第12話 未必の故意
「千秋先輩、とりあえず頭を上げてください!」
「どうか弟を、許してあげて下さい……もしも許されるなら、私の人生全てを君に捧げたっていい」
先輩は僕へ向けて、床に這いつくばりながらひたすらに謝罪を続けた。
「いくら姉弟でも、なんでそこまでするんですか……?」
「あんな事をしでかしてしまったけど……私にとってはたった一人の大切な弟だから……本当は、根は優しくてとってもいい子なの!」
「僕には……百歩譲ったとしても、決していい奴には思えませんけど……」
「花守君っ!」
飛び跳ねるように立ち上がった千秋先輩は、僕の手を握ると自らの胸へと押し付けた。柔らかくてふんわりとした感触が、指から脳へ伝わる。明らかに容量オーバーな情報を含んだ電気信号に、僕の頭はショート寸前だった。
「ちょ、ちょっと先輩、何を……」
「これからどうすればいいの……? 脱げばいい? それとも君を脱がすのが先?」
「だから、違いますって!」
「ごめんなさい……初めてだから勝手が分からなくて……なんでも遠慮せずに言ってくれれば、絶対にNOとは言わないから」
「そ、そうじゃなくて……」
「もしかして……私が好みじゃなかった? それも言ってくれれば髪型も服装も君の言う通りにする……顔や体型だって整形したってかまわない、だから……」
目に涙を浮かべながら必死で僕に縋る先輩を、これ以上見ていられなかった。
「分かりました。僕の言うことなら、なんでも聞いてくれるんですよね?」
「もちろん言う通りにするわ、何をすればいい……?」
「一旦、落ち着いて話をしませんか?」
目線を下にやり僕の手を胸からゆっくり遠ざけると、先輩は小さく「はい……」と、答えた。
震えている先輩を年季の入ったボロボロなソファへ座るよう促すと、僕はさっきまで先輩が座っていた丸椅子に腰を下ろした。
「あれはやっぱり、千秋が平さんを利用したんですね」
「昨日、杏ちゃんから相談を受けたわ……君が食べたアップルパイは、奈良丸が彼女に持たせた物らしいの。弟は以前から君と雪乃ちゃんが仲良くしているのを良く思っていなかったたらしく、問い詰めたらあっさり白状した。でも……証拠はないだろって開き直っていたから、私がどうにかするしかないと思って……」
「千秋はなぜ平さんが僕にそれを渡すと分かったんでしょうか?」
「杏ちゃんへ夏休みになったら旅行しようと持ちかけて、詳しい話を君へ聞きに行くように誘導して毒入りのアップルパイを手土産に持たせた……と、本人は自慢げに語っていたわ」
「そうですか……」
「私も、同罪なの……」
「どういうことですか?」
「最近、奈良丸の様子がおかしいとは思ってた。あの子の部屋を調べたら毒物の本が出てきて、怪しいメモまで挟んであった……でも、私はそれを見て見ぬふりをした……」
「先輩も平さんも悪くありません。たとえそんな物見つけてもまさか行動に起こすなんて、誰も思いませんよ」
「それでも、私が代わりに一生かけて償います。だから弟のこと、どうか許して下さい……」
先輩は手を膝に置き腰を深く折り曲げると、その姿勢のまま静止して、僕の返事を待っているようだった。
「すみません先輩。それはたぶん……無理です」
体を起こさず首だけを上げて僕の顔を見た先輩は、焦ったように膝を床につき、また頭を下げようとした。僕はそれを、彼女の肩を押さえて止める。
「お願い……花守君……」
掠れた声で涙を流すおやゆび姫は……不謹慎かもしれないけど、とても儚げで美しかった。
「あいつを許す気はありませんが、だからと言って今のところは何もする気はありません。僕はこうしてまだ生きてますし……だから安心して下さい」
先輩は目をまん丸にさせて、僕の手を強く握りしめた。
「じゃ、じゃあ警察にも学校にも今回のことは……」
「言いません」
「ありがとう……ありがとう花守君……」
千秋先輩は既にほんのり赤く腫れてしまった目元から、今度は安堵の涙を流す。遠の昔に2限目が始まるチャイムは鳴ってしまっていたから、僕たちはここでもうしばらくズル休みすることにした。
「でも、先輩って噂とは大分雰囲気が違いますよね?」
僕の問いに彼女は照れくさそうに視線を反らす。
「おやゆび姫のことよね……あれは奈良丸に相手を傷付けない告白の断り方を尋ねたら、そうするように教わったの……バッサリ切り捨てるのが礼儀だって……」
「まさか、それを信じてやり続けちゃったんですか……?」
先輩のコクリと小さく頷く仕草が愛らしい。
「気付いた頃には噂が独り歩きして、私はとんでもなく高飛車な女ってことになっていた……私、目つきも悪いからその噂に段々と尾ヒレがついていって、次第に誰も話しかけてこなくなった……この部室は、花守先生が私の為に用意してくれた避難場所なの」
「少しだけ、ほんの少しだけ僕にもアイツの気持ちが分かります。きっと千秋は、大好きなお姉さんを誰にもとられたくなかったんだと思います」
僕の言葉を受けて、初めて千秋先輩が笑った――咲き誇るような満面の笑みだった。
「本当に!? 本当にそう思う!? やっぱりそうだったのね……でもあの子最近すごく冷たいの。話しかけてもうるさいしか言わないし、ずっと煙たがられていて、私は昔みたいに仲良くしたいだけのに……」
嬉しそうに早口で捲し立てる先輩の姿に、僕は笑いを堪えきれなかった。
「ははは……今までは疑惑でしたけど、これで確信しました。千秋先輩って重度のブラコンなんですね」
僕が腹を抱えて笑っていると、彼女は綻んだ表情を元へ戻し目線を下へ反らしながら頬を紅潮させていた。
「そんなに笑わなくても……」
「すみません、意外だったんでつい……」
「でも……君にとっても将来、弟になるんだから……」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「は? どういうことですか?」
「だって、私の人生と引き換えに奈良丸を許してくれたんでしょう? それって夫婦になるってことじゃないの? あれ、もしかして高望みだった? もちろん私は何番目でも、愛人だとしても文句なんて言わないから……」
「先輩……色々間違ってます」
僕は彼女に今回の件は無償で水に流すと何度も説明をしたが、何故か受け入れてもらえなかった。
「花守君を信用していない訳じゃないの。でも口約束じゃ、何かあった時に破綻するかもしれない。だから私を担保として君に預けておきたいの……そうだ、いっそのこと先に結婚して家族になってしまえば、身内を売ったりしないわよね? 花守君の誕生日はいつ?」
「先輩、飛躍し過ぎです……それなら僕からひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
――身構えた先輩の生唾を飲む込む音が、微かに聞こえた。




