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特盛そばの恐怖

作者: 恵梨奈孝彦
掲載日:2025/12/09

それは、娘の大学受験の年だった。

その土曜日は、午前中に仕事が終わった。だけど、お昼が二時ごろになってしまった。空腹がひどかった。いつものそば屋に入った。おれはここの「たこ天そば」がお気に入りだ。しかし、いつもより腹が減っていたため、普通盛りではなく、特盛りを注文することにした。

ほどなく運ばれてきたどんぶりを見て驚いた。

これは本当にどんぶりなのか? バケツじゃないのか? この大きさは、おれの中の「どんぶり」の概念とはかけ離れている。

いや、とにかく食べるしかない。腹も減ってるんだ。いけるはずだ。

味はいい。ちょっと甘めのつゆと麺のほどよい硬さが絡み合ってとてもおいしい。冷たい麺と暖かい天ぷらの繰り返しもここちいい。たこの癖のある味と噛み応えもいい。だけど、いかんせん量が多い!

 半分を過ぎたあたりで洒落にならなくなってきた。しかし、「特盛り」を頼んだのに残すというのはお店に失礼な気がする。努力だ! 努力は必ず報われる! おれはなんとか完食した。

 重たくなった胃を抱えてなんとか家まで帰った。土曜日なので嫁も娘も家にいる。おれは着替えると寝室に入って寝転がった。重くなった腹にこの姿勢が心地よい。今日は夕飯を食べられそうにないな…。嫁にあらかじめそう言っておくか。そんなことを考えていたら、スマホが鳴った。電話がかかってきたのだ。けっこう込み入った話だったので、時間がかかってしまった。

  通話を終えた後も、ベッドの中でさっきの電話の内容についてぼうっと考えていた。満腹だったためいつの間にかうつらうつらしていた。すると娘が夕飯だと言って呼びに来た。

 しまった。嫁に「夕飯はいらない」と言うのを忘れていた。だけど、食卓まで行って謝ればいいだろう。嫁には悪いが今の状態で晩御飯が入っていく気がしない。

 ダイニングに行くと、テーブルの上にほかほかのご飯と、きつね色に揚げられたとんかつが載っていた。

「今日は、娘ちゃんが入試に勝つことができるように、とんかつにしたの!」

 嫁がにこにこ笑いながら言っている。気が遠くなった。だけど、この状況で、「お父さんは勝つはいらない」などとどうして言えましょう!

 覚悟を決めて椅子に座った。「いただきます」これまでにないくらい真摯に祈った。

 ご飯を箸ですくって口に入れた。暖かさとほのかな甘みが口にひろがる。おいしい。だけど重い。カツを口の中に入れた。ソースの甘みと脂の新鮮さと肉の歯ごたえを口と歯と舌で感じる。ものすごくおいしい。だけどとっても重い! キャベツを口に入れる。脂っこいドレッシングと固い生野菜の歯ざわり。言うまでもなく重い!

 嫁も娘もにこにこ笑っている。本当に幸せそうだ。この幸せを壊してはならない。悲壮感を出してはならない。笑顔を絶やしてはならない。がんばれ孝彦!

 その夜は、あまりにも胃が重たくてなかなか寝られなかった。やっと寝られたと思ったら、目の前に暗い海の様子が映った。目の前でタコが八本の脚を広げておれの視界をふさいだ。

「タコはすべて、人間が人間時代の記憶を保ったまま、転生した存在である。なぜなら、彼らは瓶の蓋を開けることができるではないか。人間の子供だって教えられなければ、『回せば蓋が外れる』などということに気づかない。だから瓶の蓋を開けられることは、タコが人間時代の記憶を保存している証拠である」

 という、いやに理屈っぽいナレーションつきの悪夢を見た。

 この文章を読んで、「これのどこがホラーなんだ。ちっともコワくないじゃないか」そう思ったあなた! そう、あなたに言いたい!

 これは日常にありえる落とし穴なのだ。誰にでもおこりえる恐怖なのだ。あの「あの日に還りたい」のような、リアリティーのない作り話ではない。

 いつ、奥様が、にこにこ笑いながら、あなたにあつあつのご飯と揚げたてのとんかつを用意してくるかわからないのだ!

 だから全世界のお父さんたちに言いたい。おれみたいになってはならない! 食事は計画性を持って、いつでもおいしく食べられるようにお腹を調整しておかなければならない!

 このような悲劇が二度と繰り返されないことを切に祈る!


おしまい!



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