第16話 窮鳥懐に入れば猟師も殺さず
僕には、アニメや漫画の知識など、ほとんどない。
でも彼女とはなんだか境遇が似ていると感じたのか、まるで他人事とは思えなかった。
――僕が現実から逃げるように園芸に没頭したのと同じで、彼女にとっての心のよりどころは、頭の中で別の世界へ行くことだった。中学を卒業してそれを捨てようとした彼女の決意は、一体どれ程のものだったのだろうか……きっと、身を切るような思いだったに違いない。
「僕は、いたって普通の人間だよ……」
「そんな……そんなこと言わないでください! マスターには不思議な力が宿っているはずです! あたしは……あたしはこの目で、見たんです……」
――なぜ女性が涙を流す姿は、こんなにも美しく見えるんだろう。
僕の価値観が歪んでいるだけなのだろうか。もしそうだとしても、昔から言うように、男は女の涙には弱いらしい。
「この世界ではね……」
「え……」
風間さんはポカンとした表情で固まった。
「僕は前世の記憶とかはまだ思い出せないけど……今はこの世界でとある魔法を勉強しているんだ」
「それは……どんな魔法ですか……?」
「花を育てる魔法だよ。この周りにある花々は、全部僕が育てたんだ」
彼女は辺りをぐるっと大きく一周見渡して、ふたたび顔を僕へ向けた。
「す、すごいです……これを全部……マスターが?」
「うん……良かったら君も……いや、アネモネも、今度から一緒に手伝ってくれないかな? 今なら僕のこの世界での知り合いも、もれなく2人もついてくる。どうかな、園芸部に入ってみない?」
「マスター……あなたは、本物のマスターなんですか……?」
「それは分からない……でもこの学校では、僕は君の先輩だよ」
風間さんは、小さな子供のように「うわぁーん」と声を上げて泣き出した。彼女が泣き止むまで、僕はしばらくただ黙って隣に座っていた。
ようやく泣き止んだ風間さんへ、すぐそこの自販機から飲み物は何が良いか尋ねると、彼女はオレンジジュースと答えた。よく冷えた缶を手渡すと、おいしそうに口をつけた彼女の姿に僕はひとまず安心していた。
だけどその時、ざわざわと話し声を立てながら練習を終えたサッカー部員たちが中庭を通っていくと、僕は心臓が締め付けられる思いだった。嫌な予感がしていたけど、僕の会いたくない人間の姿はそこには無かった。全員が校舎の中へ入ると、僕はホッと胸を撫で下ろす。
――と、安心したのも束の間、聞きたくない声が中庭に響いた。
「こんなところで掃除かよ。お前にはお似合いな仕事だな、このゴミもついでに片付けとけよ」
突然現れた千秋は、僕の足元へ空き缶を投げた。カランコロンと音を立てて転がるそれを見たとき、僕は柄にもなく怒りを覚える。
「千秋、君は一体何がしたいんだよ。僕みたいな脇役なんかに構っている暇があったら、もっと平さんや飛鳥さんを大切にしなよ」
「飛鳥さんってお前……雪乃だけじゃなくて姉貴にまで近づきやがったのか? これ以上俺の周りを荒らすような真似しやがったら次は本当に殺すぞ」
「君は……ただの意気地なしじゃないか……本当に僕を殺したいなら、他人に実行役を任せるんじゃなくて自分でやれよ。僕は逃げも隠れもしない……これ以上つまらない嫉妬で彼女たちを意味もなく傷つけるなよ」
「はぁ? 俺がお前に嫉妬してるって? 笑わせんなよ、底辺の陰キャが」
「じゃあなんで僕を狙うんだ? 冬月さんと僕が仲良くしているのが気に食わなかったんだろう?」
「てめぇ……それ以上言ったらマジで殺すぞ」
僕はこいつが嫌いだ……でもなんて皮肉だろうか。僕の知り合いはもれなく全員あいつのことが好きだ。大好きだ。それも……死にたくなるくらい、罪を一緒に背負ってしまうくらい、自分の人生を棒に振ってもいいと思えるくらい。こいつを陥れれば、そのみんなを傷つけることになる。したがって僕には、千秋をどうすることも出来ない。でも……憎まれ口くらい、言ってやりたかった。
「殺してみなよ、チキン野郎」
憤怒の形相を見せた千秋は、僕を力いっぱいに殴り飛ばした。こうなることは、分かっていた。でも我慢ならなかった。人生で初めて人に殴られたけど、思ってたよりも痛くて、倒れた僕が口元に手を当てると、うっすら血がついていた。
興奮した千秋は僕を挑発するように捲し立てる。
「おい、立てよ陰キャ! 口だけかよテメーは!」
さっきまでおどおどとしていた風間さんは、両手を広げて僕と千秋の間に入ってきた。
「やめて下さい! これ以上マスターに乱暴しないで下さい!」
「ちっ、なんだよマスターって。お前こそ女に守られて情けなくねーのかよヘタレ野郎」
「風間さん、いいからそこどいて……危ないよ」
彼女は僕の忠告を受け入れてはくれなかった。
「ダメです、あたしはマスターに救われました。今度は、あたしの番です……」
彼女の綺麗な2本の足は、ブルブルと震えていた。
「あーうぜぇ……陰キャ同士勝手におままごとでもして慰め合ってろ。おい、これ以上俺の周りウロチョロすんじゃねーぞ」
千秋はそう吐き捨てると、転がっていた空き缶を蹴り飛ばして去っていった。
僕たちはまたベンチへ腰掛けると、風間さんはさっきの缶ジュースを、僕の腫れた頬に当てる。
「痛っ……」
「ご、ごめんなさい、でも早く冷やさないと……」
「ありがとう、自分でやるよ」
冷たいジュースを受け取ると、彼女は心配げな顔で僕を見つめた。
「なんで……あの力を使わなかったんですか? マスターならあんな奴……」
「言ったでしょ? 僕は普通の人間だよ。だからこの世界では、僕のことは名前で呼んでくれると嬉しいな」
彼女はなぜか、もじもじと恥ずかしそうにしていた。
「分かりました……春人先輩……」
――そ、そうきたか。普通に苗字で呼んでくれって意味だったんだけど……まぁ、いいか。
「風間さんは怪我とかしてない?」
僕が視線をやると、彼女は頬を膨らませて今度は不満げな顔を浮かべている。
「春人先輩だけ、ズルいです……」
「な、なにが……?」
「あたしにだけ、名前で呼ばせて……」
――これって、僕にも苗字じゃなくて下の名前で呼んで欲しいってことだよね……飛鳥先輩なら敬称は先輩で簡単だったけど、風間さんの場合はどうすればいいんだろう。まさか呼び捨てにする訳にはいかないし、夏樹後輩? 夏樹様? 夏樹殿? ああそうか、なぜかこの瞬間爺ちゃんの顔が浮かんだ。
「夏樹ちゃん……って呼んでもいい、かな?」
彼女は眩いばかりの笑顔を向けると、少しだけ顔を傾けて両目を閉じた。
「はいっ……」




