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第五章(2)

 額に触れるひんやりとした感触が心地よい。

 そこでリネットは、ぱっと目を開ける。


「あ、団長さん……?」

「目が覚めたのか? 体調を崩して早めに帰ったと聞いたから……。喉は渇いていないか? うなされていたようだったから」

「あ、はい。少し……」


 ほんの少しだけ、喉がいがいがする。それに額が冷たいと思ったら、濡れた手巾が乗せられていた。リネットの胸に、ふと温かなものが広がる。このように誰かに気遣われるのは、ずいぶん久しぶりだ。


「ほら。焦らずにゆっくり飲みなさい」


 ラウルはすぐにグラスに水を注ぎ、それを手渡してきた。


「ありがとうございます」


 リネットが身体を起こしたところで、額からぽとりと手巾が落ちた。


 ラウルから受け取ったひんやりとしたグラスが、手のひらから熱を奪っていく。そのまま頬にくっつけたくなるくらいだが、さすがに行儀が悪いと思ってとどまり、水を二口飲んだ。


 ラウルの視線は、グラスを握るリネットの手を追っている。


「何か、食べるか?」

「あ、えっと……今、何時くらいでしょうか? 団長さんが戻ってきたから、五時は過ぎてる?」

「あぁ。いや、まだ四時だ」


 思っていたより時間は経っていなかった。ここに来て眠ったのは一時間くらいだろうか。


「地下書庫に行ったら、君の姿が見えなくて。それで研究室へ行ったらエドガー殿が、君が体調を崩して帰ったというから……」

「申し訳ありません」

「いや……」


 リネットが両手で包み込んでいたグラスを、ラウルが奪う。その動きは少し強引だったが、彼の指先がリネットの手の甲に触れた瞬間、互いに一瞬だけ動きを止めた。


「今朝のこと……謝りたかった。大きな声を出して悪かった」


 グラスをテーブルの上に置き、ラウルが謝罪した。


「いえ……私も、大変失礼なことをしたと……そう、思っています……」


 反省したリネットの語尾は、小さくなっていく。


「シーナさんと話をして、私が変なことを言ったのだと……反省しています……」

「そうか……」


 そこで言葉が途切れ、室内がしんと静まり返る。お互い、会話のタイミングを探っている。

 リネットがそっと彼の顔をうかがうと、目が合った。だが、やはりラウルは怒っているわけではないようだ。その眼差しには優しさが宿っている。


「あの……」


 リネットはすっと息を吸って、口を開いた。


「私、本当は……その……団長さんを少しでも楽になってもらいたくて……その……」


 だからあんなことを言ったのだと伝えたいのに、その先をどう言葉にしたらいいかわからない。


「あぁ……君の気持ちは伝わった。その気持ちは嬉しい。ありがとう……。だが、実際にそれをやられるのは……まぁ、君を穢しているような感じがして、俺が俺自身を許せなかったんだ」


 ラウルが悔しそうに顔をゆがめる。

 しかしリネットには、なぜ彼がそのようなことを言ったのかがわからない。


「団長さんは、おかしなことを言うんですね」

「おかしなこと?」

「だって……女は身体を差し出せばいいって……男の欲のはけ口だからって……私は、そう言われていたので……」

「なんだと……?」


 ラウルの声が、いっそう低くなる。その声には怒りがにじんでいたが、リネットに向けられたものではないことはすぐにわかった。


「誰がそんなことを? スサ小国の教えはそうなのか?」

「ち、違います」


 リネットは慌てて手と首を横に振った。スサ小国にいる両親が、そのような考えの持ち主だと思われても困る。誤解を解きたい一心で、言葉を放つ。


「スサではそのようなことは言いません。私、スサには十四歳のときまでしかいなかったので……その……男女のあれこれがよくわからないのです……」

「だったら、誰がそんなことを君に吹き込んだんだ? これは、男の沽券にかかわる話だ。すべての男がそのようなことを思っていると思われたら心外だ。いったい誰だ? そんなふざけたことを言ったのは」


