春の訪れ
高さ4,5mになる青々とした広葉樹が辺りの平地を飲み込むようにして広がっており、その森を東西に貫く街道が存在している。
街道といっても長年による人々や馬車の往来で土が固められた幅5mほどのものであり、安全の為の獣除けが随所に施されている程度である。
当然道も丁寧に舗装されてはおらず、現に今道を往く一台の馬車も小刻みに振動を続けて進んでいく。
黒毛の馬が、あちこちにくたびれ板や釘で補修された馬車をゆっくり引いていく。白い髭を生やした御者の男性は近頃暖かくなった空気に重くなる瞼をこする。
その馬車の荷台には青年がおり、ゆっくりと過ぎ去る景色を馬車に揺られながらぼんやり眺めている。
厳しい冬を越えて萌える木々の生命溢れる様子を死んだ魚の瞳並みに濁っ目で追っていく青年。
「大将元気がありやせんが、どうかしたんですかい?」
荷台の奥―――馬に近い方に座っていた大男が外を眺めている青年を気遣い声をかける。
青年は大男には振り返りもせず、外に視線を飛ばしたまま口を開く。
「..........なあカグロ。今回の雇い主についてなんだが」
「へい?確か小さな土地の領主だと伺ってますがそれがどうかしたんで?」
大男―――カグロが返事をして少年のそばに腰を落とす。そうでもしないと覇気のない青年の声が馬車の立てる音で聞こえないのだ。
「..........噂か何か聞いてないか?領主についてでもいいし、これから向かうその領土についてでもいい」
「はあ、そうですねぇ。領主の人柄は温厚だと聞いてやす。人徳もあり民から慕われているとか。土地も豊かで民の生活もすべてが裕福とは言えませんが飢えている家庭は無いと聞きやす」
「............ほー」
このご時勢、配下の民に飢えを覚えさせないことがどんなに困難なことか青年にもさすがに分かる。指導者は少なくとも無能ではないらしい。
青年たちが向かっている場所はノーリンと呼ばれる城下町である。
街と呼ぶには小さいが町と呼ぶには少し立派な城下町は内陸に位置しながら幾重にも枝分かれした河川と北西に構える連峰により一年を通して過ごしやすい気候にある。
難点をあげるとすれば領土が狭い事だろう。栄養豊富な土壌で採れる質の良い作物であるにもかかわらず、農耕の面積が限られているため他の国に輸出するほどのまとまった量が採れない。そのため名産品として扱うには惜しいものなのだ。
そこまで考えて青年はうわさを思い出す。
「ん?でもノーリンには何か特産品あったよな」
「ほう、そうなんですかい?あっしはしらねえですね。何なんですかい?」
「.........何だっけ。魚?」
「ノーリンは内陸に位置しやすし、魚介類は貿易都市チェティリエの特産ですぜ。大将、脊髄反射で答えるのはやめてくだせえ」
カグロが呆れた口調で息を吐く。青年はそんな部下の態度を気にも留めずうんうん唸りながら思考を続ける。
「いやさ、この前給料お前らに支払ったじゃん。そん時にマルコが何か言ってたんだよね。お金が入ったから故郷の友人に何か送りたいって」
「そういやマルコのやつ嬉しそうに話していやしたね。何を送ったらいいか悩んでいたようであっしも相談に乗りやしたよ」
「『女性に何を贈ったら喜ばれるでしょうか?』とか隊の皆に聞いてまわるから嫉妬で追い回されてたな。捕まえた後は簀巻きにして尋問したりな」
「.........あっしの記憶が確かなら大将は率先して参加してやしたよね。しかももの凄く嬉しそうに処してましたね」
「最終的に最重要議題として隊内の軍事会議に無理やりねじ込んだりとかしたな。隊員全員で話し合って盛り上がったな」
「大の大人32人がうんうん唸りながら一人の女性の為のお土産を選ぶ光景はある意味地獄でしたがね。まあそのお陰でマルコはいい物が選べたみたいでしたね。色々失ったでしょうけど」
その光景を思い出したのかカグロは嫌そうな顔をする。
青年も思い出す。ヒートアップする議論。飛び交う意見に物。意見を通すために振るわれる拳。それに応じる拳。はやしたてる周囲の声援。そして通る勝者の意見。
いつもの光景である。
「俺達傭兵隊は家族みたいなもんだから別に大丈夫だろ」
「身内で潰しあう家族とかあっしは御免なんですが.........そういや思い出しやした。その意見の中でノーリン名産に染物が出てやしたね」
近隣の豊かな森で採れる綺麗な花と北西の連峰からの流れる清らかな雪解け水で作られるノーリンの染物は王都の貴族や辺境の富豪にたいへん人気で、使っている花の名前からとって『ナーティア染め』と呼ばれている。
「....................染物か」
「ええ。でもそんな所があっしら傭兵に一体何のようですかねえ?」
「............」
「大将?」
カグロは唐突に黙りだした上司たる少年に怪訝な視線を向けるが、そこで青年の様子がおかしい事に気付く。
「た、大将っ!!どうかしたんですかい!?」
顔を青白く染め、普段からっ濁っている目が更に淀んでいる。手足も軽く痙攣している。
戦場でも滅多にみせない苦痛に満ちた表情を浮かべる青年にカグロは慌てふためく。
青年は錆び付いた鎧を着込んでいるかのようにぎこちなく首をカグロに向けると弱々しく言う。
「..........か、カグロ」
「へい!!」
「...............よ」
「よ!?」
「..........酔った.....」
「はい?」
「はき゛そ゛う」
「御者の親父さん、馬を停めてくれ!!━━って大将!?待って下さい!まだ吐かないで下さい!あと少しで停まりますから!!せめて外向いて下せえお願いしやすからっ!!」
騒がしい二人を乗せたまま馬車は小さな城下町にゆったりと向かっていく。
肌を撫でる風が暖かくなってきている時の出来事である。