口裂け女の告白
5年2組の教室では夏休み前の最後の終礼が始まろうとしていた。開いた窓から吹き込んでくる渓谷の冷たい風が汗ばんだ首筋を心地よく撫でる。
教壇に立つ明美は、深い呼吸をした後、顔を上げて、児童たちを見渡した。
「先生がこの村の小学校に赴任してきて、4カ月が経ちました。突然でごめんなさい、先生はこの村を出ることに決めました。」
教室にざわめきが起こった。明美は続けた。
「先生は皆さんのことを愛おしく思います。この気持ちに偽りはありません。でもね、もう耐えられないのよ。みんなを欺いたまま、毎日を過ごすのが、心苦しいの・・・
先生はね、ここに来る前に岐阜県のある町で教師をしていました。週末のある日、北アルプスの谷間にある河原でキャンプをしていたら、鉄砲水に流されちゃってね、気付いたら、あなたたちの村に漂流していた。そして、村の人に助けられたの。
記憶を失っていた私はこの村で看病され、3日後に記憶を取り戻すと、お世話になった恩返しも兼ねて、この村の小学校の教師の職に就いた。そして今に至るわけ。」
児童たちが再びざわついた。
「皆さんはおそらく知らないでしょうね。先生がこの村に来る前に住んでいた町で70年代に起きた口裂け女の騒動を。子供たちがどこで思い付いたのか、そんな噂をし始めて、それが勝手に広まっちゃって、警察が出動する騒動にまで広がっちゃったの。噂っていうのは恐いものよね。でもね、それは単なる噂ではなかったの。実際に口裂け女は存在するの。」
男子児童の一人が質問した。
「口裂け女ってなんですか。口が裂けてるって当たり前ですよね。」
明美は、やさしい口調で説明する。
「あのね、口裂け女の口はね、耳の付け根まで裂けているの。これはね、普通じゃないのよ。とっても怖い顔なの。」
児童たちが目を丸くして、こちらを見つめている。静寂の中、息を呑む音が聞こえるようだった。明美は続けた。
「ある子供の証言によるとね、耳まで口の裂けた女の人がその子に襲いかかったっていうの。背が高くて、きれいな女の人が話しかけてきたんだけど、最初はマスクをしていて気付かなかった。でもね。その人が突然マスクを取ってその子に聞いたの『わたし、きれい?』ってね。その子はその姿を見て、驚いて、目を背けて逃げ出したの。そしたら、手に鎌を持って追いかけてきた。全力で走ったけど、相手も速くて、もう殺されるかと思ったの。その瞬間、交番が見えたから、そのまま叫びながら駆け込んだ。お巡りさんが外に出るともうその女の人はいなかったの。
賢いあなたたちなら、もう察しがついたでしょう。先生はここにいるべきじゃないのよ。」
明美はしばしの沈黙の後、顔をおおって、声をふるわせた。
「先生も頑張ってきたの。でも、もう耐えられないのよ・・・。あなたたちはとっても良い子だったし、あなたたちをしっかりした大人に育てようと、努力してきたつもり・・・。でもね、あなたたちの顔を見ると、つらくなるの・・・それはあなたたちを愛しているが故なの・・・」
児童たちの大半は事情を完全に呑み込めていないようだったが、感の良さそうな女子が言った。
「ところで、先生、どうしていつもマスクしているんですか。私たちの前でマスクを取ったことないですよね。夏になっても、この村でマスクしているのなんて、先生ぐらいですよ。美人さんなのにもったいないなって男子は良く言ってますよ。最後ぐらい、顔を見せてください。」
「わかったわ。この際、すべて白状しましょう。あなたたちはショックを受けるでしょうけど、やはり、真実を知るべきなのだから。」
明美は耳まで覆われたブルーのマスクを外し、口元を露わにした。
児童たちは目を疑った。呆然とする者、目を背ける者、泣き叫ぶ者、教室は恐怖に支配された。これまで優しく接してくれた先生への信頼と目の前のおぞましい姿とのギャップに混乱していた。
1人の女子が叫んだ。
「きゃー、気持ち悪い! も、もういいよ、先生! マスクでその口、隠してよ!」
それを聞いた明美の心中には抑えようのない怒りが込み上げてきた。女として、そこまで言われたのは初めてなのだ。明美はその女子の前に立ち、胸倉をつかんで自身の顔の高さまで持ち上げた。強い目つきで睨みつけ、低くて重い声を放った。
「あんたねぇ!ふざけんじゃないわよ!気持ち悪いのはあんたたちの方でしょう!先生の方こそ、あんたたちの顔を見るたびに吐き気がするのよ。どんだけ我慢してきたと思ってんの!」
女子は嗚咽にふるえた。明美は我に返って、手を離した。
「あっ、あーーっ・・・ご、ごめんね。あぁ、なんてことを・・・。ほんとにあなたたちのこと好きなのよ。でもね、そ、その顔だけが、どうしても長く見ていられないのよ・・・、あーもう、嫌ああああ!」
突然、教室のドアが開いた。男性の声が聞こえた。
「なんの騒ぎですか? え? あ、明美先生、そ、その顔・・・、ま、まさか・・・」
「ごめんね、みんな、先生、もうここにはいられない・・・」
明美はその男性教員を押し除けて、教室を飛び出した。そして、村の唯一の出入り口である、船着き場へ走った。幸い、監視人はいない。10艘並んだボートの一つに乗り、錨を上げて、オールをこぎ出した。
船でしかたどり着けない閉鎖的な村。この村の正確な位置はわからない。この巨大な大河の名前も知らないが、下っていけばどこかの町へ出るはずだ。
ボートが船着き場から50メートルも進んだときだった。後ろから声が聞こえた。
「おい、女が逃げるぞ!」
振り返ると、一艘のボートが追いかけてくるのが見えた。だめだ、追いつかれる。
「おい、戻れ、お前をここから出すわけにはいかない!」
ボートで追いついてきた男性と揉み合った結果、一緒に川に落ちてしまった。水面から顔を出すと、向こう岸に開けた土地が見えた。そこまで、泳ぎ切れば助かる。必死で、手足を動かした。
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目の前に、医療用の帽子とマスクを身につけた女性の顔が見えた。帽子から漏れる髪の毛に白髪が混じっている。女医さんだろうか。どうやら、自分は病院のベッドに寝かされているようだ。助かったのだろうか?
