第3話 放火
「冬月さん!!」
つい――彼女の前へ飛び出してしまった。
階段で腰掛けていた彼女は、驚くほどに冷静な顔つきをしている。今の今まで淡々と語っていた恐ろしい独り言などなかったかのように、微動だにせず僕の呼びかけに応じた。
「なに?」
いつもは宝石のように眩いばかりの彼女の瞳は、一切の光を失っていた。それどころか、どす黒く濁ってさえ見える。さっきから確かに目が合っている筈なのに、彼女の視界には、あたかも僕なんて映っていないかのように感じていた。
「……午後の授業休んでたから、具合でも悪いのかと思って心配になって……」
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
「……そう。でも大丈夫、この通り元気よ。急ぎの用事が出来たから、私は先に帰らせてもらうわね。花守君、さようなら……」
一体どこをどう見たら元気なのか、そう言いかけたけど言葉にならない。そのサヨナラは、また明日という意味とは違うのではないか……この短い会話の中で聞きたいことは他にも山程あったけど、そのどれもが喉の奥に引っかかって上手く取り出せない。僕がグズグズしている間に、冬月さんの姿はもう見えなくなっていた。
僕には所詮……何も出来やしない。そう思って帰路についた。さびれた商店街のアーケードをくぐり、『フラワーはなもり』の店内を通って2階の自室へと向かっていると、レジに座り寝息を立てていた祖父が目を覚ます。
「んぁ春人……おかえり」
「ただいま爺ちゃん。起こしちゃった?」
「わしゃ最初から寝とらん」
「嘘だぁ、イビキかいてたよ?」
祖父はサンタクロースのようにフサフサな白いヒゲを触りながら笑顔を向ける。それとは対照的な頭髪の薄さは、僕の将来を不安にさせる要因だったけれど、まぁ年相応と言えばそうなのかもしれない。
「ねぇ爺ちゃん……婆ちゃんが死んじゃった時、泣いた?」
「いきなりどうしたんじゃ?」
祖父は眼鏡を外し、不安そうな顔で僕を見つめる。
「なんとなく気になって……」
「そりゃあ……人生で一番泣いたさ。なぜあの日に限って、アイツを1人で仕入れに行かせてしまったのか……悔やんでも悔やみきれん」
僕の祖母は、僕が生まれてすぐに仕事中の事故で亡くなっていた。写真でしか見たことはないけど、とっても優しい人だったと祖父からは聞いていた。
「もしもその日に戻れるとしたら……どうする?」
「縛りつけてでも、仕入れには行かせんじゃろうな……」
「でもその代わりに、爺ちゃんが死んじゃうとしたら?」
「それでも……変われるもんなら変わってやりたいわい……」
「そっか……」
「……学校で何かあったのか?」
「ううん、なんでもないよ」
僕は6畳の自室に入ると、すぐに畳の上で横になり天井を見つめて思いに耽る。父が昔使っていた勉強机と、そこそこ大きな本棚だけが置かれた殺風景なこの部屋は、まるで今の僕の心情そのものを映し出しているかのような気がした。
どうしてもモヤモヤが消えなくて、しばし自問自答を続けてみる――僕に1人の女の子を救うことなんて出来るだろうか…………いや出来ない。じゃあ僕が千秋の代わりに冬月さんの彼氏になる…………それは思い上がりも甚だしい。それなら、彼女じゃなくて、大切に育ててきた花を守る…………これなら、出来るかもしれない。
――気付いた時には僕は、家を飛び出していた。
校舎の入り口にある柱の影で座り込み、何も起こらないことを祈りながら、ただただ時間が過ぎるのを待った。日付が変わるくらいの時間が迫ってきて途中でウトウトしてまった僕は、ボトンッという音で目を覚ます。
音のした方を覗いてみると、花壇の前で青いポリ缶を両脇に置いて、立ち尽くしている冬月さんの姿を確認する。あれの中身は恐らく、ストーブ用の灯油だろうと想像出来た。彼女が蓋を開けて、それを辺りに撒こうとした瞬間に声をかけた。
「なに、してるの……?」
「誰……?」
彼女は驚いてポリ缶を地面に置くと、辺りをキョロキョロと見渡した。
「僕だよ。同じクラスの花守……」
僕が姿を見せて近付くと、彼女は深いため息をこぼす。
「そう……やっぱり聞かれていたのね。悪いけど、邪魔しないで貰える?」
「その花を育てたのは僕だ。そういう訳にはいかないよ」
「そんなの、また植えればいいじゃない」
「君にその花たちの命を奪う権利はない」
「この花が喋ったの? 人が死ぬ時、一緒に棺桶に花も入れるでしょう? それと同じじゃない」
「同じな訳あるもんか……殺人のついでに燃やされちゃ堪んないよ」
「あなたも見ていたなら分かるでしょう? 私が死にたくなるほど辛い目にあったこと……」
「知らないよそんなの。そんなつまらない妬みや嫉みに、罪のない花たちを巻き込むな! 死ぬなら……誰にも迷惑をかけずに1人で死んでくれよ!」
「あなた、なにをムキになっているの? 私に説教をするなんて大したものね、とてもウザいわ……すごくむしゃくしゃする……いいわ、見られてしまったからにはあなたも一緒に連れて行ってあげる。私と心中出来ることを光栄に思いなさい……手くらいなら繋いでてあげるから」
僕の手を引こうとする彼女に対して、僕は逆に彼女を押し倒して腰の辺りに跨ると、両手首を掴み頭よりも上の位置で抑えつけた。傍から見れば僕がこの子を犯そうと襲っている現場にしか見えないのだろうけど、それは事実とは異なる。僕は今、彼女が大罪を犯そうとしとているところを必死に体を張って止めているだけだ。
「……何をしようとしてるの? 警察を呼ぶわよ」
「呼ばれたら困るのは君の方だろ?」
「手は握ってあげるとは言ったけれど、それ以上を許したつもりはないわ。距離が近いし重い、離れなさい外道」
「君は所詮女の子だよ。どれだけ強い言葉を吐けても、力では僕に敵わない。もし君が今日ここで死んだとしても、その遺体を僕は誰にも見つからない場所へ遺棄する。そうすれば君は無駄死にだ」
「それなら、明日以降に予定を変更するだけよ」
「僕は毎日誰よりも、教師より早く登校しているんだ」
「……証拠は?」
「僕の叔母がここの教師だから、鍵も預かってる。だから君がここで死ねば、自ずと第一発見者は必ず、僕になる」
「そんな……」
「……だから君が最初に殺すべくは、君じゃなくて僕なんだ。心中なんかしない。だから……僕を最初に殺してみなよ!」
「……あなたのその目、もしかして……死にたいの?」
「もしかしたらそうかしれない。でも、君とは違う。本当に死にたいと思った時は、誰にも迷惑をかけずに死ぬ方法を見つけ出すよ……」
「……いいわ、そこまで言うなら、私は如何なる手段を持ってしても、あなたを先に殺してあげる……」
――こうして僕はなし崩し的に、世にも美しい白雪姫から命を狙われることとなった。