章末話:トラウマ
シリアナはベッドの上で暇をしていた。ぽしろうをお腹に抱いて揉みしだく。
シリアナのお腹に開いた穴はティアラが塞いでくれた。「傷痕を残さないようにしようと思った」と言っていた穴は、キラキラの虹色になっていた。シリアナはそれが綺麗だから気にしていないどころか、お腹が宝石のようになってお気に入りだ。
しかし、お父様やお母様はそう思わなかったようだ。
シリアナのお腹の傷はもう本当に何でもないのに、もう一週間も部屋から出ることを許されていない。あまりにも暇すぎるので、ティアラみたいに花瓶のお花に話しかけてみたりした。しかし何も返事はなく、すぐに飽きてしまった。
「もう外に出てもいいでしょサーサ。このままじゃ頭に角生えちゃう」
シリアナが口にしたのは、部屋に引きこもっていたお姫様には角が生えていたという昔話のことだ。引きこもっていたから角が生えたのではなく、角が生えていたから軟禁されていたのだが。
「わたくしはお嬢様が大人しくしていてくれると助かりますがねえ」
サーサはシリアナの侍女だが、シリアナの世話よりもほとんど猫の世話をしていた。猫人のサビのことである。精霊姫のきまぐれで任命した猫人メイドをシリアナが気に入ってしまったため、シリアナの侍女である彼女が教育係になっていた。そんな役回りである。
「庭を散歩するくらいならいいでしょー?」
シリアナはぽしろうをぽいっと侍女サーサに投げて、ぴょいっとベッドから飛び降りた。返答を待たずに出かける気満々である。
サーサは投げられたぽしろうを保冷の魔道具にぽにゅっと押し込んだ。
「しょうがないですねえ。わたくしとサビを置いていかないようにしてくださいよ」
基本的に宮殿の方々はシリアナに甘いのであった。むしろ主人であるオルバスタ公爵の実娘シリアナよりも、精霊姫ティアラに対しての方が厳しい。シリアナのわがままは家族への甘えからくるものであり、淑女としての教育はシリアナの方が優秀だからだ。宮殿の者たちのティアラの幼少期の頃の神童さの印象は薄れ、今や奇人として見られている。しかし天才が一般教養を知らない事は多く、そういうものなのだろうとも思われていた。
「ねえサーサ知ってる? ガリガリの人からしたらどんな人でも太って見えるし、歩けないほど太ってる人からしたら、歩けるというだけで痩せてる人に見えるの。これを肥満相対性理論って言うんだって」
「またララ様からおかしな事を聞いたのですか?」
このように精霊姫が話すでたらめを妹や弟は信じてしまうから困るのである。そして精霊姫に甘いオルバスタ公爵もなんでも言うことをホイホイ聞いてしまうので、それに巻き込まれるのはいつも使いの者たちなのであった。
例えば精霊姫の言い出した、口に入れてはいけない悪い精霊がいるから手洗いするルールは今でも徹底されている。また、食事を扱うものが手を怪我した時は「オウショクブドウキュウキン」なる悪精霊が紛れ込むので仕事してはいけないことになった。水仕事で手荒れに困る給餌係はおかしな子どもの言うことを守らなくてはいけなくて大変である。
「はあーあ。部屋に閉じこもっていたから、タルトの気持ちがわかったわー」
「それは、タルト様がお聞きになられたら喜びなられますでしょう」
タルトは跡継ぎとして家の仕事の手伝いをしているが、散歩する暇もないほど忙しくしていた。主に妹二人が好き放題した後処理のためである。割合としては一般雑務が二割として、残りの案件はティアラ六割、シリアナ二割であった。せめてシリアナの分の二割が無ければタルトの目の隈は良くなることだろう。
外へ出られない鬱憤晴らしなのか、タルトは鉄の塊を上げたり下げたりしていた。どうやらそれはティアラからのプレゼントのようだ。ぷにぷに幼女が筋トレにすぐに飽きて押し付けた物であった。
「このままでいいかしら?」
「寝間着で外に出ていいわけないでしょう。はいはい、着替えますよ」
