プロローグ
ドンドンドンドン、ドンドンドンドン――
勢いよく扉を叩く音で、リネットは目が覚めた。まだ頭はぼんやりとし、瞼も重くて半分しか開かない。
それでも身体を起こし、よろよろと扉を開けると、そこには魔法師長のブリタが立っていた。濃紺のローブを羽織り、威厳あるたたずまいでリネットを見下ろすブリタと、目が合った。
「おはようございます、師長……。こんな朝早くから、どんなご用ですか……?」
あくびまじりに挨拶をしたリネットに、ブリタは細めた目で鋭い視線を投げかけた。
「おはようでも、朝早くでもないよ。いったい、何時だと思っているんだい。もう昼過ぎだよ。患者が来たんだ。リネット、あれはあんたでなければ対応できない患者だ」
ブリタは六十歳を過ぎたと聞いているが、三十代にしか見えない美貌の持ち主だ。濃い色の髪は魔力を持つ者の象徴ともされており、背中に流れるそのチョコレート色の髪はまるで絹のように艶やかである。かつてはブリタの治療を求めて、魔法院に男性たちが列をなした時期もあったという。
あまりの熱狂にうんざりしたブリタは、実年齢を公表し、夫がいて孫までいることも公にしている。それ以降、美魔女と呼ばれているが、それでも彼女の治療を希望する男性は後を絶たない。
「はぁ……では、今、行きます……」
よろよろしながらリネットが部屋から出ようとすれば「ちょい、お待ち」とブリタに止められる。
「あんた、その格好で人前に出るつもりかい? いつも言っているだろう? 隠すところはきちんと隠して。こんな胸の先っちょが透けるような寝間着でいったら、患者にパクッと食べられちゃうよ?」
「あれ? 患者さんは人間ではなく熊さんですか?」
人間を食べると聞いたら、なぜかリネットの頭には熊が思い浮かんだ。
「いや、あれは熊というよりはオオカミだね。とにかく、肌が透けない服に着替えなさい」
ブリタが指をパチンと鳴らすと、魔法の風がリネットを包み込んだ。次の瞬間、ネグリジェ姿だったリネットは、清楚なワンピースに魔法師特有の紺色のローブを羽織った姿に変わっていた。ローブの裾には銀糸で魔法院の紋章が刺繍され、装いに厳かな雰囲気を添えている。
寝癖でボサボサだった深緑の髪も、まるで森の木漏れ日を思わせる色合いに整えられ、馬の尻尾のように一つにまとめられた。
「うわぁ、師長。ありがとうございます。お母さんみたい」
「お母さんねぇ?」
ブリタは苦笑するものの「おばあちゃんと言われなかっただけ、まだマシかな?」と付け加える。その声には、どこか愛嬌と自嘲が混じっている。
それでも寝起きのリネットは、歩いているだけだというのにあっちへふらふらこっちへふらふらと、真っすぐに進まない。あきれたブリタは、そんな彼女の手を引っ張って、治療室へと向かった。
石造りの廊下を進むたびに、ブーツの音がコツコツと響き、魔法院の歴史ある雰囲気が二人を包む。
「おまたせ。魔法師一番の解呪師を連れてきたよ。そう見えないかもしれないけど、腕は確かさ」
ブリタの言葉とともに治療室の重い扉を開けると、室内は異様な熱気に包まれていた。まるで夏の森に迷い込んだような、むっとする空気。リネットの寝ぼけ眼も、一瞬で覚めた。
「おそよう、リネット」
先輩魔法師のエドガーが、ニヤリと笑いながらリネットの顔をのぞき込んできた。
「エドガー先輩のイケメンっぷりは寝起きに悪いので、あっちに行ってください」
エドガーの黒い髪は夜空に星をちりばめたように光を反射させ、切れ長の黒い瞳は見る者を引き込んでしまう。濃い色の髪と瞳は、典型的な魔力持ちの特徴であり、彼の美貌をさらに高めていた。
「けなされているのか褒められているのかよくわからないけど、あそこにいるのが患者だから」
エドガーが顎でしゃくった先には、椅子に括りつけられている男性がいた。両手は背中で縄に縛られたうえに両足は椅子の脚に固定され、さらに猿ぐつわまでかまされている。銀糸のような繊細な髪は汗で額にぴったりと張り付き、宝石のような青い目は、まるで腹を空かせた肉食獣が獲物を狙うようにぎらぎらと輝く。
騎士の制服を身にまとっているが、その威厳ある姿もどこか野性的だった。胸元の徽章には第七騎士団の紋章が輝き、彼の地位を物語っている。
「詳しくはこの男から聞いて」
エドガーが面倒くさそうに顎で示したのは、別の男性。
「あの……」
そうリネットに声をかけてきたのは、騎士服に身を包む彼だ。背筋を伸ばし、緊張した面持ちで立っていた。おそらくこの患者の付き添いだろう。
「私は、第七騎士団副団長のヒース・ルドバリと申します」
「あ、はじめまして。魔法師のリネットです。一応、解呪を担当しています」
「呪いを専門にされている方ですよね。あそこで苦しんでいるのが、第七騎士団団長のラウル・ハリーです」
「はぁ……」
リネットが間抜けに返事をしてしまったのも、それは苦しむラウルの股間に釘付けだったからだ。ズボンの布地が、今にも破れんばかりに盛り上がっている。まるでそこに別の生き物が潜んでいるかのようだ。
「我々第七騎士団は、先日までヤゴル遺跡に派遣されておりまして……」
「あぁ!」
そこでリネットは納得したようにポンと手を打ち、焦げ茶の目を大きく見開いた。
「こちらの団長さん。ヤゴル遺跡で呪われてきたんですね。ああ、なるほどなるほど。納得です」
ヒースがきょとんと目を丸くする。
「えぇとですね。こちらの団長さんは、見るからに発情されておりますよね」