 ラウルの頭のてっぺんから湯気が吹き出てしまうのではと思えるくらい、顔を赤らめ興奮している。


「それは……」


 ラウルの質問に答えようとすれば、リネットの過去に触れる必要がある。つまり、キサレータ帝国にいたことだ。それをラウルに言って、嫌われないかどうかが不安だった。


「……すまない。俺は君に怒っているわけではない」


 リネットが怯えているように見えたのだろう。ラウルは慌てて謝罪してきた。


「いえ。きっと私が変なことを言ったから、なんですよね……」

「そうだな。一つだけ伝えておきたい。少なくとも俺は、君を欲のはけ口だとは思っていない。だから、君自身を大事にしてほしい」


 リネットの目頭から、ぽろっと涙がこぼれた。これは、リネット自身も思ってもいなかったこと。

 ラウルの言葉は、心の奥底にしまっていた傷に優しく触れた。誰かにこんなふうに言われたのは、初めてだ。


「ごめんなさい。なんか、勝手に涙が出てきて……」


 リネットは慌てて涙を拭う。


「おい、目をこするな。赤くなってしまう」


 すぐに手巾を取り出したラウルは、リネットの目元と頬にそれを押し当てるようにして涙を吸い取った。その手つきは不器用ながらも、慈愛に満ちている。


「ごめんなさい。私、ちょっとおかしいです。勝手に涙が出てきました。でも、団長さんに言われたこと、嬉しかったんです」


 また、じわっと涙があふれてきたが、すぐにラウルが手巾で拭う。彼の指先が頬に触れるたびに、リネットの心は少しずつ彼に傾いていく。


 ラウルになら、過去のことを言っても大丈夫だろうか。そんな気持ちが生まれてきた。


「団長さん……私、スサの出身なんですけど、ここに来る前はキサレータにいたんです」


 突然、身の上話を始めたリネットに、ラウルは「ん?」と片眉を上げた。


「そのキサレータを追い出されたから、セーナス王国に行こうと思いました。でも、途中で行き倒れ、エドガー先輩に拾ってもらったんですけど」


 ラウルは何も言わず、黙って聞いている。


「キサレータで、私……皇帝の側妃の一人だったんです……」


 ぴくっとラウルのこめかみが動いた。


「しかも一番年下だったから、何かあればすぐに呼び出されて……。抵抗すれば、おまえは黙って身体を差し出していればいいって……嫌がるようならスサにいる家族をって……」


 声が震えた。心臓もドクドクと激しくなり、呼吸も浅くなる。過去の記憶がよみがえり、リネットの身体は硬直する。


「わかった。もう、何も言わなくていい」


 リネットの異変に気がついたラウルがやわらかく声をかけてくるが、ぶんぶんと勢いよく頭を横に振った。


「団長さんには、全部知ってもらいたいんです」


 そこでラウルがリネットを力強く抱きしめる。小柄なリネットの身体は、すっぽりとラウルによって覆われた。リネットの心は初めて安全な場所を見つけたような安心感に包まれる。


「あぁ……だが、俺は君にそんな辛そうな顔をさせたくないんだ。今はまだ、君の体調も落ち着いていないのだろう?」


 ラウルはぽんぽんとリネットの背をやさしく叩く。リネットは彼の胸に顔を寄せる。知らず知らずのうちに、さらに涙がこぼれていた。


「もう少し寝なさい。眠れないようなら、子守歌でも歌ってやろうか?」


 その言葉にリネットがぷっと噴き出すと、涙も止まってしまった。


「団長さん。お母さんみたいです」

「ああ、よく言われる。ウザいともな」

「だけど、私。最近は、団長さんのウザさがあんまりウザくないっていうか……。まぁ、嫌いではありません。だけど、子守歌はちょっと……遠慮しておきます」


 ラウルはリネットに横になるようにと促す。

 もう一度ベッドで横になったリネットは、ふふっと笑う。


「どうした? 急に笑い出して」

「いえ……なんでしょう。ちょっと……幸せだなって、思いました」

「そうか。俺も、知らないリネットを知れて、嬉しかった。また、君のことを教えてくれ」


 リネットの肩までしっかりと毛布をかけたラウルはリネットを見下ろす。


「薬は飲んだのか?」

「あ、はい。治療室で飲んできました。頭が痛かっただけですから」

「そうか。だが、君の元々の生活はめちゃくちゃだったからな。それを無理やり正常に戻そうとしたから、その反動かもしれない」


 その考えはなかった。ラウルにどうやって謝罪しようかと悩んでいたから、考えすぎて頭が痛くなったのだと思っていた。


「団長さん……」


 毛布から手を出したリネットは、ラウルの手首を取った。


「あの……眠るまで、手を繋いでくれませんか? スサにいたとき、具合が悪いと、母がよく手を握ってくれたので……」

「あぁ。そのくらい、問題ない」


 ラウルがベッドに腰をおろし、リネットの手をしっかりと握りしめる。彼の手のぬくもりが心地よい。


「頭は、まだ痛むのか?」

「少しだけ」

「もう少し寝なさい」


 ラウルは空いている手でリネットの頭をなでた。


「でも、私は思いました。これって、団長さんの言う、規則正しい生活から外れているのでは?」

「体調が悪いときは別だ。いいから黙って目を閉じろ」


 彼のその言い方が、リネットの胸を熱くした。


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