しかしシリアナは知っている。ティアラは時々ネグリジェのまま庭を散歩していることを。シリアナは理不尽に感じたが、ティアラの真似をして窓から壁を伝って外に出たら、今度は部屋の窓が開けられなくされてしまうだろう。ティアラの髪の毛と違ってシリアナの水魔法で脱出するのは少しばかり目立ちすぎることを、シリアナは理解している。
気が短いシリアナの着替えは実にスピーディーだ。熟練の着せ替え師サーサによる早着替えでネグリジェから外着になったシリアナは、サーサとサビちゃんを置いて素早く部屋から飛び出した。扉は本来は召使い、この場合はサビちゃんが開ける者だが、ここの姫様方は全く言うことを聞かない。しかも先読みして扉を開けないサビちゃんが悪いということになるので、サビちゃんは理不尽に叱られることになる。しかし猫人なのでそもそもなぜ叱られるのか分からずにふてくされて尻尾をぱたぱたするのであった。
「あっ! ララー!」
廊下に出たシリアナはティアラの姿を見つけてしゅたたたたと駆け寄った。今日は膝くらいまでのスカートである。このはしたないと言われるスカートの長さはティアラが考案したものだ。素肌が見えないように太ももまである靴下もセットである。ティアラ的にはもっと短くするともっとかわいいらしい。確かに無理やり着せられていたリルフィはかわいかった。すぐに逃げ出してしまったが。
「う、うす……」
ティアラの変わらない態度に、シリアナはぷうと頬を膨らませた。そしてティアラはそそくさとシリアナから逃げてしまう。
「アレどしたんですかぬー?」
追いかけてきたサビちゃんが耳をピクピクさせて尋ねた。サビには人の心がわからぬ。まだ情操教育中である。
「わかんない。むうー」
シリアナもなぜ自分が避けられているかわからなかった。多分差し入れの蜂蜜ケーキを全部食べてしまったから怒っているのだと思う。
シリアナはサビちゃんのしっぽをもぎゅもぎゅ握った。もにゅもにゅしているものを触っていると心が落ち着くのだ。サビちゃんは魔の手から逃れ、しっぽでシリアナの手の甲をぺちんと叩いた。
「待てサビー!」
サビちゃんは二階の窓からぴょんと飛び降り、シリアナもそれに続こうとする。しかしサーサに止められてしまった。シリアナはそれを振り切ってまで追いかけようとはしない。ティアラと違って常識人なのだ。
しかし玄関へ向かう足は淑女らしくない早足となった。今日は久しぶりに庭でサビちゃんと追いかけっこをしようと考えている。
「あれ? 外へ行くのアナ?」
本を抱えたリルフィに声をかけられて、シリアナは足を止めた。
「リルフィはまた部屋で本を読んでいるの? 頭に角生えちゃうよ」
「角……?」
リルフィは自分の頭をぺたぺた触った。それを見てシリアナはひゃははと笑う。そしてリルフィはからかわれたと気付いて「んもー」と漏らす。
シリアナはリルフィの手を引っ張った。
「ほら、リルフィも散歩しようよ」
「ええ……。強引だなあ」
そう言いつつもリルフィも断るつもりはなく、いい機会だと思っている。リルフィはなるべく人に会わないように言われている。自身は少し複雑な女の子だと理解しているからだ。実際は付いているのだが。その辺りも含めて、自身はただ変わった存在なのだと思っている。特に従弟に魔法器官を持つ魔人であるアルテイルがいるのもあって、そういうこともあると納得している。
「メオシー、いいよね?」
リルフィの侍女が、鋭い目のまま無言でうなずく。殺し屋で暗殺者のような風貌の彼女は、見た目そのまま本職の暗殺者であった。もちろんリルフィの暗殺者を狩るための暗殺者である。暗殺者カウンターである。要職の侍女たるもの、主人を守る力は当然必要なのである。ティアラが言うにはエスピーと言うらしい。
シリアナはメオシーをちらりと仰ぎ見て、そしてすぐに目を逸らした。傍若無人少女のシリアナでも苦手な物があった。それはメオシーの鷹の目のような眼差しであった。子どもの本能的に恐れているのかもしれない。ティアラですら苦手と言っているメオシーを侍女に置いて平気な顔をしているリルフィが、シリアナにとって不思議であった。一度ママに言って違う人にする提案を勝手にしたこともあった。しかしリルフィの侍女は彼女が良くて、彼女でなくてはいけないらしい。
