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第五章(6)

* * *


 アルヴィスは苛立ちを抑えきれなかった。グラスに琥珀色の酒を注いでは一気に飲み干し、また注ぐ。その繰り返しは、まるで心の乱れを酒で押し流そうとするかのよう。


「皇帝陛下。お身体に障ります」


 ひんやりとした夜気が漂う部屋に、真っ白いローブを揺らしながら姿を見せたのは、侍医のファミルだ。その声は穏やかでありながらも、どこか諫めるような響きもある。


 アルヴィスはファミルには逆らえない。


 幼少期から彼の世話になり、熱を出せば寝ずの看病をし、腕を怪我して食事がままならないときには、ファミル自ら匙を手に食べさせてくれた。両親以上にそばに寄り添い、アルヴィスの身体を知り尽くしているのがこの男なのだ。


 父が亡くなり、アルヴィスが十五歳で皇帝に即位したときも、隣にいたのはファミルだ。

 だからこそ口うるさい。


「わかっている。だが、酔いたい気分なのだ」


 ふかふかのソファに身を沈めるアルヴィスの手にはグラスが握られたまま。


 テーブルの上に置かれている瓶には半分以上の酒が残っているというのに、ファミルはそれを取り上げた。代わりにあたたかいお茶の入ったティーポットを置く。ほのかに薬草の香りが漂い、部屋の冷えた空気をわずかに和らげた。


「そちらを飲み終えましたら、こちらをお飲みください。酒が残れば、明日の政務に差し支えます。これは酔い覚ましに効く茶です。眠りも促しますから」


 アルヴィスが酒に溺れる理由を、ファミルは知っているのだ。


 この一年、アルヴィスはまともに眠れていない。目の下には濃い隈が刻まれ、顔色は青白い。化粧でなんとか取り繕って人前に立つものの、一日の終わりには疲れがどっと押し寄せる。眠れない夜が、それをさらに増幅させる。


「どなたか妃をお呼びしましょうか?」


 女を抱けば眠れるとでも言いたげなファミルの口調に、アルヴィスは小さく舌打ちした。だが、アルヴィスにはそんな気すら失せている。


 側妃は四人。まだ正妃はいない。懐妊した側妃を正妃にすると言い続けて数年経つが、まだどの側妃にも懐妊の兆しは表れない。これではまるで、アルヴィスに問題があると示しているようなもの。


「それとも、妃を入れ替えますか?」


 そうすれば、問題がアルヴィスにあるのではなく妃たちのせいにできる。

 トントントン……とアルヴィスは無意識のうちに、テーブルを指で叩いていた。


「そうだな。そろそろ飽きた」


 彼女たちの目はまるで死んだ魚のように生気が宿っていない。アルヴィスが話しかけてもにこりともせず、黙って服を脱ぐだけ。組み敷いても反応がないのは、ひどく味気ない。


「惜しいことをしたな……」


 ふと記憶の底から浮かんだのは、一年前に手放した最も若い妃だ。身体も小さく、まるで怯えた小動物のようだった。


「リネット妃のことですか?」

「あれはもう、妃ではないだろう」

「失礼いたしました」


 だが、ファミルの言うように、手放したことを後悔したのはスサ小国から連れ去ってきたリネットだ。小さな国ながら魔力を持つ者が多いスサ小国。特に王族はその力が強い。


 残念ながらスサ小国には、アルヴィスに釣り合う王族の女性はいなかった。唯一残っていたのは、当時、十四歳だったリネット。しかし、キサレータ帝国では未成年に手を出してはならない決まりがある。それでもスサ小国の人間は手に入れておきたかった。未成年であっても、時さえ満ちれば条件を満たす。


