第四章(1)
「……おはよう、リネット。そろそろ起きないか?」
耳元で誰かの声が聞こえ、リネットは瞼を開ける。
「ひっ……だ、団長さん」
「おい、そんなに驚くな」
「え? どこ、ここ? なんで? 私、あちらのソファで寝たはずですが……」
リネットが眠っていたのはラウルが普段使っている大きなベッドだった。しかし昨夜はふかふかのソファで寝たような気がするし、それをラウルは渋々ながらも了承したはずだ。
ラウルが言うには、彼が自分の都合でリネットを巻き込んでいるのに、そんなソファで寝させるのは申し訳ないとかそんなことだった。だけどリネットは小柄だから、ソファだって十分に広く、いつも使っているベッドより寝心地がいいと言ったところで、なんとか納得したという流れである。
それなのに今、リネットはラウルに抱かれ、彼が普段使っている大きなベッドで横になっていた。
「もしかして団長さん……眠っている私に……」
じろりとラウルを見上げると、彼は笑って答える。
「まさか。俺の命を握っているような人物に手を出すほど、理性は失っていない。今のところは……」
そう言いながらも、彼が熱っぽい吐息を吐く。だから余計に「今のところは」が重く響いた。
「リネット。今朝も口づけていいだろうか?」
潤んだ瞳で許可を求めるラウルを見れば、なぜか心の奥がつきっと痛む。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください」
近づいてきたラウルの唇をリネットが両手で制したため、「ふごっ」と変な声が聞こえた。
「ええと。実は昨日、団長さんの呪いを解くために、いろいろと調べていたのですが……残念ながら、今のところめぼしい情報は見つかりませんでした」
「そうか……」
一気にラウルが気落ちする。
「でも、調べてまだ一日です。だから、症状も確認しつつ調べていこうと思いました」
「症状……確認?」
「はい。まず、今日の分のキスをする前に、昨日の団長さんの様子を教えてください。その、呪われた直後のような昂ぶりというかむらむらというか、穴と穴に突っ込みたくなるというか、そんな気持ちになることはありましたか?」
むっ? と唇をへの形にしたラウルは、しばし考え込む。その間もリネットを腕の中に閉じ込めたまま。目の前に彼の整った顔があり、どこに視線を向けたらいいのかとリネットは戸惑ってしまう。
「昨日は、特になかったな。目覚めて、君とキスをするまでの間が一番昂ぶっていたかもしれない」
「てことは、今も?」
「そうだな。まぁ、なんとか我慢できる感じだが……」
やはり一日一回、「おはようのキス」は必要なようだ。ここでキスをしなければ、ラウルは次第に昂ぶり始め、制御できない情欲をまき散らすだろう。
「なるほど。では、これから『おはようのキス』をしますが、しつこいキスではなく、ちゅっと軽めで試したいんです。よろしいですか? よろしいですよね? 軽く唇を合わせるだけですよ?」
リネットが睨みつけるようにしながら言えば、ラウルも「わ、わかった」とたじたじだ。
「団長さんは動かないでください。私のほうから口づけますから。いいですね?」
ラウルに主導を握られたら、絶対にしつこいキスをしてくるに決まっている。それでは必要なデータは採れない。リネットとしてはさまざまな条件下でのデータを揃えたいのだ。
じっとラウルを見つめてから、リネットは彼の唇にちゅっと口づけた。時間にすればほんの一秒に満たないような、そんな軽い口づけだ。
「おはようございます。身体の調子はどうですか? 特に、むらむらとかしてませんか?」
「問題ない。なんかこう、一気に引いた。萎えたともいう」
「私のキスで萎えるって……喜ばしいことではあるのですが、なんかこう、気持ちは微妙です」
まるで色気がないとでも言われているようだ。普段のリネットならさほど気にならないのに、なぜかラウルに言われると心がもやっとする。
「よし。では朝の散歩に行こうか。猫が待ってるぞ?」
「……はい」
渋々返事をしたリネットだが、猫にご飯をあげるのは楽しい。いや、それよりも今日は目覚めがいい。
ラウルに振り回されてばかりだというのに、身体がすっきりとしている。
「どうした?」
「いえ……なんでもありません。起きます」
