第三章(4)
ラウルが予約した煮込み料理の美味しい食堂は、騎士団の官舎から歩いて十分もかからない場所にあった。石畳の路地に面した小さな店で、窓から漏れる暖かな光が夜の冷気を和らげている。
そして悔しいことに、本当に美味しかったのだ。
口に入れたとたん、お肉がほろほろと溶け、食欲のないリネットもなんとか一人前を完食することができた。
「君が美味しそうに食べてくれてよかった。この店に連れてきた甲斐があったな」
夜風に頬をなでられながら、ラウルは嬉しそうにそう言った。
「あそこの食堂だったら、また行ってもいいですよ」
食堂からの帰り道も、ラウルはしっかりとリネットの手を握りしめていた。
朝も昼も彼と一緒に歩くときは、手を繋いだ。最初は驚いたものの、その触れ合いは両親と暮らしていたときの懐かしい記憶を呼び起こし、今では自然と受け入れられるようになった。
「帰ったらすぐに風呂の用意をしよう。リネットも疲れただろう?」
「はい。今日一日、団長さんに振り回されてくたくたです。あとは、お腹もぱんぱんです」
少し嫌みを込めて言ったつもりなのに、ラウルは気にする様子もない。
街灯でぼんやりと浮かび上がる二人の影は、恋人というにはまだどこかよそよそしい。
遠くからは人々の上機嫌な笑い声が聞こえてきた。酔っ払いだろう。
リネットはあからさまに顔をしかめる。酔っ払いは嫌いだ。
アルヴィスは嫌なことがあるとすぐにお酒を飲み、そしてリネットを呼びつけた。五人の側妃の中で最年少だったから、何かと八つ当たりの標的とされることも多かった。
苦々しい思い出に、身体がぶるっと震える。すると、ラウルが突然立ち止まって繋いでいた手を離したかと思うと、リネットの身体をあたたかな上着で包んだ。
「団長さん?」
「風が出てきたみたいだからな。寒いんじゃないのか?」
過去を思い出して震えただけだというのに、リネットが冷たい夜風で震えたと勘違いしたらしい。昼間はぽかぽかとあたたかな陽気だが、朝晩はぐっと冷え込む。だがぬくもり残る上着は心地よく、リネットはそれをしっかりと握りしめる。
「ありがとうございます」
「君に風邪をひかれたら困る。それに、キスをすると風邪がうつると聞いたこともあるからな。だから君が風邪をひけば、俺も風邪をひく」
その屁理屈が、リネットの心の中をくすぐったくて、ほかほかとした。
ラウルの部屋に着くと、リネットはふかふかのソファに身を投げ出した。
「君は本当に体力がないな。明日の朝も散歩する。だから今日は早く休みなさい」
そう言葉を残して、ラウルは浴室へと足を向ける。
その後ろ姿を見つめながら、リネットはソファに埋もれたままぼんやりとしていた。
にぎやかな食堂から静かな私室に戻ってきたことで、ほっと息を吐く。
だけど身体はくたくただった。いつもであれば、まだまだリネットの活動時間だというのに、今日はゆっくりとバスタブの中に身を沈めたい。
「リネット。湯の準備ができた」
両手足の袖をまくったラウルが、目の前に現れた。
「それから、今朝出した洗濯物は戻ってきている。浴室の籠の中に入っているが……」
「は、はい。ありがとうございます」
「あの寝間着はよくないな」
「へ?」
いったい彼は何を言っているのかと、リネットは首をひねる。
「今朝、着ていた寝間着だ。あれは布地が薄すぎる!」
あれはキサレータ帝国から持ってきたものだ。ブリタからも、隠すべきところがきちんと隠れていないと散々言われたが、誰に見せるわけでもないし、「ま、いっか」と思って今日までそのままにしておいた。
しかしラウルの部屋で寝泊まりするというのであれば、あの寝間着ではやはり駄目なような気がしてきた。
「はぁ……実は、師長からもご指摘を受けておりまして……。でも、別に寝るだけだし、いいかなって思っていました」
ギロリとラウルが鋭い視線を飛ばす。
「新しいものを準備しておいた。それも籠に入っているから、今日からはそれを着て寝なさい。それから」
まだあるの? と言いたくなったリネットだが、すんでのところでその言葉を呑み込んだ。
