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隣の席の佐藤さん  作者: 森崎緩
隣の席の佐藤さん
31/115

佐藤さんの待ち時間

 搭乗口に並ぶ行列が、ぞろぞろと動き始めた。ロビーに集まる人々の動きも慌しくなる。

 アナウンスの声が高い天井に響き、耳の中で震えるように聞こえてきた。


 だけど佐藤さんは動かない。

 じっとしたままで、一点を見つめ、その時を待ち続けている。ざわざわと騒がしいロビーの空気から離れ、隅の方で身動ぎもせずに立っていた。

 僕がここにいることに気づきもしない。こちらを向こうともせず、ひたすら待っていた。待ち続けていた。


 僕も待った。数メートル離れたところで、焦れる思いで待っていた。

 苦しかった。佐藤さんの精一杯の表情を見るのが。その表情がどんなものに変わっても、僕にとっては辛いことだろうと思った。

 今は待つより他にできることもない。だから待った。待ちながら考えていた。


 電話をもらい、打ち明け話を聞いたあの夜からずっと考えてきたことを。

 今日、電車に揺られながらも考え続けていたことを。

 まだ答えの出ていない気持ちへの、決断を。


 人が行き交う。目の前を擦れ違っていく。

 その隙間から僕は佐藤さんを見ている。

 目まぐるしく移り変わる空港の風景の中、佐藤さんだけがそこから動かない。絵の中の人物みたいにじっとしている。時を惜しむようにゆっくりと、瞬きを繰り返しているのがわかる。


 ふと、何度目かの場内アナウンスが聞こえた。

 佐藤さんが、その時少しだけ動いた。

 手の中の携帯電話に視線を落とす。表情は変わらない。確かめた後でまた顔を上げ、一点を見つめ始める。彼女はまだ待ち続けている。

 僕も時計を確かめた。午後六時になろうとしていた。

 意を決して、視線を上げる。佐藤さんへと留める。そして彼女の方に向かい、歩き出した。

 空港の床にスニーカーの靴音は硬く、冷たく響いた。そのくせ足元は柔らかく沈み込むように覚束ない。熱に浮かされた頭で歩み寄る先、佐藤さんはまだこちらを見ない。僕ではない、ある一点を見つめ続けている。

 距離を詰めた僕にもまだためらいがあった。


 だけど深く息を吸い込んで、止めて、数秒。

「佐藤さん」

 声を潜めてそっと呼びかけた。

 心の中で何度も何度も呼び続けていた名前を。


 佐藤さんがはっと肩を動かした。

 勢いよく振り返ると一つ結びの髪が揺れた。こちらを認め、すぐに大きく目を見開く。携帯電話を握る手に力が込められたのもわかった。

「山口くん、どうして」

 彼女はかすれた声をしていた。

「ごめん」

 僕の謝罪は白々しく響いた。佐藤さん同様、かすれた声をしていた。

「心配になって……来たんだ。ごめん、余計なことだってわかってるけど、どうしても」

 そう告げると、佐藤さんは泣きそうな顔になる。眉尻を下げ、きゅっと唇を噛み締め、俯いた。

 ややあってから震える言葉が返ってきた。

「ごめんね、山口くん。でも大丈夫。今、まだ、待ってるところだから」

「うん」

 僕も頷く。

 そうだろうと思っていた。佐藤さんは待つだろう。いくらでも待っていられるだろう。彼女はその点においてとても誠実な子だった。


 僕らはお互いに黙った。

 約束の時間は正確には何時だったのか、僕はあえて尋ねなかった。確かめても仕方がなかった。不安は現実になりつつある。

 佐藤さんは俯いたまま、待っていた。不安は僕以上にあるだろう、肩を震わせ、寒がるようにして待っている。手のひらに包まれた携帯電話は一向に鳴らない。

 僕はそんな佐藤さんを見つめていた。彼女がこっちを見ていなくても、見つめていた。

 手を伸ばせば届く距離にいる。いつだってそうだった。隣の席の佐藤さんは、毎日教室で、僕のすぐ近くにいた。だけど佐藤さんから見た僕は、遠いところにいる存在でしかない。こんなに近くにいるのに僕の方は見てくれない。

 俯き加減の前髪越しに、睫毛が動くのが見えた。いつものように色気のない一つ結びの髪。初めて見る、デニムのスカートと長袖のTシャツ。動かないスニーカー。震える細い肩。ぎゅっと握り締められた手と、携帯電話。

