第五章(3)
リネットは、また知らぬうちに眠っていたようだ。
もう一度目が覚めたときには、頭痛はどこかに消え去っていた。
身体を起こして室内を見回すが、ラウルの姿は見えない。リネットを寝かしつけ、また仕事に戻ったのだろう。彼だって騎士団の責任ある立場にある身。いくら訓練が五時に終わろうが、それ以外にもやるべきことがあるだろう。
ベッドから降りたリネットは、すっきりとしていた。あれほど頭が痛かったのが嘘のよう。
となれば、これからでも地下書庫に戻り、資料の続きを読みたい。しかし、図書館の閉館時間が近いように思える。室内は真っ暗ではないが、カーテンの向こう側が燃えるような夕焼けに染められているのがわかった。
リネットは与えられた隣の部屋へと移動した。
今日は朝からラウルを怒らせてしまい、記録どころではなかった。
この部屋も、リネットにとっては居心地のいい場所だ。静かに本を読んだり、調べ物をしたりするにはもってこいの空間だ。机に向かって座り、いつもの帳面を広げる。
ラウルとキスをした時間、キスの長さ、しつこさ、そして症状の具合について。
しかし今日は、ラウルが興奮してしまった。本来であれば、萎えるはずが、なぜか勃ち上がっていたのだ。
その原因については、いくつか考えられるが、それのどれが正しいともわからない。
う~ん、う~んとリネットは唸るものの、唸ったところで答えには結びつかない。
とにかく今朝、ラウルをすっきりさせたくて、口淫か手淫を提案したところ、こっぴどく叱られた。そのままリネットは、こちらの部屋に逃げ、朝の散歩もしなかった。となれば、朝食の時間もここにいた。
ラウルがいなくなってから、隣の部屋へと移動し、テーブルの上に残されたパンを半分だけかじって、魔法院へと向かったのだ。
どんな顔をしてラウルと会ったらいいかわからず、それでも律儀に昼休憩になれば彼は地下書庫へとやってきたわけだが。
そこまで今日のできごとを振り返ったとき、ラウルの声が聞こえた。
「リネット! おい、どこにいるんだ! リネット!」
隣の部屋からだ。
リネットは慌てて立ち上がり、扉をそろりと開けた。
「団長さん……?」
「リネット。そっちにいたのか? それよりも起きて大丈夫なのか?」
ラウルはリネットが逃げないように、がっしり肩を掴む。
「はい。薬を飲んでぐっすり寝たからか、頭がすっきりして……。それで、いつものように団長さんの呪いについて、まとめていました」
「そうか……てっきりここで眠っているものだと思っていたから、姿が見えなくて焦った」
「ごめんなさい」
リネットがしゅんと肩を落とせば、ラウルも少し焦ったのだろう。「それよりも」と話題を変えた。
「お腹は空いていないか? 何か食べやすい物がいいかと思って、果物も用意した」
「お昼に、シーナさんとお外で食べてきたんです。以前、団長さんと一緒にと行ったあの煮込み料理のお店」
「ああ、あそこか。あそこはここから近いからな。それに美味しい。利用する者も多いんだ」
そう言いながらも、ラウルの表情はどこか寂しそうにも見えた。
「そして、お昼ご飯を食べてから頭が痛くなっちゃって。あとは戻ってきてずっと寝ていたので……」
「お腹が空いていないと? 君はいつもそう言ってばかりだ」
「いえ……寝ていたわりにはお腹が空きました。でも、量はあまり食べられそうにないです」
「席についていなさい。夕食の用意をする」
彼の言葉に従い、リネットは素直にソファに座って待っていた。いつも食事をする場所だ。
テーブルの上には、パン、スープ、サラダ、そしてデザートとして葡萄が並べられた。食堂の定番メニューではあるが、使われている素材が日によって変わるので、同じ料理であっても味が違う。
「何から食べる? スープは飲めそうか?」
「えぇと……少しだけなら……」
「わかった」
ラウルはスープを一匙すくって、リネットの口の前に運ぶ。
リネットも慣れたものだ。口を開けて、ぱくりと咥える。今日のスープはコンソメスープだった。
「次は、何を食べる? 葡萄はどうだ?」
「はい。葡萄が食べたいです」
大きな粒の葡萄は、皮を剥いて食べる必要があるようだ。その皮をラウルが丁寧に剥いて、リネットの口の前に差し出す。だからリネットも、葡萄の皮が剥いてある半分だけ食べた。
残りの半分は、皮がついているにもかかわらず、ラウルが大きな口で食べてしまう。
リネットが食べ、残ればラウルが食べ。ときどき、リネットがくすっと微笑を浮かべれば、ラウルは満足そうに小さく笑う。
食事が終われば、空いた食器類をラウルが片づける。その間、リネットはぼんやりとソファに埋もれたまま。
そうやってぼんやりとしている間に風呂の用意は整い、入浴の時間となる。
たっぷりと湯の張られたバスタブ。そこに身を沈めて、リネットははたと思った。
(あれ? もしかして今、快適な生活を送っているのでは?)