しかしママからそう言われてなお、シリアナのお姫様少女ヒロイン力が彼女を怪しいと睨んでいた。暑い日でも肌を晒さない彼女をいつか脱がしてやろうと企んでいた。もしかしたら魔術師の墨が体に入ってるかも知れない。もしそれを見つけて報告したら、きっとみんなに褒められるだろう。そうシリアナは思いつつも実行にはなかなか移せなかった。メオシーはいつまで経っても隙を見せない。偶然シリアナの水魔法が彼女にぶっかかってメイド服がずぶ濡れになった時はチャンスだと思った。しかしそれは余計に彼女を警戒させることとなったのだ。それ以前にリルフィからなかなか離れないので難しい。リルフィを怒らせるとなぜかティアラの機嫌も悪くなって大変なのだ。
やれやれ。シリアナは姉と妹のご機嫌取りをしないといけない悩み多き二女なのである。
「ティアラ姉さまは誘わないの?」
「さっき会ったけど逃げられちゃった」
「そうなの? まだ気にしてるの……」
リルフィは、ティアラがシリアナを避けている理由を知っているが、シリアナには教えていなかった。リルフィは「これはララ姉さまの問題だから」と言ってはぐらかしていた。シリアナも「ララの問題じゃしょうがないね」とそれ以上追及はしなかった。
姉妹でも言いにくいことはあるのだ。例えば、なぜ姉妹の中でリルフィだけが身体の作りが違うのか、などだ。ティアラが「付いてる方がお得感」と言っているのを聞いて、シリアナはなんだか損している気分になった。
それはさておき、二人は玄関に着いた。今度はサビちゃんがささっと玄関扉を開けた。さすがのシリアナも部屋の扉と違って玄関を自分で勝手に開けたりはしない。それをするのはティアラくらいだ。それなのに、ティアラの侍女のソルティア嬢が叱られているところを、サビちゃんは見たことがなかった。サビちゃんはそれを思い出し「ゲセヌ」と呟いた。そんな日本語を教えたのはもちろんぷにぷに幼女だ。
開かれた玄関から差し込む光を、久しぶりに目の当たりにしたシリアナは目がくらくらっとした。ティアラはこれを「メイジュンノウ」と言っていた。目の筋肉がきゅきゅきゅっと動いて目に入る光の量を調節するのにちょっとだけ時間がかかるというのだ。そしてティアラ曰く、近くのものばかり見てると外の光を見ただけで目と頭が死ぬようになるらしい。きっと本ばかり読んでいるリルフィは、いつかお外に出られなくなるのだろうなとシリアナはそれを聞いて考えていた。あるいはタルトが先か。
しかし、先に目と頭が死ぬ経験をしたのはシリアナ自身が最初であった。
サーサはさっとシリアナの身体を支えた。
「あれ? あれれれ?」
「立ち眩みでございますか? 部屋に閉じ込めすぎたのかもしれませんねえ。シリアナ様が深窓のお姫様になられるとは」
それを聞いたリルフィはぷっと吹き出した。
「アナ姉さまが休養なされてたのはたかが一週間だけでしょ。すぐにまた手が付けられなくなるよ」
リルフィはそんな軽口を叩くが、シリアナからの文句の返事はない。それどころかシリアナは胸を押さえて荒く呼吸をしていた。その様子に気付いたリルフィは慌てて「大丈夫?」と顔を覗き込む。
「うん。なんだろう。ララの言ってたネッチューショーかな?」
「もう外の風は涼しいよ。おでこも熱くないし」
「それならきっと平気ね」
シリアナは両手を挙げてぴょこんと立ち上がった。しかしその顔からは汗が珠になっており、普段と様子が違うことは明らかであった。
サーサは「散歩はまた後日にいたしましょう」と提案するも、シリアナはずんずんと外へ歩むも、庭へ七歩ほど進んだところでうずくまってしまった。
「ら……ら……」
サーサに担がれながら、シリアナはティアラに助けを求めた。
――ララ姉はいつでもアナが困った時に駆けつけてくれるんだ。
しかしぽんこつぷにぷに幼女は遠巻きにおろおろしているだけであった。