「目を覚ましましたか。ひとまず良かったですね。」
明美はお礼を言おうとした。しかし、言葉にならない。口の筋肉が動かないのだ。
「そうそう、口の周りに麻酔を打ってあるのよ。これから手術をするの。全然、痛くないから、大丈夫よ。」
女医はメスを明美に口の縁に押し当てた。明美は事情を悟ったが、体も拘束されていて動かせないことに気付いた。
「ううううぅ、ううううぅ」
「わたしたちの仲間になりましょう。あなたにはこの村にいてほしいの、子供たちもなついているしね。それにね、しかたないのよ。この村の秘密を知ってしまったら、外の世界に返すわけにはいかないのよ。私たちと同じ顔になれば、向こうにはもう戻れないでしょう。特に女性はね。悪気はないの。あなたにこの街の一員になってほしいのよ。」
「ううううぅ、ううううぅ」
「そうそう、あなたに一つ嘘をついていたこと謝るわ。村の上層部から最初に聞かされていたでしょう、この村の人たちが生まれつき、こんな口だってこと。あれ嘘。そんな人種あるかしら。みんな生まれてすぐに手術を施されるのよ。だからみんなこんな口をしているの。
川辺で倒れていたあなたの顔を見た村人は驚いたでしょうね。でもね、私も含めた上層部だけはこの村の外を知っているの。あなたたちの住む世界のことをね。上層部の人たちは定期的にあなたたちの町に船を使って買い出しに行く。もちろん、口をマスクで隠してね。あなたたちの世界で噂になった口裂け女ってのも、気の狂った上層部の一人が暴走したのです。あとでちゃんと始末しましたよ。」
「ううううぅ、ううううぅ」
「あなたも村人を見て驚いたでしょうけど、恩返しがしたい、ということでしたので、この村にしばらく残ってもらうことにしました。村人はあなたの口を見て嫌悪感を抱くでしょうから、マスクを外さないという条件でね。それと、あなたたちの世界のこと、特に口のことを村人に話さないのが約束でしたね。本来なら部外者は早急に始末するところなのよ。あなたは特別だったのです。」
「ううううぅ、ううううぅ」
「この村の歴史をまだ話していなかったわね。
数百年も前の話、当時の村長はとても美しい女性だった。村人は彼女を神のように崇めていた。それがね、対立していた隣村が交渉に来た村長を人質に取ってしまった。村人に服従を要求したが、拒んだため、彼らの目の前で村長の口を耳まで裂いてしまった。怒りに震えた村人は敵の村を根絶やしにした。そして、美貌を失って気が狂う村長を慰めようと、村人全員が口を同じように裂いた。みんなが同じ口になった。
それ以来、子供が生まれるとすぐに口を裂く風習ができた。村長が亡くなったのちも、それは変わらず、そのうちに、裂けた口が当たり前になった。ここでは、あなたたちのようなちっちゃな口が異常で醜いものと考えられている。
だから、大丈夫、あなたもすぐに慣れるわよ。」
慣れるわけがない。生後間もなく口裂け女にされて、家族も村人も口の裂けた男女の中で育った、あなたとは違う。
「ヴうううう!ヴうううう!」
明美は精一杯、叫ぼうとしたが、メスが頬を切り割く微かな痛みを感じた。覚悟を決めて、目を閉じた。
マスクを取ったときに自分の方を向いた生徒たちの驚いた顔が目に浮かんだ。驚いて開いた瞳の下、口をぽかんと開けているつもりなのだろうけど、耳まで裂かれた口は、三日月型の深くて暗い空洞を成し、今にもケタケタと笑い出しそうな、不気味でアンバランスな表情。全身から力が抜けるのを感じた。