 だから将来を見越して彼女を手に入れたのだ。


「リネットを連れ戻すか……」


 ファミルのこめかみがひくっと動いた。


「魔法具の威力も落ちてきたようだしな」


 リネットは五人の側妃の中で、最も魔力が強かった。さすがスサ小国の王族だと、心の中では感心したものだ。


 夜伽の代わりに魔法具を作るよう命じた。もちろんリネットはそれを拒んだが、スサ小国に残してきた家族や国民を脅しの材料に使えば、気弱な彼女はそれを引き受けた。


 リネットが作る魔法具は、生命力を魔力に転換するもの。それにより、魔力を持たないアルヴィスが魔法を使えるように見せかけていた。

 その魔法具を使い、属国を恐怖で従えさせてきた。しかしその魔法具の威力が落ちている。このままでは、魔法具が使えなくなるのではという不安も、アルヴィスの心に迫っていた。


 世継ぎがいない。魔法具の力も衰えている。


 アルヴィスが眠れなく理由には十分なものだ。意外と小心者だったようだと、アルヴィスは自嘲の笑みを浮かべる。


「えぇ。そろそろ陛下もリネット王女を恋しがると思い、スサ小国には連絡しておきました」

「ほほぅ?」


 伊達にファミルは、アルヴィスが生まれる前からの付き合いではない。母の胎内にいたときから、見守ってきた男だ。


「ただ……もうリネット王女は娘ではないと。だからどこにいるかわからないと、そのようなことを申しておりました」

「なんだと?」


 ドン、とアルヴィスはテーブルを叩く。その衝撃でグラスや茶器が揺れ、ガシャンと激しく音を立てた。


「リネットは、スサに戻ったのではないのか?」


 約一年前、ほぼ寝たきりになっていたリネットを、アルヴィスは追い出した。あのときのリネットは、とにかく口うるさかった。身体を壊し、夜伽もできなかった。挙げ句魔法具も作れない。ただ寝ているだけのリネット。それでもか細い声で「むやみに魔法具を使わないでください」と、今にも折れそうな身体で訴えきた。その声が、なぜか今も耳に残る。


 だからわずらわしくなって捨てた。


 てっきり母国に連絡をし、そこで療養しているものだと思っていたのだが。


「はい。どうやらスサ小国にはおられないようです」

「では、どこに……?」


 あの身体で行けるところなどないに等しい。むしろスサ小国から迎えがきて、連れて帰ったのではないのか。スサ小国から彼女を連れてくるとき、あの国王夫妻は泣きながらアルヴィスにすがったというのに。


 ファミルはゆるりと首を横に振った。


「私のほうではわかりかねます」


 アルヴィスは小さく舌打ちをする。

 そこにいないとわかれば余計に会いたいという気持ちが湧き起こってくるから不思議なものだ。


「リネット王女を探すのですか? あの身体では……生きているかどうかもわかりませんよ? いくらでも利用方法あったというのに……」


 ファミルのその言い方はアルヴィスを咎めている。


「まあ、いい。リネットは目立つだろう? 生きていれば誰かが目にするはずだ。もし、彼女を見かけたら私に報告するよう、通達を出す」


 やっと気持ちが落ち着いたアルヴィスは、ファミルが淹れたお茶をカップに注いだ。すでに冷めており、湯気すら立たない。


「相変わらず、おまえのお茶は不味い」

「良薬は口に苦しですよ。魔法具の力も衰えている今、陛下には子作りに専念してもらったほうがよろしいかと」


 ファミルはいつもそれを一番に考えている。


「とにかく、陛下の血さえ引いていればよろしいのです。魔力はその次……」

「では、入れ替えるか……」


 今の側妃たちは二年以上も後宮に居座っている。


「次はどこの国から迎えますか? いや、むしろここは帝国内の有力貴族から迎えましょう。そちらのほうが協力的ですから」


 ファミルの言うことも一理ある。


「では、妃のことは宰相らに伝えるか……」


 アルヴィスは、もう一口不味いお茶を飲み、顔をしかめた。


「それよりも、あれだ……。私が魔法具に頼らなくても魔法を使えるようになれば……」

「陛下、ご安心ください。そちらも抜かりなく」


 ファミルが薄く笑う。


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