食事は黙っていても出てくるし、挙げ句に、ラウル手ずから食べさせてくれるから、ひな鳥のように口を開けて待っていればいい。こうやって風呂の用意もしてくれるし、洗濯はメイドたちがなんとかしてくれる。
(これではまさしく、エドガー先輩が言っていたなまけもののような生活……)
そんな生活で本当にいいのだろうか。
ラウルは今、リネットによって命を救われている。リネットが離れてしまえば、彼は死んでしまうから、側にいて快適ななまけもの生活を与えているだけ。
(もし、団長さんの呪いが解けてしまったら……?)
リネットは用済みとなるだろう。いや、はじめからそういった約束だったのだ。
だから彼の呪いが解けたら、リネットは元のずぼら生活に戻るだけ。寝たいときに寝て、食べたいときに食べ、基本的には自室と研究室の往復のみの生活。例えそれが、不規則な生活と言われようが、今までそうやって生きていたのだ。
(私、今の生活を楽しんでいる……?)
ラウルの部屋に移ってきて、まだ十日ほどしか経っていない。
だというのに、朝早くから散歩をして、しっかり三食食べるこの生活に喜びを感じていた。
でもその生活が楽しいのは、ラウルが共にいるからだ。ご飯を食べるときも散歩に行くときも、そして寝るときも、リネットの側には必ずラウルがいる。
(私、団長さんと離れたくないんだ……)
だから彼の呪いが解けてしまって、今の生活が終わってしまうのが怖いのかもしれない。
ラウルの呪いが解ける。それは、偽りの恋人関係を終わらせる起因となる。
(呪いが解けても、団長さんと一緒にいるためにはどうしたらいいんだろう?)
そこではたと思い出されたのが、シーナの言葉だ。
――きちんと話し合ったほうがいいですよ。
そう言われても、リネットは自分の希望を伝えるのが下手だ。仕事に必要なものであれば、それを理由にあれが欲しい、これが欲しいと言えるのだが、そうではない自分の生活に関するものは何も言えなくなる。
そのため、いつまでもキサレータ帝国から持ってきた古くさい寝間着や下着を身につけていた。
自分の意見を相手に伝えられないのは、どうしてもアルヴィスを思い出してしまい、萎縮してしまうからだ。彼に何か意見を伝えれば、怒鳴られ、殴られた。
何か相手に言いたいことがあっても、言えないほうが多い。あのときの記憶が蘇り、言葉が出てこない。
だけどラウルならどうだろうか。
彼はリネットがキサレータ皇帝の側妃だったと伝えても、蔑むような、汚いものを見るような視線を向けてこなかった。むしろ、どこか優しさと同情に満ちた、そんな眼差し。
先ほどは、リネットの体調も悪かったという理由もあって、言いたいことを全部ラウルに言っていない。
こんな気持ちのまま彼と一緒にいて、彼の呪いを解くためにいろいろと調べたくない。
できればすべてを伝え、すっきりとした気持ちで前に進みたい。
そう思ったリネットは、勢いよくお湯から飛び出した。




