イルカと優しい嘘
嘘をついてはいけないよ。嘘をつくと、悪い生き物に変えられてしまうんだ。
イルカは、両親にずっとそう言われて育ってきました。
悪い生き物が何なのか、こどもだったイルカにはわかりませんでしたが、成長するにつれて少しずつ理解しはじめました。
両親の言っている悪い生き物とは、きっと、人間のことだろうと。
人間は、海の生き物たちを捕まえて、怖いところに連れて行ってしまうということをイルカは知っていました。イルカ自身も、人間が動かす船にぶつかりそうになったり、大きな網に追いかけられたりと、怖い思いをしてきました。イルカですら人間にこんなに怖い思いを抱かされるなら、きっと人間の世界は怖いことばかりで、大変なんだろう、そう考えていました。
人間は、こんなふうに自由に海を泳ぐことができない、長く海に潜ることができない、という話を聞いたことがあります。
自由に海を泳げないなんて、どんなに恐ろしいことだろう。
イルカは思いました。
人間とは悪い生き物だ。きっと、嘘をついたら人間に変えられてしまう、と。
ある日、イルカは浅瀬でのんびりしていました。
イルカは広い海が好きでしたが、浅瀬でみる夕日がたたいそう大好きでした。なので、イルカは毎日といっていいほど浅瀬に来ていました。
「今日も夕日が綺麗だなぁ」
ちゃぷちゃぷと体に当たる水が気持ちよく、イルカはからだを伸ばします。この浅瀬にでは人間もサメも見たことがないので、イルカは安心しきっていました。
しかし、今日は状況が違いました。くつろぐイルカに、なんと声がかけられたのです。
「イルカさん、こんにちは」
びっくりしてイルカが振り返ると、そこには人間の女の子が立っていました。
「に、人間だ!」
イルカは逃げようと、大きく体を動かしました。
すると、
「待って!」
と、女の子は叫びました。
咄嗟に、イルカは体を硬直させました。
なぜ逃げなかったのか、自分でも不思議でしたが、そのときは恐怖よりも女の子の必死な声に心をうたれました。
「待ってイルカさん、お願いよ。あなたとお話したいの」
イルカは女の子に目を向けました。
金色に輝く長い髪を持つ、細い女の子です。網ももっておらず、周りにはほかに人間もいなかったため、イルカはこの女の子は自分に害を与えないと判断しました。
恐る恐る、女の子に近づいて話しかけました。
「僕に、なにか用かい?」
女の子の表情がぱっと明るくなり、可愛らしいブルーの瞳が輝きました。
「私、ずっとイルカさんとお喋りしたかったの!よかったら、海のことを教えて頂戴」
「どうして?人間は、泳げないんだろう?海のことなんて、話したって分かりはしないよ」
イルカは不思議そうに言います。
「いいえ、私は昔、海を泳いでいたのよ」
女の子はやわらかい笑顔でそう言いました。
イルカの頭に、ぱっとある考えが浮かびました。イルカは急いで女の子に尋ねます。
「君はもしかして、イルカだったのかい?」
女の子は一瞬、きょとんとした顔をしましたが、すぐにまた笑顔を見せました。
「ええ、そうかもしれないわ。私はイルカだったのよ」
イルカはとても驚きました。
この女の子は前はイルカだった、きっと、何か嘘をついてしまって人間になったのだろう。やっぱり、嘘をつくと人間になってしまうんだ。
「ねぇ、人間の世界は怖い?」
イルカは尋ねます。
「怖いわよ。わたしは毎日、あの白い建物に閉じ込められているの。そこでは苦いものを飲まされたり、針でさされたりするのよ」
女の子が指差す先を見ると、この浅瀬から離れたところに大きな白い建物がありました。
イルカは体を震わせました。
人間は怖い生き物だ。この女の子はイルカだったから怖くないだけで、他の人間は悪いやつらなんだ。
この女の子はどんな嘘をついたんだろう。嘘をついたら、悪い生き物である人間に変わってしまうのに、それを知った上で、なぜ嘘をついたんだろう。
イルカは、女の子にどんな嘘をついたのか聞こうとしましたが、なんだかそれは聞いてはいけないような気もしました。
「わたし、もう帰らなきゃいけないの。また明日も会ってくれる?」
「もちろんさ。明日も僕は夕日を見に来るよ。また明日会おうね」
イルカは女の子がかわいそうだと思いました。
きっとまた、海で泳ぎたいに違いない。でも人間だからもう泳げない。僕が海のことをたくさん話してあげよう。
女の子の真っ白な服が夕日でオレンジ色に染まるのを見ながら、イルカは先程の約束を思い返していました。
それから、イルカと女の子は毎日会いました。
女の子は海に詳しく、きらきらしたたくさんの色の魚のこと、宝石みたいな珊瑚のこと、海の中から空をみあげると宇宙が見えること、水の冷たさ、塩のしょっぱさ、たくさんのことを話しました。
そういった話をするたびに、イルカは、この女の子はかつて仲間だったことを確信していくのでした。