「洗濯メイドからは、その……君の下着が……まぁ、あれだ……」
「あぁ……古くさいとか、そんな感じですか?」
それもリネットに自覚はあった。しかし、着ることができればいいし、何よりも新しいものを買うために外に出るのが面倒だった。
「そうだ。そんな感じのことを言われたのだが……さすがにそれを俺が用意するわけにはいかないから、ヒースの妹に頼んだ。今日はちょっと我慢してくれ」
ヒースに妹がいたことも驚きだが、それよりもいろいろと言いたいことがある。
「いやいやいや、ちょっと待ってください。団長さん! その……ネグリジェも下着も、私、自分で準備できますし……その……今までは、必要性がなかったと言いますか、面倒くさかったと言いますか……別に、見せる人もいるわけでもないですし……」
顔を真っ赤にしたリネットだが、自分で何を言っているのかすら、わけがわからなくなった。
ただ、他人と一緒に寝泊まりするというのは、そういったところまで気を使わなければならないのだと、改めて感じただけ。
「お見苦しいものを見せて、申し訳ありません……」
リネットの頭にはその言葉しか思い浮かばない。
とりあえず逃げるようにして、浴室へと向かった。彼が言ったように籠にはリネットの着替えがきれいに畳まれている。スケスケのネグリジェの他に、透けない布地のネグリジェがあった。
ウザいと思っていたラウルだが、これはもはやウザいを通り越して、エドガーの言う保護者が適当なのかもしれない。
しかもバスタブには、花びらまで浮かんでいる。これは仕事のできる使用人の領域だ。
なんとも言えぬ感情が浮かんできたが、好意は素直に受け取っておく。
お湯に身体を沈めて、リネットはほぅと息を吐いた。
(そういえば……不自由なく暮らしてほしいって、言っていたっけ……)
朝からラウルはそんなことを口にしていたはず。呪いの緩和のためにリネットを巻き込んだことに罪悪感があるのだろう。だから何かとリネットを気にかけているに違いない。
(ウザいけど……)
朝昼晩と、見事にラウルに引っ張り回された。今までの平穏な生活に突如と訪れた、嵐のような存在。
でも、ウザいウザいとは言いつつ、リネットはそのウザさを楽しんでいた。いや、喜びなのかもしれない。
スサ小国を離れて五年。今では成人を迎え、大人の仲間入りをしたが、やはりあの年で親や家族と引き離された寂しさが、心のどこかに巣くっていた。それにアルヴィスはリネットを妃として扱っていなかった。ただの都合のいい駒。忠実な僕のようなもの。
だからラウルが帽子を送ってくれたり、何かと気にかけてくれるのは嬉しい。
だけど、今までと同じぐうたらとした生活を望みたいという気持ちもある。できるだけ他人と関係をもたない暮らし。
そしてこうやって彼の行動によって心掻き乱されるのが悔しい。
身体があたたまったところで、湯から出る。ほかほかと、腕から湯気が立ち上っていた。それと同時に、花の甘い香りがするのはバスタブに浮かんだ花びらのせいだ。
真新しいネグリジェは肌触りも滑らかで着心地がいい。
「お風呂とこれ、ありがとうございました」
部屋に戻ったところで、リネットは礼を口にした。
「ああ……」
頷いたラウルの視線は、リネットの全身をざっと見回したように見えた。
「どうかされました?」
「いや……サイズがわからなかったが……店員の言っていたことは正しかったと、そう思っただけだ」
「これって……団長さん、自ら買いにいったんですか?」
「そうだな。今日の見回りのついでに。だから気にするな」
気にするなと言われても、リネットとしてはやはりいろいろと気になってしまう。
「お店の人には、何か言われませんでしたか?」
「いや、特に? ヒースが言うには、恋人に寝間着を送るのは、最近の流行りだとも聞いた」
その話はリネットも初耳だ。いや、そもそもリネットはそういった流行に疎い。
「まぁ……だから、あれだ。俺と君は恋人同士と周囲には思われているわけだ。だから、最近の流行りに乗って、俺が君に寝間着を送るのは、何も問題ない」
そう言い切ったラウルは、浴室に消えていった。