そこでリネットはラウルとエドガーの股間を見比べる。
「おい、リネット。そのわざとらしい比較をやめろ」
「だって、あの団長さん……すごすぎませんか?」
ラウルの股間は、布地を限界まで押し上げ、まるで爆発寸前に見える。
「男はみんな、元気になればあんな感じになるんだよ」
「エドガー先輩も?」
「僕のことはいいから、早くあの患者をなんとかしろ」
「なんとかしろと言われましても……今のところ、この呪いを解く方法はありません!」
両手を腰に当て、胸を張ってリネットは堂々と答えた。
「ちなみにリネット。この患者をこのまま放っておくと、どうなる?」
口を挟んだのはブリタである。その声には、いつもの冷静さと好奇心が混じっていた。
「はい。発情の呪いにかけられていますので、もうヤりたくてヤりたくて仕方ありません。穴という穴を見つけたら、突っ込むと思います」
なぜかヒースが、反射的に自身の臀部を両手で覆った。
「じゃあ、それは危険だから、このまま縛っておくしかないね?」
ブリタがしれっと答える。
「う~ん。そうなりますと、この人、発情のしすぎで死にますね。えぇと、死因は発情死? 腹上死?」
「ん~、んんっ!」
猿ぐつわ越しに、ラウルは「それは嫌だ」と全身で訴える。
「まさしく、ヤるかヤられるかっていう状況か……」
「エドガー先輩。うまいこと言いますね。でも、呪いは解けないけど、症状を緩和する方法はありますよ?」
「んっ!!」
興奮しまくっているラウルだというのに、症状緩和でさらに気持ちが昂ぶったらしい。
「それを早く言いなよ」
エドガーがツッコミを入れた。
だが、リネットは動じず、淡々と説明を続ける。
「今のところ、呪いを完全に解く方法はありません。だけど、この発情を抑える方法はあるんです。この呪いって、昔、ヤゴル地方に両片思いのじれじれカップルがいて、それにイラッとした友人が『さっさとくっつけ!』って気持ちでかけたものなんです」
「なんだよ、その呪いは」
呆れたようにぼやいたのは、やはりエドガーだった。
「呪い事典に書いてあったのを思い出したんです。多分、症状から判断して合っていると思います。が、時間がないので、とりあえず緩和方法を試してみますか?」
「はい、お願いします」
ヒースが切実に訴えてきた。
「ええとですね。この呪い。正式名称は、毎日『おはようのキス』をしないと発情する呪いといいまして、今、団長さんが発情しているのは、おはようのキスをしていないからなんです」
「つまり、『おはようのキス』さえすれば、団長の症状はやわらぐということですか?」
ヒースが確認するかのように尋ねた。
「はい。ですので早く団長さんの奥さんなり恋人なり連れてきて、ぶちゅっと濃厚に『おはようのキス』をしていただければ、まるっと解決です。ただ、呪いが解けるまで、毎日キスを続けていただく必要はあります。一応、その間に、私のほうでも呪いを完璧に解く方法を調べますが……」
そこでヒースは表情を曇らせる。
「団長は、独身、恋人なしなのですが……ちなみに、キスの相手は誰でもいいのでしょうか? 例えば……その私でも? 私も一応独身なので……」
「はい、人間であれば老若男女問いません。ただ、一度キスをしてしまうと、呪いが解けるまでその人と毎日キスをしなければならないので……」
ラウルが必死に首を横に振っているのは、ヒースと毎日「おはようのキス」をしたくないという意思表示だろう。
「もう、プロでもなんでもよろしいかと思います。呪われてから、かなり時間が経っておりますよね? できるだけ早く『おはようのキス』をするのをおすすめします。これ、呪いを受けてから三日以内にキスしないと……」
「ですが、相手がいません!」
ヒースが心の底から訴えた。
「あぁ!」
そこでリネットは何かを思いついたかのように、ポンと手を打った。
「だったら、本人に選んでもらえばいいのでは? 一応、ここには四人、候補者がいるわけですし……」
それはリネット(独身、女性)をはじめ、魔法師長ブリタ(既婚、女性)、魔法師のエドガー(独身、男性)、そしてラウルの部下で騎士のヒース(独身、男性)の四人だ。
エドガーは驚き「僕も?」と自身を指さす。
「もしプロがよければ、エドガー先輩御用達の娼館から紹介してもらいますので、好みのタイプを教えてください。ただ、これから呪いが解けるまでの間、その方を独占する形になるので、それなりの金額になるかと……」
「リネット。なんで僕がよく行く娼館とか知っているわけ? っていうか、知っててもそれ言っちゃ駄目なやつでしょ? そして勝手に僕まで候補にいれないで! 僕、男は対象外だし」
そうですか? とリネットは無邪気に首を傾げた。
しばし沈黙の後、「わかりました」とヒースが意を決する。
「とにかく団長に選んでもらうことにします。この猿ぐつわ、外しても問題ないですよね?」
ヒースが恐る恐る猿ぐつわを外すと、ラウルは腹を空かせたオオカミのようにだらだらと涎をたらしつつ、リネットにその青い瞳を向けてきた。その視線は、まるで獲物を狙う獣のようだ。
リネットもラウルを真っすぐに見つめ返す。
「では、団長さん。お聞きします。これから毎日『おはようのキス』をする相手は、誰にしますか?」
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