やっと身体を起こしてベッドからするっと下りた。
「リネット」
着替えるためにベッドから離れようとするリネットの手をラウルが掴む。
「なんですか?」
振り返ればラウルが薄く笑みを浮かべていた。
「今日は顔色がよさそうだし、目覚めもいいな」
やはり彼は気づいていた。それを認めてしまうのは、なぜか悔しい。
「そうですか?」
リネットがシラを切ったところで、ラウルはニヤリと笑って手を離した。
「リネット。昨日は君が寝てばかりいたから、この部屋をきちんと案内していなかったが……その扉の部屋、君が使っていい。この部屋以外にも、部屋はいくつかあるんだ」
「はぁ……」
そう言われれば、ここに来てからというもの、彼といるときはほとんど寝ているか半分意識を失っているか、そんな感じだったかもしれない。
「では、お言葉に甘えて使わせていただきます」
荷物を手にしてリネットはラウルが示した扉へと向かう。そこを開けると、ベッドはないものの机やソファ、本棚など、必要なものがひととおり揃っていた。転寝くらいはできそうだが、夜ぐっすり眠るには少し簡素な部屋だ。
チェストまであった。まさかここに衣類が用意されていないよなと恐る恐る開けてみたが、何も入っていなかったことにほっと胸をなでおろす。
鞄の中から着替えをすべて取りだして、ソファの上に並べてみた。必要最小限の衣類しかない。いつも似たようなデザインのワンピースを着て、その上に魔法院の紺色のローブを羽織る。だからローブの下はなんでもいいといえば、なんでもいいのだ。
ネグリジェを脱いだリネットは、三つ並べたワンピースのどれを着ようかと悩む。いつもであれば一番上、一番手前にあったものを手にするのに、なぜか今日は悩んだ。それもこれもラウルのせいである。きっとどれを着ても、何かしら小言を言うのだろう。となれば、悩むだけ無駄なような気がして、ネグリジェと同じようなピンク色のワンピースを手に取った。
着替えて先ほどの寝室に戻ると、ラウルもすでに着替えを終えていたが、前髪はおろしたまま。そして何か言いたそうにリネットを見ている。
リボンの曲がり具合が気になっているのだろうか。
リネットが困って首を傾げると、ラウルは笑いながら近づいてくる。
「髪の毛、今日はボサボサだな。それに、ここのリボンも曲がっている」
やはりワンピースの腰のリボンがラウルは気になったようだ。髪の毛はまだ梳かしていない。どうせ帽子をかぶるしという気持ちもあった。それに、ぼさぼさの髪は昨日だって同じだ。たまにブリタが魔法で整えてくれる。
「そこに座りなさい」
ソファを促されたリネットは、素直に従った。ラウルはリネットの背後に立ち、髪の毛を梳かし始める。
「君の髪は、変わった色をしているな」
「こちらでは、あまり見かけない色かもしれませんね」
「あぁ、そうか。スサ小国の出身だと言っていたな」
ラウルは力が強いものの、それでも繊細に髪を梳かしていく。最初はブラシが髪の毛に引っかかってなかなか通らなかったが、最後には真っすぐにつやつやに輝いていた。
「やっぱり、君の髪はきれいだな。よし、散歩に行くか」
まるでブリタの魔法を受けたかのように髪が整っている。しかも帽子をかぶりやすいようにと、低い位置で結わえてくれた。
リネットは葡萄色の帽子を迷わずかぶった。
するとラウルがリネットの全身をさっと見回した。
何か言われるのかと思って身構えたが、彼は特に何も言わず、そっと手を差し出してきた。リネットは黙ってその手に自分の手を重ねる。
これから朝の散歩の時間だ。散歩コースは昨日と同じで代わり映えしないと思っていたのに、昨日より花の蕾が膨らんでいるとか、風があたたかくなっているとか。そんなことに気づいて、リネットも自然と笑みをこぼす。
小屋の裏でヒースと一緒に猫に餌をやり、ラウルがいる前でラウルの愚痴を言う。寝間着や下着まで用意するのはどういうことだと。
「恋人に寝間着を送るのは流行っているみたいなんですよ。だから私も団長に勧めたんですけどね」
ヒースまでもがそう言うのであれば、その話も嘘ではないのだろう。
「それから、リネットさんに私の妹を紹介したいのですが……」
きっとラウルの言っていた下着の件だ。
ちらっとラウルに視線を向けてみた。彼は気持ちよさそうに寝転んでいる猫のお腹をもふもふとなでていた。




