第2話 王城に咲く野の花
ハゥラが王都へ向かう旅は、まるで大冒険だった。
馬車に乗るのも久しぶり。山道から平地に出るたび、見える景色がどんどん変わっていく。
「うわぁ……建物がいっぱい! みんな服がキレイ!」
王都の門をくぐると、石畳の上に整然と並ぶ屋台や、人々の賑わいが広がっていた。
辺境とはまるで別世界。
ハゥラは窓に顔を押しつけながら、目を輝かせる。
「ハゥラ様、あまり顔を出されると……!」
「だって、見たことないんだもん!」
彼女を護衛する辺境兵たちは、すでに半ば諦め顔だった。
そのころ王城では、舞踏会の準備が最終段階に入っていた。
金の燭台、絹のカーテン、磨かれた大理石の床。
どこを見ても完璧な王都の社交の象徴。
「殿下、今宵の舞踏会では、各地の令嬢が参列いたします」
「……また縁談か」
アルフレッドは淡々と書類を片づけながら答える。
ヒッチが後ろで忍び笑い、コックがひょいと銀盆を持ち上げる。
「甘いものでも食べておきましょう。たぶん今夜は、苦い空気が漂いますよ~」
「……何の予感だ」
「女性が百人集まる場所の空気は、甘くて、時々辛いんですよ」
「うまいこと言うな」と、アルフレッドは小さく苦笑した。
その微笑を、柱の陰から見ている影がいた。
リューデスハーム公爵令嬢、エリザベス。
淡い桃色のドレス、完璧な姿勢。
けれど、心の中では嵐が吹き荒れている。
(今日こそ……今日こそ殿下とお話しするの……!)
――そう、彼女は今日も本気で推し活中だった。
一方その頃、ハゥラは到着早々、王城の庭園で迷子になっていた。
「うわっ、広い……どっちが入口だっけ?」
庭師の制止も聞かず、木の枝をよじ登って見晴らしを確かめる。
鳥が飛び立ち、木の葉が散る。
ちょうどその瞬間、通りがかった青年の肩に、ぽとん、と木の実が落ちた。
「……痛っ」
「ご、ごめんなさい! わ、私、登ってただけで――!」
振り返ったその青年――灰金の髪、澄んだ碧眼。
彼こそ、ナディ王国王太子アルフレッドその人であった。
「登ってただけ、か。王城の木に登る令嬢は珍しいな」
「へ? 令嬢っていうか……ハゥラです。辺境から来ました!」
にっこり笑って手を差し出すハゥラ。
泥のついた掌を見て、アルフレッドは一瞬言葉を失う。
そのあと、小さく笑ってその手を取った。
「アルフレッドだ。……初めて会うな、ハゥラ嬢」
「うん! アルフレッドさん、いい人そう!」
「“さん”……?」
“殿下”と呼ばれ慣れた男にとって、それはまるで新鮮な音だった。
少し離れた屋根の上。
ヒッチとコックがちゃっかり盗み見ている。
「おいおい、あれ……殿下、笑ってないか?」
「うわー、レアですよレア! 笑顔、年に3回も出ないやつ!」
「おもしろい子だね」と、コックがニヤニヤ。
「甘くなる予感がしますよ……これは。」
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その夜、舞踏会が幕を開けた。
音楽と香水の匂いが満ち、煌びやかな衣装が並ぶ。
その中で、ひとりだけ違う空気をまとった少女がいた。
淡いグリーンのドレス。
けれど裾はところどころ草の葉っぱに見えるデザイン。
背筋は真っ直ぐで、微笑みは素朴――
辺境の風そのもの、ハゥラである。
貴族たちがひそひそと囁く。
「誰? あの子……見たことない顔」
「辺境の娘らしいわ。礼儀も知らないって噂」
だが、そんな視線もハゥラは気づかない。
ただ、音楽に合わせて、うっとりとホールの天井を見上げていた。
「すっごい……光ってる……!」
――そこに、アルフレッドが歩み寄る。
「辺境の娘、踊る気はあるか?」
「えっ、えっと……あの、ステップは分からないけど……」
「剣の踏み込みを思い出せばいい」
微笑みを交わし、二人の手が重なる。
音楽が流れ、ハゥラのスカートが宙に舞う。
ぎこちない足取りが、いつしかリズムに溶け――
王太子は久しぶりに“楽しそう”な表情を見せていた。
その様子を、遠くの柱陰から見つめる影。
エリザベスの眉が、ほんの少しだけ震えた。
(……誰? あの子。殿下が……笑ってる……?)