 何もかも手を伸ばせば届きそうなのに。


「佐藤さん」

 名前を再び呼んでみた。

 佐藤さんは答えない。

「どのくらい、待つつもり?」

 尋ねながら時計を見る。――午後六時をとうに過ぎていた。

 佐藤さんはやはり答えない。黙って、待ち続けている。


 飛行機の到着を告げるアナウンスが頭上から聞こえた。

 ロビーに集まる大勢の声は、ごちゃ混ぜになって耳鳴りのように響く。

 佐藤さんは顔を上げない。この飛行機ではないとわかっているからだろう。あるいはもっと他のことをもうわかっているのかもしれない。

 僕はじっと佐藤さんを見ている。僕には何もわからない。ただ以前よりも具体的になった不安と、不安が事実だとしても佐藤さんを振り向かせられないだろうという予感とで、胸がきりきりと痛かった。

 苦しむだろうことはわかっていたのに、わかりきっていたくせに、こうして佐藤さんに会いにきた。

 そして彼女の心を揺り動かそうと足掻いている。往生際悪く、酷いやり方で。


「佐藤さん」

 僕は彼女の名前を呼んだ。

「疲れてない?」

 彼女は無言で首を横に振る。

 疲れていると言うはずがなかった。好きな人の為にすることで疲れるわけがない。彼女は一途だ。だから、いくらでも待ち続ける。


 僕だってそうだ。もし佐藤さんの為にできることがあるなら、何だってしようとするだろう。それをすることで疲れてしまっても、投げ出したくなるようなことはないだろう。

 ただ僕は、彼女の為にできることを知らない。何が彼女の為になるのか、わからない。

 わかっているのは、僕なら彼女をこんなにも待たせないだろうということ。彼女をこんなに不安にさせないだろうということ。彼女がどう思うかはわからないけど、僕は、彼女を幸せにする為に最大限の努力ができるだろうということ。

 佐藤さんにこんな恋愛が似合うようには思えない。佐藤さんはもっと、明るいのが向いてる。気の利かないことを言って、後で気づいてはにかんでみせたり、面倒を引き起こして空回りしても後で笑い飛ばせたり、落ち込むようなことがあってもちゃんと立ち直ってみせるような、そんな恋愛が向いてる。不安に身を震わせて、うじうじと悩みあぐねるようなのは向いてない。似合わないんだ。


 ロビーに人が増えてきた。飛行機から降りてきた人達だろう。

 僕はまた時計を見る。

 午後六時四十分。窓の外では夕陽が、いつの間にか消えていた。

「佐藤さん」

 もう一度僕は名前を呼ぶ。

「まだ、待つ気?」

 少し残酷な言葉を、その後に添えた。

 たちまち弾かれたように佐藤さんが顔を上げた。涙が滲んできた目で、きつく僕を見た。

「待つ。待つよ。だって来るもん。来てくれるって約束したもん」

 かすれた声が答えるのを聞いて、僕は溜息をつく。

「でも、前の時だってそうだったんだろ」

 前にも佐藤さんはそいつに待たされていた。風邪を引いてうなされるくらい長い間、待たされていた。急用ができたからと連絡も寄越さなかったような奴のことを、どうしてそんなに待っていられるんだ。

 佐藤さんは強くかぶりを振る。

「でも今日は、こないだと違うもん。来てくれるよ。絶対来るって、私に言ってくれた!」

 彼女の声がざわめきの中で響いた。


 いくつかの視線を感じたけど、僕は佐藤さんから目を逸らさずにいた。

 今にも泣き出しそうな顔。

 いっぱい涙を溜めた瞳。

 震える肩。

 精一杯のところで踏み止まっている彼女は、今、何に支えられているんだろう。それでも一途でいられる想いか、単に人を疑わない純真さか、それとも意固地なまでの誠実さか。

 僕は純真でも誠実でもなかったけど、佐藤さんのことが好きだった。だから続けた。


「もう止めなよ。待つの」

 止めちゃえばいい。そんなのは。

「そんなに辛くなるまで待ってることなんてない」

「やだ!」

 佐藤さんは叫ぶ。

「待ってなくちゃ駄目なの、今度こそ会おうって言ってくれたの。約束したんだから! 私、会わなきゃ駄目なの。会ってみないと何も信じられないの!」

 ありったけの力を込めて、叫んでいる。

「不安だから。私を見ても、私と会ってもあの人に好きでいてもらえるか、すごくすごく不安だから、確かめたいの。あの人の言葉、信じたいの。絶対に会わなくちゃ駄目なの!」

 その叫びを聞きつつも、僕は手を伸ばした。


 彼女の震える肩にそっと触れ、次の瞬間、力を込めて強く抱き締める。

 もう片方の手は、ひとつ結びの髪の結び目に添えた。引き寄せる為に。


 佐藤さんは抗わなかった。

 僕が抱き締めたのも、ぐっと引き寄せたのも、それから耳元に唇を寄せた時も。

「止めなよ」

 酷い言葉を、僕は囁いた。

「そこまでしないと信じられないなら、止めちゃえばいい。そんなの、佐藤さんらしくない。佐藤さんには、似合わない」


 佐藤さんは身動ぎもせず、しばらく僕の腕の中にいた。

 そしてややあってから、泣き始めた。

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