「ねえ、イルカさん」
「なあに?」
「わたしね、また海を泳ぎたいわ」
女の子とイルカは、もう何度もこの言葉のやりとりをしました。
その度にイルカは、女の子がついた嘘について考えるのでした。
ある日、いつものようにイルカが浅瀬へ向かうと、女の子はいませんでした。イルカは夕陽を見ながらしばらく待ちましたが、夕陽が見えなくなって空が黒色になっても、女の子は来ませんでした。
それから長い間、女の子が浅瀬にくることはありませんでした。
イルカは来る日も来る日も待ちました。
ひとりで夕陽を見るのが30回を越えたとき、女の子はやっと現れました。
「イルカさん、何も言わずにしばらく来れなくてごめんなさい。怒っているかしら?」
「怒ってはいないよ。でも寂しかったなぁ」
イルカは今まで嘘をついたことがないので、正直に答えました。
ふふふ、と女の子は小さく笑いました。女の子は前より肌が白くなっており、手足もとても細くなったように見えます。
女の子はそっと、呟くようにいいました。
「イルカさん、わたし、もうここには来られないわ」
「どうしてだい?」
「わたし、あの白い建物にずっといなきゃいけないの。手術っていってね、悪いところを治すことをしなきゃいけない。でも、手術は失敗するかもしれない。失敗したら、わたし、もうあなたに会えないわ」
女の子は真珠のような涙を浮かべています。
イルカには女の子のいった言葉の意味がよくわかりませんでしたが、つらい気持ちになりました。もう二度と女の子に会えないのかと思うと、とても苦しくなります。
もっとずっと一緒にいたい。イルカの頭の中は、そのことでいっぱいでした。女の子と離れていた日々は辛いものだったのです。
「じゃあ、僕が会いに行くよ」
「無理よ。あそこには人間しかいけないんだもの。イルカは行けないの」
「大丈夫だよ!だって、僕は今から人間になるんだ!人間になって、君のそばにずっといるよ。一緒にいるよ」
イルカは大きな声で言いました。
女の子に会えない間、イルカはたくさんのことを考えました。そして、人間になることを決めていたのでした。
人間は怖くて悪い生き物、でも、女の子と一緒なら人間も悪くないかもしれない。そう思っていたのです。
イルカの言葉に、女の子はたいへん驚いた顔をしました。そのあと、いつものように柔らかく笑いました。
「イルカさんは人間にはなれないのよ」
「そんなことないよ、見ててよ!今から嘘をつくよ。嘘をついたら人間になるんだよ!」
イルカはこれまでに考えてきた限りの嘘を、女の子に向かって叫びました。
「僕はサメが好きだ!海で泳ぐのなんか好きじゃない!人間なんか怖くない!君のことなんか心配じゃないし、いなくたって寂しくなんかないよ!君なんか、君なんか、好きじゃないんだ!」
イルカはどんなふうに自分が人間にかわるのか、想像もつきませんでした。もしかしたら、体が痛いのかもしれないと、目を固く閉じました。きっと次に目を開いたら、自分は人間になっているのだと信じて疑いませんでした。
しかし、いくら待ってもイルカの体に変化はありませんでした。その代わりに、イルカのこころがとても痛くなりました。
「ありがとう、イルカさん」
イルカは少女の声を聞いて目を開きました。
「どうして、嘘をついたのに。どうして僕は人間にならないんだ?どうしてなの?」
「イルカさん、嘘をついてもね、人間にはなれないのよ。こころが痛くなるだけなの」
自分は人間にはならないという事実とこころの痛みが、イルカに残りました。
「ありがとう、イルカさん。わたし、病気になって海を泳げなくなってから、楽しみなんてなんにもないとおもってた。でも、あなたと出会えて本当によかったわ。優しい優しいイルカさん。わたしもあなたが大好きよ」
続けて少女は言いました。
「イルカさん、わたし、きっと元気で生きるわ。もうあなたに会えないかもしれないけれど、わたし、ここにこれなくても絶対、元気でいるから」
それから女の子が浅瀬にくることはありませんでした。
イルカは来る日も来る日も待ちました。
ひとりで夕陽を見るのが数えきれなくなったとき、イルカは女の子を待つことを止めました。
女の子と一緒にいた頃に比べて、イルカはずっと大人になりました。たくさんのことを学んできました。人間は全員が悪い生き物ではないこと、浅瀬からみる夕陽だけでなく雨の日のあとの朝陽はとても美しいこと、イルカを襲うサメと襲わないサメがあること、自分が女の子のことを大好きだったこと、多くのことが分かりました。以前よりもずっと賢くなりました。
今でもイルカは女の子が最後に言った言葉を思い出します。
女の子は元気でいる、どこかで生きている、イルカはそう信じています。それと同時に、あの時、優しい嘘があることを、初めて知ったのでした。