胸の奥で、ざらりとした感情が蠢く。
それは嫉妬か、それとも――初めて芽生える「危機感」だった。
ヒッチが囁く。
「殿下、珍しく踊ってますね」
「ええ、あの辺境の娘、どうやら“風”を運んできましたね」
コックはにやりと笑う。
「甘い夜風、ってやつですか。……辛味担当のヒッチさん、どうします?」
「決まってるだろ」
ヒッチは目を細める。
「この風、しばらく観察だ。どうやら面白いことになりそうだ」
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舞踏会の翌朝、王都に早朝の鐘が鳴り響くころ。
ハゥラは、すでに中庭の池で――魚と格闘していた。
「えいっ! ……あっ、逃げたっ! くぅーっ!」
袖をまくってスカートを腰の辺りで手繰り寄せて膝まで水に浸かるその姿に、侍女たちは絶叫する。
「ハゥラ様ぁああ! なにをなさってるんですかぁあ!」
「え? 朝ごはんに魚が出るって聞いたから、捕まえようと!」
「調理場に調達済みですぅうう!」
びしょ濡れで笑うハゥラの横で、ひとり、呆然と立つ青年がいた。
――王太子アルフレッドである。
「……何をしている?」
「おはよう! アルフレッドさん! 魚、捕れなかった!」
「……そうか」
昨日の舞踏会での笑顔を、思わず思い出す。
“風”のように無邪気なこの娘――王城では完全に異質だ。
「……風邪をひくぞ」
「平気! 辺境の朝はもっと冷たいもん!」
そう言って、ハゥラは池の中でバシャッと手を振る。
アルフレッドは、わずかに口元をほころばせて去っていった。
その背後の木の上で、二つの影がひそひそ声を交わす。
「コック、見たか? また殿下が“笑った”ぞ」
「見ました。二日連続ですよ、もはや奇跡です」
「いや、事件だ」
「事件簿つけます?」
「当然だ」
ヒッチは懐から小さな巻物を取り出し、筆を走らせた。
> 『観察記録:第三章・殿下、池端で笑う。対象:ハゥラ嬢。
> 状況:魚未捕獲。理由:不明。影響:殿下の情緒に変化あり。』
「……よし、これを甘味報告書とともに提出だ」
「報告書の名がすでに甘いですよヒッチさん」
昼下がり、王妃付きの侍女たちの間で話題が沸騰していた。
「辺境の娘が王太子殿下と一緒に散歩していたらしいわよ!」
「えぇっ!? あの泥だらけの子?」
「なんでも、“魚を取り損ねた”って笑ってらしたとか!」
廊下の角で、それを聞いたエリザベスの眉毛がピクリと動く。
(……魚? 殿下と魚? なにその未知のイベント!?)
手にしていたティーカップが小さく震え、紅茶がすこし跳ねた。
(殿下の隣に立つのは……私のはず、なのに……!)
使用人たちはそっと距離を取った。
――なぜなら、エリザベスが本気で思考の沼に入り始めると、周囲の空気がすこしだけ「圧」を持つからだ。
その晩。
王宮の一室で、エリザベスは机に向かい、まじめな顔でノートを開いていた。
タイトル:《殿下のご機嫌研究ノート》
・最近の笑顔:ハゥラ嬢出現以降、+3回
・観察地点:池、庭、食堂前
・特記事項:魚、関係あり?
(……魚を……勉強しなきゃ……!)
彼女は真剣に魚図鑑を開く。
「鱗……艶やか……なるほど……」
そしてページの隅にメモする。
> “今後、鱗のように光るドレスを準備”
完璧な戦略である。
たぶん方向性が違うけれど。
翌朝。
ハゥラがまた中庭でストレッチをしていると、背後から上品な声がした。
「ごきげんよう。……あなたが、ハゥラ嬢ね?」
振り返れば、見事な光沢ドレスに身を包んだエリザベス。
しかも、キラキラ反射するスパンコールがまぶしい。
「わぁ! お魚みたい!」
「……ありがとう。」
エリザベスは小さくため息をついた。
だが、すぐに笑顔を作り直す。
「あなた、殿下と仲がよろしいとか?」
「うーん? 昨日、一緒に池の魚見ただけだよ?」
「そ、そう……! (魚!? 本当に魚!?)」
ハゥラは人懐っこく笑って言う。
「でも、アルフレッドさん、すごく真面目だね! ずっと書類とにらめっこしてた!」
「ええ、ええそうなの、真面目なの! そこが尊いの!」
「尊い?」
「……えっと、すごいってことよ!」
会話の波長が、絶妙に噛み合っていない。
だが、なぜか空気は和んでいた。
遠くの屋根の上、ヒッチとコック。
「おい、見ろよ、あの二人、仲良くしてるぞ?」
「女性同士の友情……いや、これはもしやライバル萌え展開……?」
「コック、落ち着け」
「だってドラマチックじゃないですか~。恋の火花、キラッキラですよ!」
「……よし、今夜の報告書タイトルは決まりだな」
ヒッチは筆を走らせた。
> 『報告書:第三章・恋の魚と眉毛の光沢。殿下まだ未介入。観察継続。』
そしてその夜、アルフレッドは机の上で二人分の報告書を見つけ、無言で頭を抱えた。
「……ヒッチ、コック。お前たちはいったい何をしている?」
影の二人は、どこからともなく現れて土下座のポーズを取る。
「殿下の恋愛観察任務を遂行しております!」
「愛と情緒の均衡を保つための、国家的調査です!」
「やめろ……そんな任務は命じていない……!」
だが、机の端に置かれた菓子皿の上――
ハゥラが作った辺境風の干し果実クッキーが並んでいる。
アルフレッドは、それをひとつ手に取り、無言で噛んだ。
「……甘いな」
ヒッチとコックが、ニヤリと顔を見合わせる。




