番外編 クロユリ姫殺人記録#8 『扼殺(上)』
これは――僕が飛鳥先輩や夏樹ちゃんと出会うより、ほんの少しだけ前の物語。
――僕は走っていた。
謎の腹痛に襲われて長時間トイレに篭っていたせいで、5限目の体育の授業に遅れそうだったからだ。
更衣室が見えた刹那、すってんころりん。
目まぐるしく見えていた景色が一変したかと思うと、柔道など格闘技未経験の僕には受け身などとれる筈もなく、背中から地面に落ちた。痛い。すごく痛い。
すぐには立ち上がれず、老人のように床を這いつくばっていると、僕が転倒した原因であろう物体と目と目が合う。
ここは南国でもジャングルでもスーパーでも、家の台所でもないし、学校の廊下には普通は存在しない、違和感満載の……バナナの皮。
それを見て、なんとなく理解した。
この一連の不運は全て、人為的なものであると。
「冬月さん、どうせどこかで見てんでしょ? 出てきなよ」
廊下の影から、よく見知った愛らしいシルエットが姿を現す。長い白銀のツインテールをひらりとはためかせながら、その希望のない表情には悪意だけが満ちている。
「あら、よく分かったわね」
「もしかして、僕のお昼のパンに、なんか入れた……?」
いや、でもパンの袋の封が確かに閉じられていたのを確認してから食べたし、僕が購買でパンを買ってから屋上へ行くまでのあの一瞬で、毒など混入させる暇があっただろうか。
「いいえ、私はそんなことしていないわ」
「そっか……じゃあ、この腹痛は僕の思い過ごしだね。疑ってごめん……」
「そうやってなんでもかんでも私を疑うだなんて……心外だわ。もっと誠意を込めて謝罪しなさい? 私はあなたのパンをこっそり1週間前に買ったパンとすり替えただけよ」
「やっぱり冬月さんが犯人じゃないか! どおりでちょっと酸っぱい匂いがしてたんだ!」
「美味しい? って聞いたら『うん』って、いつものアホ面で答えていたじゃない。あの滑稽な姿はかなり見ものだったけれど……」
白雪姫は、氷点下の冷たい笑顔で思い出し笑いを堪えていた。
「というか、腐ったパンとかバナナの皮なんかで僕が死ぬと思ったの?」
「そんな訳ないじゃない。花森君、何度殺しても死んでくれないから、これはただの嫌がらせ」
「こんな原始的な嫌がらせに引っかかる僕も僕だけど、それを考えて本当に実行しちゃう冬月さんて、もしかして天然なの?」
「それ、馬鹿にしているのかしら?」
「そんなつもりはないけど、ちょっと発想が子供みたいだなって……」
彼女の表情が、完全に氷河期を迎える。
「――死ね」
そう吐き捨てて、僕に背中を向けた。
美しい顔立ちの儚げな少女から飛び出したとは到底思えない辛辣な言葉。手の込んだ皮肉や誹謗中傷なんかより、ストレートな言葉の方がずっと心にくるものがあった。
それにこれは、一般的に耳にするような冗談混じりの「死ね」ではない。心の底から溢れ出た、嘘偽りない本気の殺意。
――果たして、ただの高校生の僕なんかに、冷たく凍りついてしまった白雪姫の心を改心させることなど、本当に出来るのだろうか。
体育の授業でバレーボールの試合に参加している最中もずっと考え事をしていて上の空だった僕は、物凄いスピードでこちらへ迫ってくるボールに気が付かなかった。
見事なまでの顔面レシーブを決めると、チームメイトや観戦していた他の生徒たちから、無言の拍手が送られる。
その代償は、滴り落ちる鼻からの出血だった。多少はチームに貢献が出来たものの、僕はここで名誉の退場となる。
「は、花守……だ、大丈夫か……? 俺、保健室連れてくぞ?」
僕にボールをぶつけてしまったバレー部員の男子生徒が心配そうに見つめる。
「だ、大丈夫だよ……1人で歩けるから……」
「ほ、ホントかよ。ごめん、結構本気で打っちゃったから、ちゃんと冷やした方がいいぞ?」
「あ、ありがとう……そうするよ」
1人で歩いて保健室へと向かう道中、まだそこに残っていたバナナの皮を見て、ため息が溢れる。本当に不幸続きで散々な1日だ。今日家に帰ったら、これまで押入れに大事にしまっていたクッキーを、1箱全部食べよう。そんな些細な贅沢を想像しながら、心を落ち着かせた。
でも僕の不幸は、こんな程度では終わってくれない。
保健室へ入ると、入口の扉の陰から視線を感じて振り返る。
そこにいたのは保健の先生などではなく、それとは全くもって逆の性質を持つ人物だった。
僕の命を狙うクロユリ姫――冬月雪乃。
体操服に身を包む、その可憐な死神は、不適な笑みを浮かべていた。




