気崩さずに着て、いつも文庫本を読んで図書室辺りにいるいかにも文学少女って感じの女の子だった。なのに今は長い髪を下ろして化粧もして、僕の大学にもいるような女子大生っぽくなってしまっている。袖がレースになった白いブラウスときれいな緑色の細いプリーツのスカートという服装がその大人っぽさに輪をかけていた。
女の子はしばらく会わないうちに変わっちゃうものだというけど、何だか実感してしまった。
まあ、高校を卒業しようと十九歳になろうとあんまり変わらない子もいるけど――僕が視線を向けたのを、佐藤さんは何か誤解したみたいだ。頬をちょっと赤くして、柄沢さんに向かって尋ねた。
「私達、ここに買い物に来たの。ヒナちゃんは? 一人なの?」
「ううん、待ち合わせ中なんだ。私達もこのお店で買い物する予定なの」
かぶりを振った柄沢さんは、その後でふと視線を遠くに馳せ、次の瞬間道の向こうへと手を振った。
「あっ、先輩! こっちです!」
その呼びかけに僕は思わず柄沢さんの視線の先を追ってしまったけど、すぐに後悔した。
炎熱に揺らめく駅前通りを、黒いシャツにチノパンという色味のない服装をした背の高い男が歩いてくる。逆光だったけどその姿には覚えがあった。ものすごく姿勢がよくて、ものすごく目つきの鋭い痩せぎすの男は、僕らの二年先輩だった。
「あの人が、鳴海先輩?」
佐藤さんがその先輩の名前を口にする。
多分、東高校に通っていた僕らと同年代の連中のうち、鳴海先輩のことを知らない人間はそういない。人を寄りつかせない風貌と、その見た目に違わない不穏な噂の持ち主だった。過去にあの村上先生と舌戦を繰り広げた挙句泣かせてしまったとか、身近なところだとC組の外崎や笹木が市内の図書館で出くわした時、思いっきり説教喰らって命からがら逃げ出したとか――とにかく妥協とか協調って言葉とは無縁で、いろんな人間と衝突しては理詰めで言い負かすような人。鳴海先輩の評判はそんなところだ。僕はこれまで直接の接点もなかったから、評判悪い人なんだな、って思う程度に留まっていたけど。
しかしながらその評判の悪い人が、どういうわけかこの柄沢さんの彼氏だったりするのだ。
「そうだよ。紹介するね」
柄沢さんは佐藤さんの問いに、すごく嬉しそうに答えた。
そして当の先輩は店の前で立ち話をする僕らに近づいてきた。柄沢さんの傍に見知らぬおまけがいるとでも思ったのだろう、こっちを見て、心なしか怪訝そうにした。
「雛子、友達か?」
鳴海先輩は、柄沢さんをそんなふうに呼ぶようだ。静かで低い声で問いかけると、柄沢さんが控えめに微笑む。
「そうです。高校時代のクラスメイトなんです」
それで鳴海先輩は僕と佐藤さんに目を向けた。とてもじゃないけど温かいとは言えない眼差しが僕らを捉え、とりあえず頭くらいは下げておくかと僕が会釈をしかけた時だ。
「佐藤みゆきと申します、初めまして!」
いきなり佐藤さんが、先輩に向かって自己紹介を始めた。にこにこと愛想よく、でも明らかに空気は読んでない調子で。
「ヒナちゃんには高校時代、すごくお世話になったんです。先輩のお話も伺ってました」
朗らかな口調でそう続けると、鳴海先輩はあからさまに面食らったようだ。戸惑い気味に眉を顰めた。そりゃそうだ、そんなこと初対面の相手に言われても、突っ込んで『伺ってたってどんな話?』って聞き返すくらいの広げ方しかないだろうし、鳴海先輩はそういうことは言わなさそうだ。佐藤さんの空気の読めなさは半端ない。
そこで僕は、お互いデートなんだしそろそろ……と彼女を制そうとした。
ところが空気の読めない佐藤さんはそのタイミングで僕の方をくるっと振り返り、
「あと、こっちが山口くん――山口篤史くんです。よろしくお願いします!」
なぜか僕の紹介まで済ませてしまったものだから僕はもう、マジで? 僕も? いや別に関わり合いにはなりたくないんだけど本当に挨拶しなきゃ駄目? とあたふたしながら仕方なく挨拶をした。
「あの、初めまして……。山口です」
「初めまして」
鳴海先輩はゆっくりと顎を引いた。
にこりともしない顔つきではあったけど、意外と穏やかに喋るんだな、とこの時は思った。
もちろんその一言だけでは判断の仕様もないし、内心では僕らのことなんて面倒くさがりながら相手しているのかもしれないけど。
その後は特に会話が長引くこともなく、柄沢さんはまたね、と僕らに手を振ってから、先輩と二人で先に店内へと入っていった。
背の高い鳴海先輩の姿が閉まる自動ドアに隔てられると、僕は思わず深く息をついた。
「はあ……。初めて話しちゃったよ、先輩と」
「うん、私も! ヒナちゃんの先輩、私は見たことなかったから」
佐藤さんが子供みたいに無邪気にはしゃぐ。
まさか佐藤さんはあの先輩の悪評を知らないわけじゃないよな。いや、佐藤さんのことだ。クラスメイトが囁き合う噂話なんて右から左に突き抜けて何にも聞こえてない可能性だってある。
「やっぱり大人な感じがしたね。二つも年上なんだもんね」
しかも佐藤さんは鳴海先輩に随分と好意的な印象を持ったようだ。
そんなことでちょっと面白くなくなる僕は、とりあえず佐藤さんの手を取って、引っ張りながら店の入り口を目指した。
「ほら、そろそろ服見に行こうよ。時間もったいないよ」
「あ、うん。そうだね」
佐藤さんは黙って、手を引かれるがまま冷房の効いた店の中までついてきた。




