第46話 おためし(前編)
――僕は今、保健室にいた。
怪我した手に包帯を巻いてもらい、叔母からここで待機するように言われていた。
しばらくして、母が入室してくる。
僕の向かいに腰掛けると、畏まって尋ねた。
「もう、落ち着いた……?」
「うん……ごめん母さん」
「あの子と、2人で話しをしてきたわ」
「そっか……」
「冬月さんだったかしら。彼女は母親を早くに亡くしているから、本当ならあなたと私の仲を引き裂くような真似はしたくない。でも、あなたと今離れるのは、死ぬより辛いって。彼女の言葉は、嘘を言っているようにも大袈裟にも聞こえなくて、なんだか圧倒されてしまったわ」
「冬月さんが、そんなことを母さんに話したの?」
「春人、よっぽど好かれているのね」
「どうかな。まだ僕の片思いだと思ってるけど」
「あなた、将来の夢は見つかった?」
「まだだけど……」
「じゃあやっぱり、大学には進学しなさい。勿論どこでもいいって訳じゃなくて、こっちだったら、そうね、国立の大学しか認めないわ」
「え……? それって……」
「これが私からの、春人がこの町に残る条件。約束できる?」
「うん。勉強、頑張るよ。ありがとう母さん」
「お礼は全部、あの子に言いなさい。いつか東京にも2人で遊びに来て。その時は、3人で食事でもしましょう」
こうして母は、1人で東京へ帰って行った。
一方僕は、応接室の備品を壊したことで、3日間の自宅謹慎処分となった。
長かった梅雨が明け、この町にも夏がやってきた。
母の来襲から約1ヶ月経った今でも、僕と冬月さんの関係に相変わらず進展はなく、友達以上恋人未満というような状況が続いていた。
そんな折、冬月さんから今週末にある3連休の予定を全て空けておくようにと言付かった。
連休初日、何も聞かされていない僕は、迎えに来てくれた冬月さんにピカピカな黒い車へと乗せられた。
目的地らしき海辺に建てられた冬月家の別荘へと到着し僕らを降ろすと、車はすぐに引き返してしまう。
「冬月さん、これは一体……」
「喜びなさい。今日から3日間、あなたを私のお試し彼氏にしてあげるわ」
「は? どゆこと?」
「車なら試乗、服なら試着があるのに、彼氏にはお試しがないのはおかしいと思わない?」
「だって人間だからね」
「うるさいわね。嫌なら帰れば?」
「着いてからそれ言う? まぁ嫌じゃないけど」
別荘の中へと移動して荷物を置くと、冬月さんは今回の催しのルール説明を始めた。
「私がスタートと言ったら、それから3日後の迎えの車が到着するまで、私たちは仮の恋人になるわ」
「うん、ちなみにそれっていつもとどう違うの? なにか特別なことでもするの?」
「そうね……とりあえず、下の名前で呼び合うとか……かしら……?」
冬月さんは自分で言い出したくせに耳を真っ赤にさせて萎縮していた。
「わ、分かったよ……雪乃、さん」
「そこは呼び捨てでしょう普通……なんだかお婆さんになったみたいじゃない」
「じゃあ、雪乃……今日は暑いね……」
「そうね、春人……じゃあ、スタート……」
これしきで恥ずかしくなってしまった僕たちは、しばらく無言を通した。
気まずい空気感に耐えられなくなったのか、立ち上がり窓際にもたれながら外を眺める冬月さん。屋内でも絵になるその佇まいを、僕は思いがけずスマホのカメラで写真に収めてしまう。
シャッター音に気付いた彼女は、こちらに怪訝な視線を送った。
「それ、盗撮よ?」
「でも今は……ゆ、雪乃は僕の彼女なんだし、彼氏が彼女の写真を撮るなんてよくあることだと思うけど……」
「今回は……は、春人に一理あるわね」
お互いがぎこちなく名前を呼び合う様に、自然と顔が綻び、見つめ合って笑い合う。
まだ仮ではあるけれど、本当にこんな日がやってくるとは……生きてて良かった。心からそう思える。
お昼になると、冬月さん……雪乃は、昼食にパスタを作ってくれた。
「どうかしら……?」
僕が食べるのを待って、不安げに尋ねる。
「すっごく美味しいよ。ありがとう」
ホッと胸を撫で下ろすと、彼女もフォークを手にとった。
「良かった……このお野菜、合宿でお世話になったあの農家さんから取り寄せたの」
「そっか……なんだかんだあの合宿も楽しかったよね」
「ええ……今回は2人きりだから、誰の目を気にすることもないわ……」
「それ、どういう意味……?」
僕の問いに、焦りを隠せない様子の雪乃は動揺しながら返す。
「で、でも言っておくけど、もちろん寝室は別よ……!?」
「分かってるよ。まだお試しだもんね」
「それなら、いいのだけど……」
昼食を終えると、僕らはすぐそばにある海へと出かけることに。
プライベートビーチだと聞いていたから、てっきり水着姿を拝めるものかと思っていたけれど、準備を終えて部屋から出てきた雪乃の服装は、さっきまでと変わらないワンピース姿だった。
「なによ、その期待外れみたいな顔は」
「だって、流石に期待するでしょ」
「あなただって水着を着ていないじゃない」
「僕は何も聞かされてなかったから、水着なんて持ってきてないし」
「それもそうね……でも、どうせ誰もいないのだから、泳ぎたくなったら全裸で入れば?」
そう、おちょくったように告げた。だから僕は、たまには反撃してみた。
「雪乃が一緒に入ってくれるならそうするよ」
お嬢様は目をカッと開く。
「わ、私に全裸になれって言いたいの!?」
「冗談だよ」
その面白い反応に僕がフフと笑うと、雪乃は恥ずかしそうにワンピースのスカートを捲り上げ始めた。
「は、ちょっと! 何やってるの!?」
慌てて目を塞いだけれど、すぐさま笑い混じりに「下に水着着ているから、目を開けていいわよ?」と言われ、恐る恐る目を開ける。
「ど、どうかしら……?」
フリルがあしらわれた黒色のビキニ姿だった。初めて見る彼女の白く艶めく柔肌に、思わずゴクリと息を呑む。
「すごく……可愛い……抱きしめたい……って、思いました……」
「そ、そう……でも触れるのはまだ駄目だから……み、見るだけよ……?」
とんだ生殺しだが、彼女のそんな表情も、愛おしくてたまらない。
しばらく海で遊んだ僕たちはドッと疲れてしまい、夕飯を済ませるとすぐに別々の寝室で眠りについた。
すると、あの合宿と同じように、僕の部屋の扉がそーっと開いた。
今回は包丁ではなく枕を持って現れた、天使のようなお姫様は顔を赤らめて言う。
「ちょっと寂しくなったから、やっぱり一緒に寝てもいい……?」




